第2話


 枯れた平原に緑が増えて来た。

 北の寒気がまだここまでは届いていない。

 遠くまで草原が広がっている。


 その、何もない草原の遠くにポツンと一つ姿が見えた時、

 荀彧じゅんいくは思わず、心の底からの舌打ちが出た。


 馬に合図を入れ飛ばして行く。


 

「――馬鹿ですか! 貴方は!」



 出会い頭に怒鳴っていた。


夏侯惇かこうとん将軍は!」

「久しぶりに下邳かひの方を見たいとか言ってそっち行った」


「遠乗りで誰がこんな合肥がっぴまで来ていいと言いましたか!

 ここは孫呉そんごの勢力圏でもあるんですよ! しょくの間者だって紛れているはずですし、私が間者なら、今すぐ貴方を弓で狙いますよ! 護衛を付けず一人でこんな……身を隠す場所もない草原をフラフラと……」


元譲げんじょうがな。

 お前を呼んでも、もう来ないと言っていたが。

 賭けは俺の勝ちだな」


 曹操そうそうが笑っている。

 荀彧は目を瞬かせたが、すぐに嫌そうな顔をして背けた。


「勝手なことを……今、曹魏がどういう時期かよくご存知でしょう。

 貴方を失えば大きな混乱が起きる。大切な時期です。余計な行動は控えてください。

 別に長安ちょうあんにずっといろとも言いませんし、護衛を十分連れてくだされば外遊も結構です。簡単なことでしょう」


「どうしても長江ちょうこうを見たくなってな。昨日は元譲と一日中釣りをした」


「暇な魏公ぎこうですね! 帰りますよ! 北に護衛団は連れて来ていますから」


 荀彧じゅんいくは忌々しそうに言うと、馬に合図を入れて歩き出す。


「俺は荀彧なら叱りに絶対来ると言ったんだが、元譲は来ぬと。

 俺なら絶交したら、お前を迎えになど一生来ないと言っておったわ」


 荀彧は曹操の臣下だ。

 夏侯惇かこうとんは曹操の従兄弟で、親友なのだ。

 友として絶交しようと、荀彧は曹操を蔑ろにすることは許されない立場なのだ。

 それを逆手に取ってこんなことをする曹操が、卑怯に思えた。

 

