第33話:曹操の怒りと「智」の逆襲
白馬王朝の偽りの工房での奇襲は、趙雲の周到な策によって完璧に失敗に終わった。曹操の間諜部隊は壊滅し、彼らが持ち帰るはずだった「鐙の量産は困難」という偽情報は、趙雲の手に渡った。この小さな奇襲の失敗は、やがて曹操の覇道に深い亀裂を生み出すことになる。
その頃、曹操の本陣は、あまりにも静かだった。日中の訓練の喧騒も遠のき、誰もが声を潜め、将兵たちの足音さえ響かない。軍議の間では、紙の擦れる音、扇を閉じる音すら重く感じられるほどだった。間諜部隊からの帰還が途絶えたことに、不穏な空気が漂い始めていた。
「どうした、あの間諜部隊は!まさか、趙子龍ごときに捕らえられたとでも言うのか!」
曹操は怒りに震え、その怒りは、憔悴しきった軍師たちへと向けられる。荀彧は静かに目を閉じ、郭嘉は激しい咳き込みに耐えながら顔を伏せ、程昱は唇を噛み締めていた。彼らは、趙雲の「見えざる手」による策が、再び自分たちの予測を超えていることに、深い困惑と無力感を覚えていた。
そして、間諜部隊の隊長が裏切り、趙雲に寝返ったという報告が曹操の元に届く。その報せに、曹操の怒りは頂点に達した。彼は、その男を信頼し、重要な任務を任せたのだ。その男の裏切りは、曹操の「利用と制圧」という思想を根底から揺るがすものだった。
「裏切り者め……!あの趙子龍、ただの武将ではない!我らの心を読み、人心を操る、悪鬼のような男だ!」
曹操の怒りは、もはやその対象を間諜部隊から、趙雲という存在そのものへと向かわせていた。彼の胸中には、一抹の既視感があった。かつて呂布を恐れ、関羽の仁に戸惑い、諸葛亮の知略に焦ったあの日々。そして今、趙雲。あの若き将が見せる「人を変える力」は、武でも、策略でもない――それは、信じるという異質な力だった。曹操の心の中には、趙雲という「見えざる敵」への激しい憎悪と、そして彼が「人心」を操るという事実への「恐れ」が芽生え始めていた。
(趙子龍め……貴様のそのやり方、この曹孟徳が、必ずや打ち砕いてくれる!)
曹操は、自らの覇道に再び影を落とす趙雲という存在に、強い執念を燃やしていた。彼の思想は、強者が弱者を屈服させ、秩序の下に支配することで成り立っている。それが、彼にとっての天下だった。だが、趙雲は違った。彼の掲げる秩序は、人が自らの意志で集い、共に未来を創る秩序だった。支配ではなく、共鳴による統治――曹操が最も忌避し、最も理解し難い世界だ。
その頃、趙雲の本陣では、裏切った元間諜の男が、趙雲の前にひざまずいていた。彼の名は、朱恒(しゅこう)。長年、袁紹、そして曹操の間諜として生きてきた男だ。
朱恒の脳裏には、何人もの主の顔が浮かんだ。袁紹の傲慢さ、曹操の冷徹さ。裏切り、寝返り、服従、服従、服従。だが、趙雲だけは違った。彼の言葉は、朱恒を「使う」のではなく、「迎える」ように響いた。彼の目は、朱恒を「道具」として見ているのではなく、一人の人間として、その才を信じているように光っていた。
「子龍様、この朱恒、命を助けていただいた上、私のような裏切り者を信じてくださり、心より感謝申し上げます」
朱恒は、趙雲の前にひれ伏し、涙を流した。彼の心の中には、これまでの人生で感じたことのない、安堵と、そして趙雲への深い「信頼」が満ちていた。
趙雲は、朱恒に静かに語りかけた。
「朱恒殿、貴殿は裏切り者などではない。ただ、己の生きる道を探していただけだ。私は、貴殿の才を高く評価している。私と共に、この乱世を終わらせ、新たな世を築こうではないか」
趙雲の言葉は、朱恒の心を深く揺さぶった。彼は、これまでの人生で、主君に「利用」されることはあっても、「包摂」され、その才能を信じてもらうことなどなかった。趙雲の言葉は、彼の心に、新たな希望の光を灯したのだ。
朱恒は、趙雲への忠誠を誓い、趙雲の逆スパイとして、再び曹操の元へと潜入することを決意した。彼の任務は、もはや曹操のためではない。趙雲のため、そして彼が目指す「平穏な世の実現」のためだ。
趙雲と諸葛亮は、朱恒を再潜入させる際の具体的な準備を始めた。
趙雲は、朱恒に一つひとつ確認するように語りかけた。
「報告は三日後、南の丘の廃屋だ」「偽装の印は左肩の小刀の彫り物」「万が一見破られた場合は、自らの命よりも、この情報を守ることを優先せよ」
朱恒は、静かに頷いた。既に、彼の衣には曹操軍の徽章が戻され、背には偽造された任命状が巻かれていた。
趙雲と諸葛亮は、朱恒に、曹操を欺くための「偽の戦力配置情報」と「鐙の量産に成功した」という真実を巧みに織り交ぜた情報を与えた。曹操は、この情報を真実と信じ、趙雲軍を叩き潰すための、新たな戦略を練り始めるだろう。
中原の風は、白馬王朝の勝利を告げると同時に、新たな戦乱の序曲を奏で始めていた。趙雲と曹操、二人の英傑による、見えざる戦いの火蓋が、今、切って落とされようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます