第2話
枯れた平原に緑が増えて来た。
北の寒気がまだここまでは届いていない。
遠くまで草原が広がっている。
その、何もない草原の遠くにポツンと一つ姿が見えた時、
馬に合図を入れ飛ばして行く。
「――馬鹿ですか! 貴方は!」
出会い頭に怒鳴っていた。
「
「久しぶりに
「遠乗りで誰がこんな
ここは
「
お前を呼んでも、もう来ないと言っていたが。
賭けは俺の勝ちだな」
荀彧は目を瞬かせたが、すぐに嫌そうな顔をして背けた。
「勝手なことを……今、曹魏がどういう時期かよくご存知でしょう。
貴方を失えば大きな混乱が起きる。大切な時期です。余計な行動は控えてください。
別に
「どうしても
「暇な
「俺は荀彧なら叱りに絶対来ると言ったんだが、元譲は来ぬと。
俺なら絶交したら、お前を迎えになど一生来ないと言っておったわ」
荀彧は曹操の臣下だ。
友として絶交しようと、荀彧は曹操を蔑ろにすることは許されない立場なのだ。
それを逆手に取ってこんなことをする曹操が、卑怯に思えた。
「私が迎えに来て、満足ですか。殿。
私が貴方に逆らう権利のない、膝をつくべき臣下であることを、今一度思い知らせようと?」
「荀彧と話がしたかっただけだ」
背中に曹操の声を聞いた。
「城では、お前はもう俺と向き合ってはくれんからな」
「……呼んで頂ければ参りますよ。少なくとも、こんな場所に出てこられるよりはずっとマシです」
「それは向き合ったとは言わん」
「どうあっても、私は貴方を許せません。
貴方も私を許せないはずです。
許せない二人が本気で向き合えば、殺し合いになる。
――
あの人は必死に、病魔と戦い戻って来たんです。
病床では貴方と再び共に戦うことが、支えだったはず。
私と貴方が殺し合ったら、もう一度彼に地獄を味わわせることになる!」
曹操は嘲笑した。
「論点をずらすな。荀彧。
郭嘉はお前より、むしろ俺に近しい。
一度地獄の味を覚えたなら、奴はそれを恐れたりせん」
荀彧は馬を止め、厳しい表情で曹操を振り返った。
「貴方らしい考察ですね。曹操殿。
貴方は貴方の基準で他人を位置づける。
どれほど苦痛に耐えるか、貴方の目測で推し量る。
耐えきらなくても貴方は構わないんです。
それだけの人間だったのだなと自分が失望すれば、話が終わると思ってる。
見放された人間の傷のことは、全く考えない」
「そういう人間だと知っていてここまでついてきたのではないのか。荀彧」
「……その通りです。
今まで幾人も、貴方の許から去る人間を見て来た。
私もその時期が来た。そういうことでしょう」
「郭嘉の望みはな。
俺にも、お前にも、自分を偽わらないでいて欲しいということだ。
俺は魏公になり、お前はそれを許容しなかった。
それが互いに選んだ道なら、いいのだ。
――荀彧。受け取れ」
曹操が放って来た。
「
手の中に入った、
「親しき臣下が側を離れる時は、何か主君の身につけているものをやるのが礼儀だと言われてな。かといって、俺のものはお前はもう受け取らんだろうし。
それは
荀彧は顔を上げた。
「お前に礼を言っていなかったと思ってな。
お前とは、
よって完全にお前は俺達の一味だが。
……だが俺と
お前がいたから、俺は成すべき道から大きく外れなかったのだと思っている。
俺は許より気にしていないが、お前はクソ真面目だからどうせいつまでもぐじゃぐじゃと気に病んでいるんだろうが。
お前は何があっても俺について来た。
許せないことは度々あっただろうが、許して、ずっとここまで。
そのお前が今回は俺を許さなかったのだから。
それは正しいことなんだ」
なんで私が魏公のことを気に悩まなきゃならないんだと思った。
気に悩むべきは貴方の方だ。
私は別に貴方のこれからの在りように、何一つ悩んでない。
そういう立場は終わったんだと言ってやりたかったのに、
言葉が出てこなかった。
ただ、睨み付けることしか出来ない。
言葉を掛ける意味。
言葉を飲む意味。
色んな思いが浮かんでくる。
