第26話

 職員室の扉を押し開けた瞬間、鼻を刺すようなインクと古紙の匂いが広がった。

 低い天井に、蛍光灯の白がまだらに瞬いている。

 昼間は喧噪に満ちていたはずの広い部屋は、今は嘘みたいに静まり返っていた。



 ずらりと並んだ机の上には、配り忘れたプリントや赤ペンが散らばり、積み重なった書類の影が黒い壁みたいに伸びている。

 ふと、窓際の棚に置かれた紫色のファイルが目に入った。周囲の無彩色の中で、その色だけが沈んだ光を帯びて浮かんで見える。

 時計の針の音だけが、やけに大きく耳に届いた。



 先生たちの椅子はどれも空いていた。

 誰一人残っていない――人の気配がない。

 そのことが余計に、胸をざわつかせた。



 葛西は迷うことなく自分の机に腰を下ろした。

 乱れたネクタイの下、赤く濁った目がじっとこちらを見据えている。



(……やっと、静かに話せるな)



 心に響いたのは、不自然なほど落ち着いた声だった。

 それだけなのに、背中に冷たい風が吹き抜ける気がした。



 葛西は机の引き出しを開け、ごそごそと何かを探した。

 そして――。



「まずはこれを返そう」



 そう言って、机の上に置かれたのは――私のローファーだった。

 見慣れた革の黒。つま先の小さな擦り傷まで、紛れもなく私のものだ。



 こいつ、勝手に盗んでいたのか。

 憤りが胸に込み上げてくる。



「勝手に持ち出してすまなかった」



 葛西は、低く掠れた声で言った。



「こうでもしないと、今日、君とゆっくり話すことが出来ないと思ってな」



 胸の奥で、怒りと不安がないまぜになる。

 他にも方法はいくらでもあるだろう――わざわざこんなやり方をしなくても。



「……それで、話ってなんですか?」



 私はできる限り冷たく、言葉を絞り出した。



「あぁ」



 すると、葛西は椅子の背にもたれ、指を組んだ。



「先日、学校のメールアドレスに一本のメールが届いた。小田嶋の――不適切行為を行っている動画のURLが貼られたメールだ」



 空気が凍る。

 忘れるわけがない。英語の授業中、私を見ながら不適切行為をしていた小田嶋の動画。



「……あれは、君が撮ったものだよな?」



「――っ!」



 息が詰まった。どうして、それを……?



 私の動揺を楽しむように、葛西は目を細めた。



「真壁が君を襲おうとした時……君、スマホのボイスレコーダーで録音していただろう? たまたまとは思えなかった。あまりにも出来すぎている」



 背筋に冷たいものが走る。

 鋭い。全部見抜かれていたのか。

 心臓が早鐘を打つ。次は何を言われるのか――恐怖で喉が渇く。



 その時、葛西の口角が、ゆっくりと持ち上がった。



「……素晴らしいよ、白瀬。君は強い。誰にも言えずに泣き寝入りするような連中とは違う。自分を守るために牙をける――教師として、いや、一人の男として、感服するよ」



 ぞくりと背筋を這い上がる寒気。

 褒められているはずなのに、胸の奥は冷たい粘液に絡め取られたみたいにざわめいていた。



「私は、ただ……」



 言いかけた声を、葛西が手のひらで遮った。



「分かっている。君は誰にも頼らず、一人で立ち向かった。……真壁も小田嶋も、自業自得だ。君は間違っていない。まあ事後処理で色々大変な目に遭ったがな」



 にぃ、と笑みを浮かべる。

 その笑顔は教師のものではなかった。



「そうだ……俺と君は同じだ。弱者を食い物にする連中を裁ける側の人間だ。誰にも理解されない。だが、俺には分かる」



 机の上に置かれた私のローファーに、葛西の大きな手が重なる。

 その仕草がまるで「契り」のように見えて、呼吸が乱れた。



 目を逸らす私に、葛西の声が低く迫る。



「白瀬……君は美しい。強くて、気高い。……俺は、



 言葉が、氷刃のように胸を突いた。

 その瞬間――職員室の空気が、濁った熱に変わっていくのを肌で感じた。



 そして葛西は机の引き出しに手を伸ばし、ごそりと何かを探った。

 次に取り出されたのは――真紅の薔薇だった。



(この時のために用意したが……凛花は喜ぶだろうか)



 唐突すぎる光景に、喉が固まる。

 血のように濃い花弁が、蛍光灯に濡れて艶めいていた。



「白瀬……卒業したら、俺と結婚しよう」



 言葉は淡々としているのに、その目だけが爛々と光っていた。

 机越しに差し出された薔薇の赤が、視界を覆う。



 ……は? 結婚……?

 すると頭の奥に、葛西の思念が流れ込んできた。



(――白いドレスに身を包む我が愛妻、凛花。俺の隣で誇らしげに微笑んでいる。

 小さな家で二人きりの生活。朝は俺のために台所に立ち、夜は……俺の腕の中で眠る。

 子どもは……そうだ、女の子がいいな。凛花に似た、美しい娘を……)



 脳裏に押しつけられる「未来像」。

 吐き気が込み上げ、思わず後ずさりそうになった。



 こいつ……本気でイカれてる。



 返事を求める視線が、突き刺さる。

 じりじりと追い詰められる中、私は唇を噛みしめた。



「……返事を、聞かせてくれないか」



 低い声。

 空気が震える。



 私は、静かに、冷え切った声で言った。



「……無理です。先生とは、そういうつもりはありません。それに……私、彼氏がいますので」



 葛西の目が、一瞬だけ虚ろに見開かれた。

 薔薇の花弁が揺れ、赤黒い影が机に落ちる。



 薔薇を握る手がわずかに震え、葛西はうつむいた。

 そして、かすれるように呟く。



「……なぜだ。なぜ……俺では、駄目なんだ……?」



 低い声が、職員室の空気を濁らせる。



「もう一度……もう一度、考え直してくれ! 君のためなら、俺は何だってするッ!」



 その必死な響きが、逆に肌を粟立たせた。

 胸の奥に、ねっとりとした嫌悪感が広がる。



「……気持ち悪いです」



 自分でも驚くほど震えた声。

 それでも、私は視線を逸らさずに続けた。



「あなたは教師でしょう。なのに、ずっと生徒をそんな目で見てたなんて……本当に最低です。あり得ない。私にとって先生は、怖い存在でしかない。だから、絶対に無理です」



 沈黙。

 時計の針の音だけが、やけに大きく鳴り響く。

 私はバックを持ち直し、スマホの画面をちらりと見る。まだ10分は経っていない。携帯は圏外になっている。



「話はそれだけですか? ……それより早く、私の靴を返してください。もう帰りたいので」



 その瞬間――





「ははっ……あははははははははははっ!!」





 葛西が、突如として笑い声を上げた。

 職員室の壁に反響するその声は、笑っているのに笑っていない。

 次第に掠れ、引き攣り、やがて――ぴたりと止まる。



 顔を伏せたまま、肩だけが不気味に揺れていた。



「……そうか。俺じゃ、駄目か」



 ゆっくりと顔を上げる。

 赤く充血した眼が、ぞっとするほど静かに細められていた。



「いいだろう。なら……力づくで、分からせてやる」



――バンッ!

 葛西の手が机を叩きつける。積まれたプリントが宙に舞い、空気が震える。

 次の瞬間、彼の拳に握られていた薔薇が、ぐしゃりと潰された。赤い花弁が散り、机の上に血のように散乱する。



 立ち上がったその巨体が、こちらを圧迫する。



「……っ!」



 私は反射的に後ずさりし、机の間を縫うように駆けた。

 目指すは入り口のドア。必死に取っ手を掴み、引く。



――ガチャリ。

 嫌な音。びくとも動かない。

 まさか。鍵が。



「誰か! 誰かまだいませんかっ!? 助けてっ!!」



 振り返った瞬間、葛西の靴音がずんずんと迫ってきた。

 壁一枚が歩いてくるみたいな重圧。逃げ場を押し潰すように、距離が縮まっていく。



「いやっ……!」



 私は取っ手を離し、ドアから飛び退くように離れた。

 机の影に身を隠しながら、別の方向へ駆け出す。



「来ないでっ!!」



 叫んだ声が、虚しく職員室の広い空間に反響した。

 しかし、葛西の歩みは止まらない。



(……凛花……欲しい……その身体を、全部……)



 頭の奥に、濁った思念が響く。

 汗の匂いをまとった巨体が、ずんずんとこちらに迫ってくる。



「やめてっ!」



 咄嗟に手に掴んだプリントの束を投げつける。

 紙が宙に散り、白い吹雪のように舞った。

 だが――葛西は目も瞬かず、そのまま突き進んでくる。



「いやぁっ!」



 机の上にあった赤ペン、ファイル、ホチキス……手当たり次第に投げつける。

 カツン、と硬質な音が響き、文房具が床に転がる。

 それでも怯む様子は一切なかった。



「お願いっ……来ないでっ!」



 椅子を掴み、力任せに投げる。

 金属の脚が空気を裂いた――が、葛西は半身をひねってかわした。

 椅子は無惨に床へ転がり、鈍い音を立てて止まる。



(そうだ……もっとだ。もっと俺にぶつけてこい……その怯える顔が、堪らない……)



