夢風船


 杉浦咲の足取りは、コンクリートタイルの廊下に張り付いた、重い鉛の塊のようだった。


 廊下のLED灯の白すぎる光が、彼女の目の奥を刺し、ただでさえ重い頭に、針を押し込むような圧迫感を生んでいた。


 エデンの公園で如月エマに晒された精神的な屈辱が、皮膚の下で脈打つ毒となり、全身を巡っている。


 あの屈辱。あの笑顔。


『へぇ。宗像整備班長のこと、好きなんだ』


 彼女の静かな指摘が、自分にとって最も秘匿したい弱点を暴いた。

 まるで子どもが蟻を弄ぶように。

 踏み躙られた羞恥心が、こめかみの奥で鈍く、そして鋭利に疼く。


 廊下の角を曲がり、目的の部屋の扉にたどり着く。

 パイロット宿舎のこの一角だけは、戦場から隔絶された、唯一の安全地帯だった。


 神崎ミコトの部屋。ドアをノックする拳が震える。


「お、咲か!」


 扉を開けた瞬間、Tシャツと短パンというラフな格好の神崎ミコトが、ベッドの上でデータパッドを弄りながら顔を上げた。

 シーツは乱れたまま、枕元には読みかけの分厚いSF小説と、中身が半分残ったままのエナジードリンクの缶が転がっている。


 その私室はミコトが持ち込んだガラクタ――愛機アストライアを模した真紅の手作りのマスコットや、訓練中に剥がれた機体のステッカーなどで、乱雑だが温かみに満ちている。

 そのマスコットの隣には、数種類のプロテインバーの空箱と、筋力トレーニング用の握力計が一緒に置かれていた。


 ミコトは片手で無造作にロングヘアをかきあげ、しなやかな身体を持て余した猫のように瞳を細めた。

 その額には、先ほどまで運動していたのか、うっすらと汗の粒が光っている。


「どうしたんだよ、そんな顔して。まさかまた東雲中尉にフルボッコにされたのか?」


 ミコトは冗談めかして言ったが、咲の顔色を見た途端、その表情からふざけ半分だった色は消え失せた。

 ミコトが弾かれたようにベッドから立ち上がり、一瞬で距離を詰め、咲の肩を掴んだ。その手の熱が、咲の肩の肉に食い込む。


 その瞬間、咲の中で何かが切れ、全身の力が、一度に全て抜けていく。

 重力に身を委ねるように、彼女はミコトの胸に顔を埋めた。


「うっ……」


 声にならなかった嗚咽が、ミコトのTシャツの厚い生地に、熱い湿気となって吸い込まれていく。

 身体の奥から湧き上がる熱い塊を抑えきれず、彼女は嗚咽を漏らし続けた。


「何だよ、何があったんだ? 言ってみろ」


 ミコトは頭一つ分背の低い咲の頭を、大きな手で掻き抱いた。その背中に回された腕の力強さが、崩壊寸前の咲の身体を、辛うじてその場に留まらせている。


 ミコトの胸の温かさに、咲は公園での屈辱を絞り出すような声で話し始めた。

 如月エマが、宗像整備班長を描いたスケッチを見て笑ったこと。格納庫で、まるでじゃれあうように親密に触れ合っていたこと。

 そして何よりも、自分の最も秘めたる感情を、エマにおもちゃのように扱われたという、魂を抉られるような屈辱。


 話し終えると、ミコトの背中に回した咲の指に、震えが伝わってきた。

 ミコトの怒りが、まさに火山が噴火する前のマグマのように、静かに、しかし激しい熱量で膨れ上がっているのが伝わってくる。


「あの女ァ! ふざけてやがる! あたしらの大事なリョウにまでちょっかい出しやがって。よし、あたしが明日、あの如月エマのところに行って、ひとこと言ってやる! 咲とリョウにちょっかい出すな、ってな!」


