ゲーム・スタート



 殺す気ですか? と聞くたびに、あの女は「ううん! まさか!」とにっこり答える。


「……嘘つきぃ」


 東雲葵中尉との模擬戦で叩きつけられた衝撃が、まだ全身の軋みとなって残っている。


 杉浦咲が市営バスを降りると、訓練で火照った身体から熱い息が吐き出された。


 また負けた。

 あれからほとんど毎日、模擬戦を挑んで結局、一発も打ち込めなかった。あの人は、やはり強い。

 圧倒的な技量差を刻み込まれ、よろめいた足はアスファルトを掴み損ねそうになる。


 しかしなぜ、あれほどの腕を持ちながら、葵はパイロットを辞め医務官になったのだろう。アヴァロンの剣とまで呼ばれたパイロットが。

 答えの出ない問いが、熱を持ったまま咲の頭の中で渦巻いていた。


 市街地の喧騒を抜け、慣れた足取りでたどり着いた閑静な公園。ここが、今の咲にとって数少ない聖域だった。

 西日が木々の間から長く優しい光の筋を落とし、世界の輪郭を柔らかくぼかしている。


 一番奥のベンチに身体を沈み込ませると、トレーニングウェアのジッパーを下げて熱気を逃がし、ようやく強張っていた肩から力が抜けていくのがわかった。肩から滑り落ちた手荷物のトートバッグがベンチで力尽きる。


