第25話

 放課後。

 教室の片隅で、私はまだ震えていた。



――今日、茜は欠席扱いになっていた。

 体調不良、ということらしい。

 それなのに、耳の奥では途切れることなく【コロス……】という呪詛が反響していた。

 どこかに潜んで、私を見ているのだろうか。壁の裏から? 窓の外から? それとも……。



 そんな中、生活指導の先生が教室に入ってきた。



「これからグリーフケア面談を行います。御子柴くんの件で心に不安がないか、数分の確認です。名前を呼びますので、呼ばれた方は私について来てください」



 名前を呼ばれるたびに、生徒たちが一人ずつ立ち上がり、教室を出ていく。

 椅子の軋む音やドアの開閉音が、ひときわ大きく響く。



 残された私の鼓動だけが、やけに騒がしかった。

 呼ばれる順番を待つ間も、耳の奥では【コロス……コロス……】が絶え間なくささやいている。

 誰もいないはずの背後に、冷たい視線の重みを感じ続けていた。



 震える指でスマホを取り出し、蒼真先輩にメッセージを送る。



Rinka「今日、メンタルケアの面談があるみたいで……終わるまで待っててくれませんか?」



 送信から数秒もしないうちに、画面が震えた。



そうま「分かった。終わるまで待ってるよ。大丈夫だから、安心して」



 胸の奥に灯がともる。

 ほんのわずかな光。けれど、それがなければ、今すぐ逃げ出していたかもしれない。



 ……それでも、時間は過ぎていった。

 同級生の名前が次々呼ばれ、教室を出ていく。

 机の数がひとつ、またひとつと空いていき、ざわめきも薄れていく。



 やがて――私ひとりだけになった。



 広い教室に、時計の針の音と、自分の呼吸音だけが残る。

 背後から突き刺さる視線の幻覚は、むしろ濃くなるばかり。



 いつまで待たせるの……? どうして私だけ呼ばれないの……?

 喉を詰まらせそうになったそのとき、ようやくドアが開いた。



「白瀬凛花さん、どうぞ」



 待ちに待った呼び声が、張りつめた空気を破った。



 ぎこちなく立ち上がり、ドアの前で待っていた生活指導の先生に導かれる。

 廊下を歩く間も、耳の奥では【コロス……】の呪詛が途切れず反響していた。

 蛍光灯の下を通るたびに、背後の気配が濃くなった気がして、視線を振り返らずにはいられなかった。



 誰もいない。ただの白い廊下。ただ、それだけのはずなのに。



 やがて「生徒指導室」と書かれた札のかかった扉の前に立つ。

 先生がノックし、ドアを開けた。



「失礼します。白瀬さんです」



 中にいたのは、白衣を着た眼鏡の女性だった。

 机の上にはカルテのような書類が広げられ、整然と並んだ文房具の横にペットボトルの水が置かれている。

 年齢は三十代半ばくらいだろうか。臨床心理士と名札に記されていた。



「どうぞ、おかけください」



 柔らかく微笑みながら、椅子を手で示す。



(……さて。本命はこの子ね)



 女の心の声が、すぐに私の耳に落ちてきた。



 胸の奥がきゅっと縮む。

 どういう意味……?

 「本命」って、何を……?



 私はおずおずと腰を下ろした。

 白衣の女性はにこやかに頷き、書類に目を落とす。



「白瀬凛花さんですね。今日は……御子柴さんの件で、少し心の状態を確認させていただきます。気楽に答えてくださいね」



 優しい声色。けれど、胸の奥にまだ残る「本命」という囁きが消えない。



 そして、その後は形式的な質問が続いた。



「昨夜は眠れましたか?」

「学校に来るのは辛くなかったですか?」

「体調に変化は?」



 答えるたびに、女性は「そうですか」と微笑みながらメモを取る。

 その手元のペン先が、やけに重々しく音を立てて走る。



(……震えが強い。呼吸も浅い。思った以上に深刻だわ。このままじゃ“報告”の内容を変えないと。警察にも、経過を丁寧に伝えておく必要があるかもしれない)



 カチリ、とボールペンの音が静かな室内に響いた。



「差し支えなければ、もう少しだけお聞かせくださいね。正式な記録を残すために」



 その手元で、書類の端に小さく「◯◯署提出用」と印字された紙片が覗いた気がした。



 ……やっぱり、この人は警察と繋がっているの?

