花天月地【第59話 別れの白菊】

七海ポルカ

第1話




 長安ちょうあんの王宮。



 その日も、荀文若じゅんぶんじゃくの日常は穏やかだった。


 時折過去を思い出すと、心安まる時など一瞬たりとも無いような、そんな時代に生きていたのに、いつの間に世はこんなに平和になったんだとそう思ってしまう。 

 実際にはまだ世は乱世の中にあり、漢王室の民である大陸の人々の暮らしは、都を離れれば離れるほど貧しく、穏やかな人生などになっていない。

 では何故自分はこれほど今、穏やかな時を感じているのか。


 ――国の政の中枢に関わっていないからだ。


 人間は見える世界を自分の世界だと捉えるものである。

 荀彧じゅんいくでさえ必要最低限の範囲のことしか見ずにいれば、長安での日々は穏やかで、きっと他の世界もそうであると錯覚出来るのだ。



 荀彧の位は長安の城においても魏軍においても、未だに高いままだ。

 


 曹魏の実権は曹操そうそうから曹丕そうひに移りつつあるが、その曹丕は曹操時代の腹心、重鎮達も変わらない自らの天秤に掛け、引き続き使える者は使い、使えそうに無い者は容赦なく任を解いている。

 

 涼州遠征軍が出発してから、許都きょとに戻った曹丕は王宮内の粛正の動きを活発化していた。

 そんな中でも曹丕は、曹操の腹心だった荀彧はそのままの位に据え置き、特に何も言って来ない。

 

 曹丕とは、荀彧は不思議な距離感を持って来た。

 

 曹操の側にいると、時々姿を見かけた。

 彼の喜びや、苦しみも見て来た。

 だが臣下として以上の親しみを以て言葉を掛けたことは、驚くほどない。

 

『眺めて来た』


 そんな表現が一番正しいと思う。

 曹丕は夏侯惇かこうとんを毛嫌いしているが、それは彼が曹丕を幼い頃から知っていて、何かにつけて「子桓しかん」と呼び、曹操の代わりに声を掛けてきたからなのだ。

 もう一人の父親のように思えて、忌々しいのだと思う。



(不思議なものだ)



 夏侯惇自身が曹操の側を離れることはないとはいえ、

 曹丕そうひも、夏侯惇の武官としての実力は疑いようもなくても、今後自分の傍らに置いて重用するようなことは無いと思う。

 曹丕の考え方は全ての才が、代替は出来るという考え方だった。


 唯一の才を重用した曹操と、真逆だ。


 曹丕も優れた才には敬意を払うが、代替出来ないとは考えていない。

 それゆえにただ一人で複数を補える才は素晴らしいものだと理解している。

 いなくなれば、相応の人数で対応させる。


 曹操も手段としてそれは把握していたが、やりようはもっと渋々やる感じだ。


 曹丕は一つの才に拘ることを疎んでいる所があった。

 勿論それは、王としては悪徳というわけではない。

 人材に拘るのはいい王の素質ではあるが、

 あまりに一つのことに拘りすぎると国を傾けるのが王でもあるのだから。


 この世の全ては代わりが出来る。

 曹丕は揺るぎなく、そう考えていた。


 ……自分自身でさえ、幼い頃からいつでも替えが利く存在だと、父親に思われて生きて来た、彼ならではの考え方だと思う。


 荀彧も、帝という存在以外はこの世の全ては替えが利くと思っていたので、曹丕のそういう考えを――父親と異なる考え方の多い彼を批判する気はなかった。


 曹操の側にいて、

 従事して来たのは同じなのに、

 曹丕と言葉を交わして来た夏侯惇かこうとんは政から遠ざけられ、

 曹丕に声を掛けて来なかった自分はそのまま政治の中枢に据え置かれている。


 分からないものだ。


 言葉とは何なのだろうと近頃考える。

 他人に言葉を与えるとは、どういう意味があるのかと。


 人を固く結びつけもし、

 結局、深く、分け隔てるものでもある。




 ……曹操そうそうとは。

 長い時を経てお互いがどういう物の考え方をしているか、言わずとも分かるところまで来ていた。

 夏侯惇は、曹操と物の考え方が全て同じではないが、彼には圧倒的な「曹孟徳そうもうとくと共に行く」という意志がある。物事の判断はその意志の下に常に置かれ、曹操が何をしても共について行き、曹操の言動が気に入らなかったりしても、文句を言うのは全てが終わったあとだった。

 例え激怒するような事をさせられても、夏侯惇は「もう過ぎたこと」という領域に物事を置くことで、全ての未練を断ち切っている。


 曹操と共に行くために身につけた処世術なのだと思う。


 彼は十代の頃から知っているけれど、確かに最初の方はもう少し何かを始める前に俺に相談しろだとか、そんなことは嫌だ俺はやらん! とか、そういうことで曹操と殴り合い掴み合いをしていた気がする。