 ミコトの無責任なまでの激情は、胸を締め付けるほど嬉しかった。

 しかし、その優しさに甘えることが、自分の弱さを大切な親友に押し付けることのように感じた。


「だ、ダメ! ミコト、それはダメ……!」


 咲は慌ててミコトの腕を掴んだ。


「……いいの。これは、私の問題だから。それに、彼女は一条少佐にも頼りにされてる。私が余計な波風を立てたら、また宗像整備班長にまで迷惑をかけちゃう……」


 感情的になりすぎたのか、咲は片手でこめかみを強く押さえ、小さな呻き声を漏らした。


「うっ……」


「おい、咲! 大丈夫か、顔色悪いぞ!」


「うん、大丈夫。いつもの頭痛。薬……頭痛薬飲めば、すぐに」


 咲は持っていたトートバッグを漁ろうとしたが、ミコトがそれを遮った。


「いいから、座ってろ。お前、薬持ち歩いてんだろ? ほら、貸せ!」


 ミコトは抵抗する間もなく、半ば強引にバッグを奪い取り、中身を引っ掻き回し始めた。その親切心は、遠慮という概念を遥かに超えている。


「あったあった、これか? 頭痛薬って……」


 ミコトは頭痛薬の錠剤シートの端を指先で摘まみ、それをバッグから引き抜きかけた。

 その瞬間、バッグの奥底、エデンの公園へ向かう前に、勇気を振り絞って買ったビニール包装されたいくつかの箱が、何の前触れもなく、重力に引かれて床に転がり落ちた。


 咲の視線は、それらが床にぶつかり甲高い音を立てた瞬間に、張り付けられたように動かなくなった。


 転がり落ちたもの――それは、ミントの香りを謳うフレーバー付き、極薄タイプ、そしてラージサイズ。

 自分の生々しい覚悟の証が、今、無防備に親友の部屋の床に散らばった。


 咲の顔は、一瞬で驚愕と絶望に支配された。血の気がサーッと引き、皮膚の下が冷たい氷になったように感じた。


 ミコトは、床に落ちたカラフルな小さな箱を見て、最初は何が落ちたのか一瞬理解できなかったらしい。

 しかし、頭痛薬のシートを摘んでいた指先が、床の物体を認識したショックで僅かに緩んだ。

 彼女の視線は、手元の薬と、床に散らばったそのカラフルな包みの間を、戸惑いがちに往復する。

 咲にはそれが永遠のように感じられた。


 コンドームだった。


「ぁ……」


 乾いた、声にならない呼気が喉の奥から漏れる。羞恥と屈辱が、これまでの比ではないほどの暴力的な波となって、咲の精神を打ち砕いた。

 如月エマの嘲笑よりも、遥かに生々しく、自分という女の切実でみじめな弱さを暴く、究極の秘密。


 ミコトは床に散らばったコンドームを見て、それから顔を真っ赤にしてフリーズしている咲を見た。


「こ、これは、そのっ! 違くて!」


 咲は喉の奥から悲鳴のような声を上げ、慌てて床に転がるそれを掴もうとする。

 手が震え、焦りすぎて指先に力が入らない。

 バランスを失い、人形のように床に無様に転倒した。

 もう死にたい。

 その情けない姿を見て一瞬絶句したミコトだったが、やがて、その口元から、ふっ、と息が漏れた。


 それは、付き合ってもいない男のために、来るかもわからない未来を夢想し、入念にコンドームを選び、肌身離さず持ち歩く親友の、あまりにも生々しい覚悟に対する、呆れと、そしてどうしようもない愛情が溶け合った、深いため息だった。


「……ったく。お前なぁ、そういうとこだぞ」


 ミコトは床に転がったままの咲に手を差し伸べ、力強く起き上がらせた。


「そこまで本気だったのか、リョウに。ゴムまで買って、しかもその入念なセレクション、どんだけイメトレしたんだよ」


 呆れと、隠しきれない愛情が混ざった口調。

 その言葉は、咲の胸に抱えていた最大の恥を、一瞬で最大の肯定へと反転させた。

 ミコトは咲の手に頭痛薬を握らせ、その肩を力強く掴んだ。彼女の瞳は、一切の偽りがない、親友への熱い信頼に満ちている。


「でも、いいじゃねえか。いいよ、咲。やれよ」


 ミコトは言った。


「お前は、この基地のエースなんだろ? 戦場で死に物狂いで生きて帰ってくる覚悟があるんだろ? なら、そっちだって同じだ。誰に遠慮もいらねえ。あたしが絶対に応援してやるからな」


 その言葉が、咲の心の最も深い場所に突き刺さった。

 エースとして死ぬ覚悟と、一人の女として生きる覚悟。

 それは決して矛盾しないのだと、ミコトの太陽のような笑顔が教えてくれていた。


 堰を切る。


 咲の瞳から大粒の涙が溢れ出した。自分の最も見苦しい部分、みじめな弱さを全て曝け出したのに、この友人は、ただ笑って、「やれ」と言ってくれたのだ。


「うわああああん……! ぜ、全部、あの人のせいだ! 全部、如月少尉が悪いんだっ……!」


 そう叫ぶと同時に、彼女は再びミコトの胸に顔を埋めた。ミコトは、そんな咲の姿を見て、今度は悪戯っぽく、口角を大きく持ち上げて笑う。


 ミコトは咲に抱きつかれた身体を器用に傾け、床に転がったコンドームの箱を一つ、まるで戦利品でも扱うかのように指先で掴み上げた。


「ほーら、咲。せっかく勇気出して買ったんだ。もったいねえ」


 ミコトはそう口にすると、咲の視界を遮るように、勝手に封を切り、中の薄いゴムを取り出した。そして、それを口元に当てて、真顔で息を吹き込み始めた。


「フーーーッ」


 ゴム風船のように膨らみ始めた薄いミントグリーンのコンドームが、生々しい形と不釣り合いな大きさで、二人の親密な空間に突然、出現した。


「……何、やって、んの……っ!」


 羞恥と、神聖な感情を弄ばれた侮辱。そして、親友の想像を絶する悪ふざけに、咲の頭の血管が今度こそ本気でキレた。

 片頭痛による痛みではなく、純粋な怒りが全身の理性を焼き尽くす。


「ミコトぉぉぉぉっ!!」


 咲は残っていたコンドームの箱を掴むと、ミコトに向かってぶん投げた。

 箱は放物線を描き、パコン、とミコトの額に命中する。

 散らばった個包装のコンドームが、まるで祝福の花吹雪のように、ミコトの部屋に舞った。


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