 つまり、私は疑われているってこと……?



 胸の奥がきゅっと縮む。

 そこから先の質問は、だんだんと鋭さを増していった。



「食欲は落ちていませんか?」

「学校で孤立している、と感じることは?」

「身近な人に強い不安や恐怖を覚えたことは?」



 私は、曖昧に答えたり、うつむいて首を振ったりするばかりだった。

 気がつけば、数分で終わるはずの面談が、もう何十分も続いていた。

 蒼真先輩を待たせている――その思いが焦りとなり、何度も時計を気にしてしまう。



 それでも女性は、ペンを止めようとはしなかった。

 冷たい蛍光灯の下で、私は自分がされているような錯覚に囚われ続けた。



 やがて、椅子を引く音とともに女性は立ち上がった。

 白衣のポケットにペンをしまい、眼鏡の奥でひとつ溜息をつく。



(……重度の睡眠障害、強迫的な被害妄想の傾向。表情筋の硬直と呼吸リズムの乱れも顕著。――通常のグリーフケアの域を超えている。これはやはり警察に、経過観察を求めるべき症例……)



 机上の書類を軽くまとめ、彼女は穏やかな声を作った。



「今日は、ありがとうございました。長くなってしまってごめんなさい。無理せず、よく休んでくださいね」



 ようやく面談が終わった。

 胸の奥に、ひとつ息を吐く余裕が戻る。……でも、それは安堵とは違った。



 むしろ逆だった。

――ますますマークされているんじゃないか。

 そんな疑念だけが、じっと背骨に重りのように貼りついて離れなかった。



 扉を開けると、廊下が広がった。

 灯りはちゃんと点いているのに、窓の外は群青色に沈みかけ、残光がかすかに差し込んでいた。

 白い蛍光灯と混ざり合ったその薄闇が、天井や壁にまだらな影を描き、不気味な静けさを漂わせていた。

 人の声はなく、聞こえるのは自分の靴音と――耳の奥でこびりつく、あの声だけ。



【コロス……コロス……コロス……】



 皮膚の内側をかきむしられるように、呪詛が付きまとってくる。

 怖い。耐えられない。



 震える指でスマホを掴み、発信ボタンを押した。

 耳に当てると、すぐに蒼真先輩の声が返ってくる。



『もしもし、凛花さん? 面談、終わった?』



 その声に少しだけ呼吸が楽になる。



「……はい。今から教室に戻ります」



 自分でも驚くほど弱々しい声で答えながら、廊下を急ぎ足で歩いた。

 足音と一緒に、どこかでわらう気配が追いかけてくる気がして、何度も後ろを振り返りながら――私は教室を目指した。



 教室の扉を押し開ける。



 昼間には喧噪で満ちていたはずの場所が、いまは別の校舎にでも迷い込んだみたいに静まり返っている。

 机の上には蛍光灯の白が落ち、窓際には沈みかけた夕暮れの残光がかすかに差し込んでいた。

 その光に照らされて、ひとつだけ紫に揺れるものがある。――誰かが忘れたシャープペンシル。その小さな色だけが、教室の冷たい無彩色に浮いて見えた。



 喉を鳴らして息を整えながら、自分の席へ向かう。

 机の横に掛けていた鞄を取り上げ、震える手でジッパーを開けた。



 ……何もない。

 中身はそのまま。見慣れた私の教科書と筆箱。

 胸の奥で張り詰めていた糸が、わずかに緩む。



 その瞬間――



 耳をつんざくハウリング音。

 スマホからではなく、教室のスピーカーからだった。



「ひッ……!?」



 鼓膜を殴るような高音に思わず身をすくめる。

 続いて、無機質なアナウンスが響いた。



『……まもなく19時になります。生徒は速やかに下校してください。なお、19時以降は、校内携帯中継器を防犯モードへ切替します。校内Wi-Fi停止・電波が不安定になる場合があります』



