第2話 竜の棲む湖

 まるで、別世界に踏み込んでしまったかのような心地に襲われる。


 この先になにかある…、もしかしたら兄貴たちが話していた化け物がいるのか。

 恐れる感情を振り払い、なんとか一歩、また一歩と前へと進んでいき、ついに藪から出ることができた。


「うわぁ!」


 キラキラと光る水面、周りを囲む自然の花々。こんなきれいな場所があったなんて、沈んでいた心が高鳴っているのを感じた。


 しばらく見とれていたのだが、じくじくと痛む膝で現実に引き戻された。そうだ、僕はここに傷を洗いにきたのだ。履いていた靴を脱ぎ捨てて、水の中に入ろうと足先をつけたその時だった。


『駄目!』

「えっ、うわ!?」


 声に驚き、後ろに倒れこむ。すると、誰かの手が支えとなり、地面に頭をぶつけることなかった。


「あっ、ありがとう。」


 お礼を伝えようと顔をあげると、そこには不思議な色をした大きな瞳と目があった。布で口元を隠す青年らしき彼は何も言わず、僕が完全に体勢を戻すとすぐに距離をとる。


 その隣にいたのは、大きな…大きな…、


「竜…。」


 綺麗だと思った。伝承でしか聞いたことない、空中に浮き、身体は鱗で覆われている。こちらを見下ろして、口を開けば大きな牙をのぞかせていた。


 どうやら僕はとんでもないところに迷い込んでしまったらしい。

 現実離れしたこの地は、おそらく竜が支配する領域だろう。人が足を踏み入れるなど、許されるわけがなく、本来ならすぐに立ち去るべきだ。


 でも僕には、かつて雷鳴の中で見た竜の姿を頭に思い浮かべた。あの時見たものとは異なるが、目の前にもう一度会うことを願った存在が確かにいるのだ。畏敬の念から、膝が自然に地面につく。そして頭を垂れて、言葉を発した。


「勝手に入ってしまい、申し訳ございません。」


「……。」


 青年が腰にある剣を抜き、僕の顔の横につきつけてくる。少しでも変なことをしたら、首を斬られるだろう。こんな状況なのにも関わらず、頭が回り続けるのは兄たちからの躾とは名ばかりの仕打ちに耐えてきた故である。


 初対面の相手にそんなことを考えるのだって失礼極まりないが、命の危機に身体が動いてくれたのは良かった。

 青年もすぐには殺すことはしないようで、剣の位置は変えずに立っている。その時、彼とは異なる声が聞こえてきた。女性であるが、幼い印象を受ける。


『名前は。』


「オ、オークスと申します。」


『……貴方は、ここを荒そうとはしていないの。』


「は、はい、勿論です。」


 脳内に直接響くような不思議な声。竜の方が発する言葉に、肩を揺らしてしまうが、我慢する。僕が伏せている頭上に影が迫る。


 そして、牙を見せることなく、じっとこちらに向けられる視線。額から汗がこぼれるが、拭き取ることなく耐え続ける。沈黙の後、ついに竜の方が口を開いた。


『顔をあげて。』


 その通りに動けば、先ほどの大きな巨体は姿形を隠していた。一体、どこにいったのだろうと、辺りを見渡す顔の動きを一つの手が止めた。僕の頬に触れたのは、人の手のはずだがとても冷たい。


 目が合ったのは、僕よりも少し背の高い女の子だった。真っ直ぐにおろされた髪と縦に瞳孔が伸びる瞳から、人ならざる雰囲気を感じた。彼女の額には角があり、背中の方には尾をのぞかせる。そこで気が付いた、この女の子は先ほどの竜だと。


 でもなんで、僕の顔に触れているんだろう…?そう疑問を抱く僕を他所に、さらに、竜の方はもう一つの手も反対の頬にそえて、軽く押してみたり、引っ張ってみたりしている。


 僕は何か意味があるのだろうと、無抵抗で受け入れていた。そっと手が離されて、竜の方は淡々と告げる。


「まだ戻れるでしょう、お願い。」


「…承知した。」


 二人は何の話をしているんだと考えていると、剣を納めた青年が、突然首根っこをつかまれて足が地面から遠ざかる。


「うわ!?」


「ここは、人が来るところじゃない。道までは届けてやる。」


「そ、それにしたって、やり方が…って待ってください!降ろして!」


「騒がしい、口を閉じていろ。」


 問答無用と歩き出されるが、ばたつかせる足を止めることはできない。急に持ち上げられたら驚くに決まっている。

 それに、目的地も分からないまま、連れてかれるのが恐ろしいのだ。僕が叫ぶのに苛立ちを隠そうとはせずに、彼が掴んでいた手を離したことで、そのままお尻から落下した。


「!いてて…、ん?あれ…。」


 侵入者に対して扱いが乱暴だと思いながら立ち上がろうとしたとき、異変に気が付いた。


 片足が動かないのだ。痛みというか、先の感覚が消えていると言ったほうが適切だ。力をいれようにも、上手くいかない。


 僕が試行錯誤している間、竜の方が僕の足先に手をかざす。そういえば、湖に足先だけ触れてしまったはず。よく観察してみると、僕の足は、皮膚が赤黒くなり、石のように固くなっていた。


「足が、なんだこれ?」

「水に触れてしまったから、呪われてしまったのね。」

「呪い?」


 竜の方は、顔色一つ変えず僕の傷のところを触る。でも、きちんと質問の答えを説明してくれた。


「この湖は人が触れてはならぬもの、それは人の身体に害となるから。…でも、止められなかった私にも責任はある。…アーノルド。」


 竜の方が呼んだその名は、先ほど僕を持ち上げた人のものらしい。その人は一度目を逸らし、目を閉じると、竜の方に頭を下げた。


「…水竜様の御意思を。」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る