「私が迎えに来て、満足ですか。殿。

 私が貴方に逆らう権利のない、膝をつくべき臣下であることを、今一度思い知らせようと?」


「荀彧と話がしたかっただけだ」


 背中に曹操の声を聞いた。

「城では、お前はもう俺と向き合ってはくれんからな」

「……呼んで頂ければ参りますよ。少なくとも、こんな場所に出てこられるよりはずっとマシです」

「それは向き合ったとは言わん」


「どうあっても、私は貴方を許せません。

 貴方も私を許せないはずです。

 許せない二人が本気で向き合えば、殺し合いになる。


 ――郭嘉かくか殿の気持ちを考えて下さい。


 あの人は必死に、病魔と戦い戻って来たんです。

 病床では貴方と再び共に戦うことが、支えだったはず。

 私と貴方が殺し合ったら、もう一度彼に地獄を味わわせることになる!」


 曹操は嘲笑した。


「論点をずらすな。荀彧。

 郭嘉はお前より、むしろ俺に近しい。

 一度地獄の味を覚えたなら、奴はそれを恐れたりせん」


 荀彧は馬を止め、厳しい表情で曹操を振り返った。


「貴方らしい考察ですね。曹操殿。

 貴方は貴方の基準で他人を位置づける。

 どれほど苦痛に耐えるか、貴方の目測で推し量る。

 耐えきらなくても貴方は構わないんです。

 それだけの人間だったのだなと自分が失望すれば、話が終わると思ってる。

 見放された人間の傷のことは、全く考えない」


「そういう人間だと知っていてここまでついてきたのではないのか。荀彧」


「……その通りです。

 今まで幾人も、貴方の許から去る人間を見て来た。

 私もその時期が来た。そういうことでしょう」


「郭嘉の望みはな。

 俺にも、お前にも、自分を偽わらないでいて欲しいということだ。

 俺は魏公になり、お前はそれを許容しなかった。

 それが互いに選んだ道なら、いいのだ。

 ――荀彧。受け取れ」


 曹操が放って来た。


合肥がっぴにいる妙才みょうさいから貰って来た」


 手の中に入った、白虎びゃっこを象った護符を見る。


「親しき臣下が側を離れる時は、何か主君の身につけているものをやるのが礼儀だと言われてな。かといって、俺のものはお前はもう受け取らんだろうし。

 それは典韋てんいが身につけていた護符だ。

 許都きょとに行く餞別に、持って行け」


 荀彧は顔を上げた。


「お前に礼を言っていなかったと思ってな。

 お前とは、董卓とうたく袁紹えんしょうと遣り合っていた頃からの付き合いだ。

 よって完全にお前は俺達の一味だが。

 ……だが俺と元譲げんじょう妙才みょうさいだけだったら、今頃どこに向かっていたか分からん。

 お前がいたから、俺は成すべき道から大きく外れなかったのだと思っている。


 魏公ぎこうのことは、もう気に病むな。


 俺は許より気にしていないが、お前はクソ真面目だからどうせいつまでもぐじゃぐじゃと気に病んでいるんだろうが。

 お前は何があっても俺について来た。

 許せないことは度々あっただろうが、許して、ずっとここまで。

 そのお前が今回は俺を許さなかったのだから。

 それは正しいことなんだ」


 なんで私が魏公のことを気に悩まなきゃならないんだと思った。

 気に悩むべきは貴方の方だ。

 私は別に貴方のこれからの在りように、何一つ悩んでない。

 そういう立場は終わったんだと言ってやりたかったのに、

 言葉が出てこなかった。


 ただ、睨み付けることしか出来ない。


 言葉を掛ける意味。

 言葉を飲む意味。


 色んな思いが浮かんでくる。


「……。」


元譲げんじょうに、別れを言うのは止めろと言われた。

 自分が必死に怒って別れを決断したものを、

 優しく許される方が後味が悪くなるからとな。

 だが一番後味が悪いのは、このまま何も言わず死に別れることだろう」


 曹操そうそうの馬が、勝手にゆっくりと歩き出した。


文若ぶんじゃく。ここまで俺について来てくれたこと、礼を言う」


 風が、吹き抜けて行った。



 草原の緑が揺れている。




「……私も貴方にお礼を」




 馬が立ち止まった。


「……共に生きてくれた礼を、まだ貴方に言ってないと思っていました。

 怒るばかりで、忘れてしまっていた。

 魏公ぎこう就任を反対したことは悔いはないですが、礼節を欠いていることに気付いた。

 ……尤も貴方には、

 形式だけ整える私が愚かに見えるかもしれませんが。


 ですが――こんな下らない悪戯で、私をここまで呼び出したからには、

 言わせて頂きます。


 公達こうたつ殿と以前話したのです。

 貴方という、鮮烈な星の側で、私は焼かれながら生きて来た。

 己を犠牲にし、貴方の大望のために。

 焼け爛れた中で、たった一つ私に残っていたものが、帝という権威を貴方から守ることだった。

 それを奪われたら、私は燃え尽きて何も残っていなかったでしょう。

 

 曹丕そうひ殿もそうです。

 あの方も貴方の側で、幼い頃から何かを失いながら生きて来た。

 苦しみを背負った方ですが、私は恐らく理解して差し上げることが出来ると思います。

 乱世を完全に鎮め、大人達が始めた悪しき時代を終わらせる。

 

 貴方と分かり合えなかったことに絶望しましたが、

 ……道は完全に別れてはいないと気付いたんです」


 話し続けた荀彧じゅんいくが最後だけ言葉を緩めると、曹操は小さく息をついた。



「――曹魏の『導きの星』は、お前だ。荀彧」



 荀彧は息を飲む。


「俺じゃない。

 王宮の奥で燻って、普通の文官どもが出来るようなことに時間を割くな。

 お前は許都きょとに行き、次の王を支えろ。

 お前は【王佐おうさの才】なのだから」


 曹操そうそうが振り返って小さく笑んだ。


「実は元譲げんじょう下邳かひに向かったというのは嘘だ!

 お前が暗殺されるだろう一人で草原を帰るなどふざけるなと猪のように暴れ回ったから薬を盛って幽閉して来た。

 お前と二人だけで草原を駆けて戻りたかったからな。

 あいつは常に俺の後ろに張り付くから、邪魔なんだ時々」


 荀彧が目を丸くする。

 その拍子に右の瞳から一つ、涙が零れた。



「……酷いことを言いますね」



 慌てて顔を伏せ、誤魔化すように苦笑して手の平をやると、そこに次々と雫が落ちた。

 止まらなくなる。


 人生の選択に、何一つ悔いは無い。

 それでも、この人と最後まで共に歩み続けたかった。


 今までのように。


 ……それだけは確かだ。




「彼や、郭嘉殿や、

 …………私がどんなに……、

 ……貴方を大切に思ってるか……」




 知りもしないで、と言葉尻が震えて消える。


「北に連れて来た護衛団は先に帰せ、荀彧じゅんいく

 じゃなきゃ何のために元譲げんじょうが牢に繋がれてるのか分からなくなるだろ」


「……っ!

 ――――早く解放してあげなさいよ! 

 馬鹿じゃないの!」


 後ろから飛んで来た久しぶりの罵声に、曹操が声を出して笑う。

 

 昔、街でくだらない――小さな徒党を組んで、悪さをしていた頃。

 自分や夏侯惇を叱りつけるのは荀彧の役目だった。

 

 私は悪さの片棒なんて絶対に担がない! と彼は言って、あんな悪い連中とは関わらないと思うのではなく、そんなことはするなと叱り飛ばしながらついて来た。

 あいつ名門の小僧のクセに面白いなと曹操が夏侯惇かこうとんに言うと、吹き出していたから同じ事を思っていたのだろう。 


 何もないところから立つのは、難しい時代だった。

 だから曹操も、曹一族から旗揚げの時に、親から譲られたものはたくさんあるから、全ての悪徳を非難できない。

 自分の一族も、漢王室の腐敗に通じている。

 曹操は小さい頃「正しさ」を、教えてくれる存在が誰もいなかった。



 ……本当に正しく生きることや、清廉であることの大切さは、

 荀彧に出会ってから教えられた。



 そう思っている。


 大切な友。

 ずっとこうして一緒に駆けて来た。


 この果ての無い、乱世を。

 

 果てを目指して共に。




「お前とは最後の野駆けだ。真剣に付き合えよ、荀彧!

 運動不足のお前が馬から無様に転がり落ちたら指差して笑うからな」




「誰が運動不足の荀彧ですか! 働いていますよ!」


 共に夢中で駆けて来て、

 どんなに幸せだったかを荀彧に伝えたくて、曹操は本気で馬を追った。

 肩越しに振り返ると、風が思い切り顔に吹き付けるのを嫌がる顔で、それでも荀彧はついて来ている。


 曹操は嬉しかった。



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