「……。」
「
自分が必死に怒って別れを決断したものを、
優しく許される方が後味が悪くなるからとな。
だが一番後味が悪いのは、このまま何も言わず死に別れることだろう」
「
風が、吹き抜けて行った。
草原の緑が揺れている。
「……私も貴方にお礼を」
馬が立ち止まった。
「……共に生きてくれた礼を、まだ貴方に言ってないと思っていました。
怒るばかりで、忘れてしまっていた。
……尤も貴方には、
形式だけ整える私が愚かに見えるかもしれませんが。
ですが――こんな下らない悪戯で、私をここまで呼び出したからには、
言わせて頂きます。
貴方という、鮮烈な星の側で、私は焼かれながら生きて来た。
己を犠牲にし、貴方の大望のために。
焼け爛れた中で、たった一つ私に残っていたものが、帝という権威を貴方から守ることだった。
それを奪われたら、私は燃え尽きて何も残っていなかったでしょう。
あの方も貴方の側で、幼い頃から何かを失いながら生きて来た。
苦しみを背負った方ですが、私は恐らく理解して差し上げることが出来ると思います。
乱世を完全に鎮め、大人達が始めた悪しき時代を終わらせる。
貴方と分かり合えなかったことに絶望しましたが、
……道は完全に別れてはいないと気付いたんです」
話し続けた
「――曹魏の『導きの星』は、お前だ。荀彧」
荀彧は息を飲む。
「俺じゃない。
王宮の奥で燻って、普通の文官どもが出来るようなことに時間を割くな。
お前は
お前は【
「実は
お前が暗殺されるだろう一人で草原を帰るなどふざけるなと猪のように暴れ回ったから薬を盛って幽閉して来た。
お前と二人だけで草原を駆けて戻りたかったからな。
あいつは常に俺の後ろに張り付くから、邪魔なんだ時々」
荀彧が目を丸くする。
その拍子に右の瞳から一つ、涙が零れた。
「……酷いことを言いますね」
慌てて顔を伏せ、誤魔化すように苦笑して手の平をやると、そこに次々と雫が落ちた。
止まらなくなる。
人生の選択に、何一つ悔いは無い。
それでも、この人と最後まで共に歩み続けたかった。
今までのように。
……それだけは確かだ。
「彼や、郭嘉殿や、
…………私がどんなに……、
……貴方を大切に思ってるか……」
知りもしないで、と言葉尻が震えて消える。
「北に連れて来た護衛団は先に帰せ、
じゃなきゃ何のために
「……っ!
――――早く解放してあげなさいよ!
馬鹿じゃないの!」
後ろから飛んで来た久しぶりの罵声に、曹操が声を出して笑う。
昔、街でくだらない――小さな徒党を組んで、悪さをしていた頃。
自分や夏侯惇を叱りつけるのは荀彧の役目だった。
私は悪さの片棒なんて絶対に担がない! と彼は言って、あんな悪い連中とは関わらないと思うのではなく、そんなことはするなと叱り飛ばしながらついて来た。
あいつ名門の小僧のクセに面白いなと曹操が
何もないところから立つのは、難しい時代だった。
だから曹操も、曹一族から旗揚げの時に、親から譲られたものはたくさんあるから、全ての悪徳を非難できない。
自分の一族も、漢王室の腐敗に通じている。
曹操は小さい頃「正しさ」を、教えてくれる存在が誰もいなかった。
……本当に正しく生きることや、清廉であることの大切さは、
荀彧に出会ってから教えられた。
そう思っている。
大切な友。
ずっとこうして一緒に駆けて来た。
この果ての無い、乱世を。
果てを目指して共に。
「お前とは最後の野駆けだ。真剣に付き合えよ、荀彧!
運動不足のお前が馬から無様に転がり落ちたら指差して笑うからな」
「誰が運動不足の荀彧ですか! 働いていますよ!」
共に夢中で駆けて来て、
どんなに幸せだったかを荀彧に伝えたくて、曹操は本気で馬を追った。
肩越しに振り返ると、風が思い切り顔に吹き付けるのを嫌がる顔で、それでも荀彧はついて来ている。
曹操は嬉しかった。
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