第3話:生存への焦燥と「鐙」の閃き
日が傾き、訓練が終わる頃には、悠真の身体は鉛のように重かった。全身の筋肉が悲鳴を上げ、特に体幹は、まるで内側から叩かれているかのような鈍い痛みに苛まれている。馬の背で受けた衝撃が、骨の髄まで響いているかのようだ。
(くそ……こんなに疲れるものなのか……)
前世でどれだけ激しい運動をしても、ここまで身体が悲鳴を上げることはなかった。それは、この時代の騎乗がいかに身体に負担をかけるか、そして、いかに非効率であるかの証左だった。兵舎に戻り、粗末な寝床に横たわると、すぐに深い疲労が彼を包み込んだ。しかし、彼の思考は、その疲労に反して、まるで熱を帯びたかのように高速で回転し続けていた。
(このままでは、駄目だ。この騎乗技術では、この戦乱を生き抜くことなんて、到底できない……!)
今日一日の騎馬訓練が、その思いを一層強固なものにした。馬の背で感じたあの不自然な揺れ、全身を叩きつける衝撃、そしてそれを当然と受け入れる兵士たちの姿。それは、悠真の内に蓄積された「違和感」と「微細な苛立ち」を、確実に膨張させていた。この膨張は、単なる感情の揺れではない。彼の人間的な知性が、現状の「非合理」と、そこから導かれる「悲劇」を、明確に認識した結果だった。まるで、壊れた機械の歯車が軋むような、生理的な不快感が彼を苛む。
粗末な寝床に横になっても、悠真の脳裏には、馬術部の練習風景が鮮明に蘇っては消える。愛馬の温かい背、蹄が地面を力強く蹴る音、そして風を切って駆け抜ける爽快感。それらと、今日の訓練での不安定な騎乗が、あまりにもかけ離れすぎていた。
(違う。こんな乗り方じゃなかった。もっと馬と一体になれるはずだ。もっと安定して、もっと速く、もっと力強く動けるはずなんだ……!)
彼の脳裏で、現代の馬術理論と、この世界の騎乗技術が、まるで重ならないパズルのピースのようにぶつかり合った。なぜ、こんなにも身体に負担がかかるのか。なぜ、ここまで非効率的なのか。答えが、すぐそこにあるはずなのに、まるで分厚い靄に覆われているかのように、明確には掴めない。その掴めそうで掴めない歯がゆさが、彼の胸を強く締め付けた。まるで、熟練の職人が、明らかに不出来な道具を見せられているかのような、深い「納得できない沈黙」が彼を包んだ。
その時、ふと、前世で愛用していた乗馬ブーツの、足首をしっかりと固定し、鞍の鐙に足を乗せて踏ん張った時の、あの確かな感触を思い出した。大会で、一本の丸太を飛び越える瞬間、全身の体重を足の裏で支え、馬の動きに完璧に同期させる、あの絶対的な安定感……。
(そうだ、足元だ……!)
悠真の思考が、まるで暗闇に一条の光が差し込んだかのように、一点に収束していく。この世界の騎兵は、鐙がないために、馬の背にただ乗っているだけだ。足で踏ん張りが利かない。だから、全身が揺さぶられ、馬の力を十全に引き出せない。彼の視線は、部屋の隅に転がっていた、使い古された革の端切れや、ほつれた紐、あるいは錆びた金属片へと吸い寄せられた。それらは、使い古され、埃をかぶった無用の長物に見えるかもしれないが、悠真の目には、未来を切り開くための、何よりも貴重な素材に見えた。
(これを、こうして……いや、もっと頑丈に。足の裏をしっかり支えて、体を安定させる……。そうすれば、馬の動きに合わせて、もっと深く踏み込めるようになる。馬の背に、自分の体重を預けながら、安定して槍を突けるようになるんだ!)
彼の頭の中で、簡易鐙の具体的な構造が、まるで精巧な設計図のように鮮明に描かれていく。それは、ただの知識のひらめきではない。史実の悲惨な結末から来る「生存への強い欲望」が根底にあり、「この乱世で生きて、大切な人を守り抜きたい」という切実な願いが、彼の原動力だった。そして、「馬を愛する者として、馬の力を最大限に引き出し、共に戦場を駆け抜けたい」という「切実な願い」――それらが複雑に絡み合い、最終的に「この技術があれば、この乱世を生き抜ける。いや、乱世を変えることができる!」という、強烈な「価値観の発動」へと繋がったのだ。
その瞬間、悠真の心は、確かな希望に満たされた。漠然とした不安はどこかへ消え去り、代わりに、今すぐこのアイデアを形にしたいという、燃えるような衝動が全身を駆け巡った。彼の視界に、未来の雄大な騎馬隊が、整然と大地を駆け抜ける光景が、まるで幻のように見えた。
(これだ……これこそが、俺がこの乱世で生き、未来を切り開くための「必然性」なんだ!この鐙が、俺の、いや、この乱世の未来を変える!)
彼は勢いよく身体を起こし、部屋の隅にある革の端切れを力強く手に取った。月明かりだけが差し込む暗闇の中で、彼の瞳だけが、新たな世界を創り出す確かな光を宿していた。その手の中で、古びた革の端切れが、まるで未来への希望を握りしめているかのように輝いた。
夜は、まだ長い。だが、悠真の心には、疲労よりも、未来への期待が満ちていた。彼は手元の素材を吟味し、まずは革の強度を増すための方法を思案する。革を何枚も重ね、叩き締め、硬くする。紐をより合わせ、強度を増す。錆びた金属片は、熱して叩き伸ばし、形を整える必要があるだろう。簡単なことではない。道具も限られている。だが、彼の決意は揺るがなかった。
夜半過ぎ、馬小屋から微かにいななきが聞こえた。ひひいん、というその声は、まるで彼を鼓舞しているかのようだ。
(待ってろよ、お前たち。必ず、お前たちの力を最大限に引き出してやる。そして、共にこの乱世を駆け抜けよう)
指先に血豆ができ、肩は石のように固くなった。それでも、彼は作業を続けた。幾度も失敗し、幾度もやり直す。最初の試作品は、あまりにも粗雑で、すぐに壊れてしまった。二度目、三度目と作り直すうちに、少しずつ、形になっていく。その度に、彼の口元には、微かな笑みが浮かんだ。小さな、けれど確かな成功の積み重ねが、彼の疲労を忘れさせてくれる。これは、彼一人だけの戦いではない。未来を変えるための、そして馬と共に歩む、彼自身の物語の始まりなのだ。
夜空には、満月が煌々と輝いている。その光が、窓から差し込み、彼の作業を静かに見守っていた。
今夜から、俺の戦いが始まる。
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