 狂った欲望が、耳の奥に滴り落ちてくる。



 私は必死にデスクをすり抜け、職員室の隅に駆け込んだ。

 手探りで引き出しを開けると――中には、銀色の光。



「……っ!」



 大きなハサミを握り締める。

 震える指先が、冷たい金属に汗を滲ませた。



「……来ないで!」



 刃先を向け、必死に後ずさる。

 けれど、その背中はもう壁に押し付けられていた。

 逃げ場はない。



「来るなぁッ!」



 私は喉を裂くような叫びとともに、震える手でハサミを振りかざした。

 しかし、その刃先は葛西の分厚い腕に簡単に受け止められた。



「なっ――」



 次の瞬間、頬に焼けつくような衝撃。

 乾いた音と共に、強烈なビンタが飛んできた。

 視界がぐらりと揺れ、私は床に叩きつけられる。



「……ッく……!」



 頭の奥が霞み、耳鳴りが響く。

 意識が遠のきそうになる中で、冷たい床の感触だけが現実を繋ぎ止めていた。


 

――カチャ、カチャ。



 耳元で金属の留め具が外れる音。

 ぼんやりと目を向けると、葛西はベルトを抜き取っていた。



「やめっ……離して……!」



 必死に抗おうとする両手首を、荒々しく掴まれる。

 革の帯が容赦なく肌に食い込み、机の脚へと押しつけられた。

 手首はぎりぎりと締め上げられ、身動きが取れない。



 じゅるりと舌なめずりする湿った音が、耳の奥に絡みついた。



 視線を落とすと――私の傍らに転がったハサミを、葛西が拾い上げる。

 そのまま刃先をセーラー服の襟に当て、ゆっくりと下へ滑らせた。



「ひッ……!?」



 生地が裂ける音が、静寂の職員室に響く。

 胸元が無惨に開かれ、下着の白が露わになった。

 冷気が肌を撫で、羞恥と恐怖がいっぺんに押し寄せる。



 やめて、やめてやめて――!



 心臓を掴まれるみたいに呼吸が乱れる。



 葛西の眼は、下卑た光でぎらついていた。

 濁った妄想が頭に流れ込んでくる。



(最高だ……この肌に吸い付き、汗を舐め取りたい……俺のものに……全部、俺の……)



 私は必死に身を捩るが、ベルトに繋がれた手首はびくともしない。



 その間に――葛西の指がネクタイへ伸びた。

 結び目を乱暴に緩め、布を放り捨てる。

 ワイシャツのボタンをひとつ、またひとつと外していく。



 はだけていく胸板。

 照明の下で浮き上がった筋肉は盛り上がり、油膜のような汗で光っていた。

 腕は丸太のように太く、肩から胸にかけての厚みは、まるでプロレスラーのようだった。



 縛られた手首を必死に引きちぎろうとした。

 机の脚に食い込んだベルトが食い破れそうなほど暴れる。

 しかし、革が軋むだけで自由にはならない。



「やめ……来ないで……!」



 声は震え、掠れて、空気に吸い込まれる。

 頭上からは汗と呼気の重たい匂いが覆いかぶさり、逃げ場を塞がれていく。



――もう、駄目だ。



 絶望が胸を貫いた、その刹那。





 ザシュッ。





 肉を裂く湿った音が、耳の奥に突き刺さった。

 直後、葛西の身体は、まるで雷に打たれたみたいに硬直する。



「……あ?」



 わずかに遅れて、赤黒い筋が首筋に浮かび上がる。

 それがすぐに弾け、熱い飛沫が私の頬に散った。



 見上げた視界の端で、赤が弧を描いて飛ぶ。

 次の瞬間――葛西の喉元から、どろりとした血潮が奔流のようにあふれ出していた。



 そして、叫ぶ間もなく――。





 ザシュッ! ブシャッ! ザシュッ!!





 鋭い音と共に、肉が裂け、筋が千切れ、血が噴き上がる。

 葛西の巨体が痙攣するようにのけぞり、肺の奥から泡混じりの断末魔が迸った。



「……っ、あ、がはァァァァッ!!」



 机に突っ伏しかけた背に、さらに鋭利な刃が何度も突き立つ。

 肩、背骨、脇腹――無差別に抉られ、肉が裂けるたびに赤黒い塊が弾け飛んだ。

 濃い返り血が机や床を叩き、白い壁にまで赤黒い斑点を散らしていく。



 世界そのものが、血で塗りつぶされていくようだった。

 鉄の錆臭が喉を焼き、飛沫が頬を叩き、耳には絶え間なく水音のような滴りが響く。

 足元にまで広がってきた温かい液体が、じわりと靴下を濡らし、私の身体を凍りつかせた。



 震える視界の先――。



 そこに立っていたのは――茜だった。



 血に濡れた刃を握り、制服の袖まで真っ赤に染めながら。

 それでも口元には、いつものあどけない笑顔が浮かんでいた。



「やっぱり……凛花は、わたしが守ってあげなきゃね」

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