 それでも曹操は自分がやろうと思ったことを必ずやる男だったので、いつしか夏侯惇は諦めたのだ。


『こいつには何を言っても無駄だ』


 そして全てを受け入れるようになった。


 荀彧じゅんいくもある程度はそういう部分は持っていた。

 曹操が間違っていると思ったり、もっといいと思う案があれば包み隠さず意見もした。

 曹操がそういう役目として自分を求めていることも分かったから、自信もあった。

 荀彧まで夏侯惇のように全てを受け入れて何も言わなくなったら、恐らく曹操は荀彧に失望しただろう。

 

 だから荀彧は曹操を批判することも、彼と違う意見を持つことも、

 恐れず出来た。


 お前はそうあれと曹操が望んだから。


 曹操と魏公ぎこう就任を巡って亀裂が決定的になった時、

 来るべき時が来たという想いと、

 本当にそうなったという驚きと、

 どっちもあった。


 つまり、

 曹操がいつも通り我を通してくるか、

 一生に一度自分に譲り、価値のないものの為に信頼を裏切らないことを選ぶ、そんな決断をしてくれないか、そう祈ってもいた。

 でもそれを言葉に出したことはなかった。


……言葉に出せば良かったのだろうか?


 もっと以前から言い募っていれば良かったのか、

 酒を飲むたびに、貴方が帝になったら私は隠居するぞと脅しをかけ続けていれば良かったのか、

 

 ……笑いながら。


 お願いだからそれだけはさせてくれるなと、言って来ていれば、

 何かがまだ変わっていたのだろうか。



 自分は何がこれほど許せないのだろうと、

 曹操が魏公ぎこうになる前は汚らわしく思うほどそうなった時のことを想像し、憎んでいたのに実際そうなってみると、曹操は以前と何も変わらず過ごしている。

 王になっても、彼は彼のままだ。

 やたら媚び諂ってくる周囲を嫌い、重いだけの権威の道具を身につけることを嫌い、自分の馬も、剣も、衣も、今も自分の手で選び、好んだものだけ身につける。

 民というものの捉え方も、何も変わらない。


 彼がそういう王になることを、自分は知っていた。

 今までの曹孟徳そうもうとくと何も変わらないのだから、

 さほどのことだと思わないようにすればいい。もし何か、思い上がって変わるようなことがあれば、その時掴み合いの喧嘩でもすれば良かったのではないか。


 お前は小さな、下らないことに拘っていると曹操の目は語っていた。


 帝という権威に対する畏怖。


 荀彧がそれを見せる時だけ、昔から曹操がそんな些細なことを恐れるお前なのかと、そういう目で見て来た。

 

 ……こういう形で曹操との旅が終わることを、自分は悔いているのだろうか。


 そもそも魏公就任が決定的な出来事だったといえば簡単だが、実際の荀彧の思いはもっと複雑で「何故曹操が自分を理解してくれなかったのか」という迷宮に迷い込めば、一体何が問題で、何故彼と決別したのかさえ分からなくなってくる有り様だった。


 曹操と過ごしていると毎日が忙しすぎて、たまにある穏やかな日が無性に幸せだと思えた。

 今は毎日が勿体ないほど穏やかなのに、心が焦れて彷徨っている。

 自分で望んだはずだった。

 曹孟徳そうもうとくが帝になると考えた時に感じる、激しい嫌悪感。

 それは自分の中において揺るぎない。


 夏侯惇や郭嘉かくかが何故平気なのか、不思議なほどに。


 帝という神聖な権威を、曹操に触れられるのが嫌なのか。

 それとも自分が知り尽くした曹孟徳という男に、得体の知れない、地上で最高位の権威が纏い付いて、得体の知れないものに彼をされるのが嫌なのか。


 多分、冷静な頭で考えるとそのどちらも当てはまっているのだと思うのだけれど。

 

(私は大きな慣習を変えたのだ。

 最初は慣れず、気の迷いが出るのは仕方ない)


 普通のことだと荀攸は言っていた。

 何か欠けたり、

 猛烈に違和感を感じても、

 それを否定しないことだと。


『今、曹魏は大きな変化の中にある。

 貴方は曹魏の中枢におられるのですから、

 大きな違和感を感じるのは当然のことです。

 違和感や、失望感を、

 無闇矢鱈に否定しないこと。

 今、浮かんでくる疑問や新しい物の見方は、答えと同じほど大切なものだと思います』


 荀攸じゅんゆうは一足早く、許都きょとに呼ばれて曹丕そうひの許で政に携わり始めた。


 長安を発つ時、彼がそう言ってくれた。



(私は曹孟徳を否定し、帝を選んだ)