 夕陽が眩しい。咲は目を瞬く。


 明日の朝には、愛機ヘカテの最終調整が終わる。一ヶ月ぶりの、戦場への復帰。

 その事実は、胸の内に「安堵」と「恐怖」という、決して混じり合わない二つの液体を同時に注ぎ込むようだった。


 それらを宥めるように、咲はトートバッグから少し奮発して買った箱を取り出した。エデン限定販売の「星屑ショコラ」。


 銀紙を剥がし、一粒を口に放り込む。上質なカカオの香りが鼻腔を抜け、舌の上でゆっくりと溶けていく甘さの奥から、微かな塩味が顔を覗かせた。

 口の中に広がるその味は、束の間、戦場という現実を忘れさせてくれる。


 満たされた心地のまま、膝の上のスケッチブックを開く。

 慣れた手つきで滑る鉛筆の芯が、紙の上に確かな線を結んでいく。

 公園の穏やかな風景。親友である神崎ミコトの、全てを照らす太陽のような屈託のない笑顔。そして、格納庫で静かに主の帰りを待つ、漆黒のヘカテ。


 ふと、指が自然と違う形を求め始めた。整備服姿の宗像リョウ。

 彼の、機体を見つめる真剣な眼差し。時折見せる、優しい横顔。

 他のどの絵とも違う、熱を帯びた線が紙の上を走る。

 咲はそのページを、すぐにめくることができない。胸の奥が、期待と羞恥できゅっと引き締められる。


 意を決して次のページをめくった瞬間、指が止まった。

 そこに描かれていたのは、数日前に見た、おぞましい悪夢の光景。

 いつ、描いたんだろう。

 無数の星々を背景に、神々しいまでに美しく、同時に冒涜的なほどに異形な宇宙怪獣が巨大な顎を開いている。

 その餌食になろうとしているのは、醜く表情を歪ませ、みっともなく泣き叫ぶパイロットスーツ姿の「自分」。

 絵を見つめる指先が、カタカタと震え始める。


 気づいてしまった。そうだ。私は、怖いんだ。

 明日、あの戦場に戻ることが、どうしようもなく怖い。

 もしかしたら、私の精神は、もう正常ではないのかもしれない。


 ページを開いたまま、咲はうつむいた。その頭上から、ふいに影が落ちる。


 次の瞬間、膝の上にあったはずのスケッチブックが、ひったくるような動きで奪われた。


「――あ!」


 振り返ると、そこに如月エマが立っていた。悪戯が成功した子供のように無邪気な笑みを浮かべて。


「へぇ、絵が上手なんだね、杉浦少尉」


「か、返して! 返してください!」


 声が震え、涙で視界が滲む。パニックで立ち上がった身体から、全身の血の気が引いていくのが分かった。


 エマは咲の懇願など聞こえていないかのように、楽しそうにページをめくっていく。


「わ、ミコト少尉だ。そっくり。……こっちは、君のヘカテかな? ずいぶん大事にされてるんだね」


 そして、宗像リョウの横顔が描かれたページで、彼女の指がぴたりと止まった。


「……へぇ。宗像整備班長のこと、好きなんだ」


 その言葉は、静かだった。静かだからこそ、咲の鼓膜を鋭く切り裂いた。


「いやっ! 見ないで!」


 羞恥と恐怖が沸点を超え、思考を焼き尽くす。衝動的に、スケッチブックを奪い返そうと手を伸ばした。


「この!」


 しかし、その腕がエマに届くことはなかった。代わりに彼女の足元に、エマの靴がいとも簡単に差し入れられる。


 咲の身体はバランスを失い、自分の浅い呼吸の音と、地面に倒れ込む直前の風切り音だけが聞こえる、永遠にも思える一瞬の後に、芝生の上に無様に転んだ。

 身体に走る鈍い衝撃よりも、晒された羞恥の方が遥かに痛い。湿った芝生の匂いと、土の冷たさが屈辱をさらに際立たせた。


「あはは、危ないよ」


 エマは悪びれもせず、心底楽しそうに笑っている。


 彼女はなおもスケッチブックをぱらぱらとめくり、何かを思いついたように顔を上げた。


「ねえ、このスケッチブック、気に入っちゃった。どれか一枚、私にちょうだいよ。記念にさ。……これとか、どう?」


 咲の目の前に、一枚のページが差し出される。そこに描かれていたのは、熱を帯びた線で描かれた、宗像リョウの横顔だった。


 咲の瞳から、すうっと色が消えていく。


「それだけは……それだけは、やめてください……お願いします……」


 懇願は、もはや声になっていなかった。ただ、唇がかすかに動くだけ。


 その絶望しきった表情を心底満足そうに眺めてから、エマは微笑んだ。


「なーんてね、冗談だよ」


 彼女は咲の前にしゃがみ込むと、まるで愛しいペットにするかのように、転んだままの咲の頭を優しく撫でた。


 そして、ベンチに置かれた箱から「星屑ショコラ」を一粒つまむと、有無を言わさず、咲の口にぐい、と突っ込んだ。


「はい、あーん。元気出して?」


 抵抗する間もなく、口の中に甘ったるい味が広がる。その理不尽な優しさに、咲はただエマを睨みつけることしかできなかった。


「うん、いい顔するね。君のそういう顔、好きだよ」


 エマは立ち上がると、「はい、おしまい」と言って、スケッチブックを咲の胸の上に放った。


「上手な絵だった。戦争が終わったら、画家さんになったらどうかな」


 奪われた。見られた。転ばされた。なのに、褒められた。

 矛盾した情報の奔流が、ショートした回路のように思考を麻痺させる。

 混乱と屈辱の中、咲はただスケッチブックを強く抱きしめ、逃げるようにその場から走り去った。


 ◇


 誰もいなくなった公園。


 咲が座っていたベンチに、今度はエマが腰掛けている。

 楽しそうに鼻歌を歌いながら、ポケットからくしゃくしゃに丸められた一枚の紙片を取り出した。

 それは、先ほど密かに破り取った、スケッチブックのページだった。

 そこに描かれていたのは、リョウでも、ミコトでもない。

 パイロットスーツを身に纏い、挑戦的に、そしてどこか妖艶に微笑む――魔女のような表情をした、如月エマ自身の姿だった。

 エマはその絵をしげしげと眺め、くすりと笑う。


「私、こんなに怖い顔してたかな?」


 呟くと、彼女は絵をさらに小さく丸め、近くのゴミ箱に向かって正確に投げ捨てた。そして、自分の両頬をぐりぐりと揉みほぐす。


「……可愛くしなきゃね」


 唇が、美しい三日月の形を描いた。


「獲物は、油断させなくちゃ」


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