 冷たい声が、がらんどうの教室に反響する。

 静けさは返事をしない壁のように厚く、窓ガラスまでもが息を潜めているように見えた。

 鼓動だけがやけに大きく耳の奥で鳴り、机の影や掲示物の端までがじっとこちらを見ている気がした。



 私は震える指でスマホを耳に寄せる。



「……いまから、教室を出ます」



 声はかすれていたけれど、それでも返事はすぐに届いた。



『了解。そっちに向かうよ』



 短い言葉に胸がわずかに温まる。だが、それを押し潰すように背後の空気は重く冷たい。

 振り返る勇気も持てず、私は飛び出すように教室を後にした。



 急ぎ足で廊下を駆け抜け、昇降口へと向かう。

 ガラス窓越しに広がる校庭はすでに暗く沈み、外灯だけが孤独に光っている。

 呼吸が浅くなり、吐く息がやけに白く見えた気がした。



 靴箱の前に立ち、震える手で自分のロッカーの扉を引く。



――その瞬間、心臓が強く跳ねた。



 中は、空っぽだった。

 そこにあるはずの自分のローファーが、どこにもない。



「……え?」



 喉の奥から、掠れた声が漏れる。

 どうして? 誰が? 私の靴を……?

 ぐるぐると頭の中で疑問だけが回り、足元の冷たいタイルに視線が縫いつけられた。



 周りを必死に見回していると――



「凛花さん!」



 振り返ると、蒼真先輩が駆け寄ってくる。

 息を切らせながら、私の顔を覗き込んだ。



「どうしたの?」



「……わ、私の靴が……ないんです。ローファーが……」



 震える声で告げると、蒼真先輩の表情が一瞬固まり、それから「一緒に探そう」と低く言った。

 二人で昇降口をあちこち探し回る。靴箱の下、ベンチの影――どこにもない。

 不安が胸の奥で膨れ上がり、もう泣きそうになったその時だった。





「……白瀬」





 背後から、低い声が落ちてきた。

 ぞくりと背筋が凍る。



 振り返った瞬間、息が止まった。



 昇降口の奥、薄暗い影の中に――葛西が立っていた。



 ネクタイは緩められず首に食い込み、頬はやつれてこけている。

 その眼だけが、ぎらりと濡れた光を放ち、こちらを射抜いていた。



「……白瀬。面談の後で申し訳ないが……話がある。職員室まで来なさい」



 低く掠れた声。命令のような響きに、胸の奥がひゅっとすぼまる。



 横で蒼真先輩が一歩踏み出した。



「先生、もうすぐ19時です。面談の続きなら、明日でも――」



「駄目だ」



 葛西の声が鋭く遮る。



「今日のうちにしなければならん。職員室でだ」



 ぞわりと背筋が冷える。

 靴箱の前で立ち尽くしたまま、私は掠れ声を絞り出した。



「で、でも……靴が……なくて……」



 葛西の口角がわずかに吊り上がる。



「職員室に履き物の予備がある。それを使えばいい。……下校時間を過ぎても問題ない。許可は取ってある」



 吐き出す息が冷たく響いた。

 本当に――? そんな許可、誰が?



 蒼真先輩が再び声を荒げる。



「でも、それなら僕も――」



「……お前には関係ない! 帰れッ!」



 怒号。

 昇降口の壁が震えた気がした。

 先輩の言葉は、その異様な迫力に押し潰される。喉が詰まったように声が出なくなり、ただ私を庇うように立ち尽くすしかなかった。



 私は震える指でスマホを握りしめながら、葛西の心を探ろうとした。

 けれど――。



(ガキが……邪魔をするな…………これ以上抵抗するなら……殺すぞ)



 荒れ狂う怒りの渦。

 ノイズのような激情がうねり、真意を掴もうとしても掻き消されてしまう。



 何を考えているのか、分からない。

 それが何より恐ろしかった。



 私は震える唇を噛みしめ、横の蒼真先輩を見上げた。



「……先に帰ってください。大丈夫ですから」



 かすかな声。けれど必死に笑顔を作ってみせる。



 目で訴えた。

――ここで逆らわないで。お願いだから。



 蒼真先輩は、悔しげに唇を噛んだ。

 けれど数秒の沈黙のあと、小さく頷く。



「……わかった」



 肩を落とし、力なく一歩退いた。

 その様子を見て、葛西は満足そうに顎を引いた。



「行くぞ」



 ぞり、と革靴が廊下を鳴らす。

 私はその背を追って、昇降口をあとにした。



 歩き出した瞬間、震える手でスマホを取り出し、背後を盗み見るふりをしながら画面を開く。

 指先で、蒼真先輩に短い文字を打ち込んだ。



Rinka「……もし私が、10分以上経っても戻って来なかったら、様子を見に来てください」



 送信ボタンを押した瞬間、手の中の端末が重たく感じられた。

 目の前では、葛西の足音だけが規則正しく響いていた。

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