 喪失感は当然だと思うと、帝の存在を否定したことになるのではないか。


 曹操の魏公就任を公然と否定し、糾弾した。

 簒奪者になりたいのかと問いかけた。

 それは簒奪者だ、と思う相手に問いかけるものだったから、

 幼い頃から腐敗した漢王室の無力さや、大人達の醜い悪事を憎んでいた曹操をはっきりと傷つけたはずだ。


 あれからも公の場では曹操と一緒になる。


 曹操が長安ちょうあんにいて、

 荀彧が長安にいる限り、

 それは変わらない。


 だがあれから一度も、曹操と公の場では視線が合わなくなった。

 言葉も、公の避けがたい挨拶以外は掛けていない。


 自分も曹操を見ようとしていないのだから、視線が合わないのは当然ではないかと思うのに、曹操が自分を見なくなったことが、こんなに自分の中で衝撃だとは予期していなかった。


 互いにもう大人で、

 妻もいて、子供達もいて。


 それでも曹孟徳そうもうとくの前に出る時は昔と同じ、荀家の荀彧のままだった。


 曹操が荀彧に変わらないでいることを望んだ。

 彼は自分がどれだけ出世しても荀彧や夏侯惇に、自分を位に相応しいように扱えなどと言ったことがない。


 袁紹えんしょうなど、

 自分は名族であるのだから尊重されて当然だなどと、平然と口にしていた。

 天帝が威光を口にしても、地上の等しい人間が、血で、隣に立つ人間を侮蔑するなど、愚か者のすることだと思ったから荀彧は袁紹を毛嫌いした。

 

 官渡かんとの戦いで曹操が勝ったのは、そういう意味では天命だったのだ。

 

 人間の世界の位階の無意味さを、

 ずっと曹操の側で見て来た。


 才あるものが力を発揮し、乱世を越えて未来を作っていく。

 曹操はただひたすらそれだけが願いだった。



(……わたしは)



 彼のその考えに共感し、それ自体は素晴らしいことだと思い続けてついてきたのに、

 最後の最後で拒んだ。


 曹操の捉える、本当の乱世を越えた未来には、帝は存在していない。


 荀彧じゅんいくの考える乱世の先の未来は、大陸の民が広く平穏に暮らし、帝という権威が太陽のように自然にあり続けることだった。

 唯一無二の、不変の存在。

 世界がいくら揺らいでも決して変わらない、そういうものが大切だと思ったから。


 何度考えても曹操の魏公ぎこう就任を、賛成出来ない。


 でも同時に、命を懸けて乱世を生き抜いて来た曹操の全てを否定してまで、反対しなければならないことだったのかと、時折思った。


もっと友として、彼が失いながら生きて来た事に対して、歩み寄ってやれなかったのかと。


今まではそうやって、共に生きてきたのに。


 季節が変わり、新しい何かが芽吹くと、どこにいても曹操から文が来て、季節が変わったから戻って来いと呼ばれた。

 夏侯惇や夏侯淵かこうえん、荀攸、そして荀彧。

 生きている限り郭嘉も呼び続けろと命じられて、郭嘉に参殿せよと文を嫌々書いていたのは荀彧だ。


『必死に生きているご家族を傷つけます』


 荀彧は何度もそう注意したのに、曹操は聞かなかった。


『郭嘉が俺からの文を嫌がるはずがない。家族の苦労など知らん』


 などと、

 とんでもないことを言って、いつも会いに来いと手紙を書かせた。

 なんて自分勝手で傲慢なんだと思うけど、

 同時にこの人は一度その人間を深く信じたら、死ぬまで自分からは手を離さないのだな、と思った。


 色んな裏切りに合って、

 何度も死にかけて。

 忠臣や自分の子供も、巻き込んで死なせて来た。

 

 それでも決して自分を裏切らないものがあると、信じられるのは驚きだ。


 あの人の場合それが血の繋がった家族じゃない。

 血の繋がらない、……私達だった。


 

(わたしは、あの人にまだ伝えていないことがある)



 確かに決定的な別れがいつか来ると予感はあった。

 覚悟もしていたと思うが、



(言葉を)



 言葉を用意するのを忘れてしまっていた。


 自分の人生は様々なことが起きた。

 そういう意味では豊かだったと思う。

 寝る間もなく、忙しなかったが悔いはない。


 何があろうと、曹操は友だった。


 人生の大半を共に生きてきた友だ。

 過ごして来た時間が、証である。

 それは誰にも否定できない。


 常に正しい人生を歩んで来たなどと言われている自分が、

 真の友との別れに感謝や餞別の言葉一つ用意せず、糾弾しかしなかった。


 それが気に掛かっているのかもしれないと、

 あまりに単純な答えにある朝辿り着いたのは、何故だと考え尽くしたからだ。


 曹操との別れは悔いは無く、逃れがたくもあった。


 それでも何か言葉を、残したかった。





◇    ◇    ◇



荀彧じゅんいく殿」


 呼ばれて、振り返った。


「文が届いております」

「ありがとう。どちらからです?」

合肥がっぴからと伝令が」

「合肥?」

 普通に受け取ろうとして、自分の頭に全く無かった場所からの文だったので、荀彧は怪訝な顔をした。

 すぐに竹簡を広げて目を通すと、彼の表情はみるみる険しく変化したのである。

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