死者の呼び声
神話の時代、船乗りたちはその歌声に惑わされ、抗いがたい眠りの中で岩礁へと誘われたという。歌声は脳を蕩かし、理性を麻痺させ、死の口づけを甘美な夢だと誤認させた。
セイレーン。
その名は、抗う術なき破滅の旋律。
そして今、アヴァロンの闇の中にも、新たな神話が生まれようとしていた。
深夜のアヴァロン基地司令室は、深海のような静寂に支配されていた。唯一の音は、天井から吐き出される空調の、感情のない駆動音だけ。
デスクの奥に座る一条彩の横顔を、ホログラムディスプレイが放つ無数のデータウィンドウが、死者の顔色を思わせる無機質な光で照らし出している。
その瞳に映る文字列。
戦死者リスト。それは彼女が今、最も目を逸らしたい現実の刃。
まだ数名。だが、放置すればこのリストは際限なく増殖していく。
彩はこめかみを指で押し込み、固く閉じた瞼の裏で明滅する残像を振り払おうとした。
デスクの隅に追いやられたコーヒーカップからは、とうに湯気が消えていた。
冷えきった黒い液体が、この夜の長さを無言で告げている。
リストの一番上に表示されたパイロットの顔写真が、網膜に焼き付いて離れない。
彩の脳裏に、数日前の光景が鮮明にフラッシュバックする。
『――司令、行ってまいります!』
真っ直ぐな敬礼と共に、彼は言ったのだ。
『娘の誕生日なんです。必ず、生きて帰ってきます』
その言葉が、今や呪いのように彩の鼓膜の内側で反響している。
彼の死因は、敵との交戦によるものではない。
セイレーンの電子パルスに汚染された自機の武装システムが暴走。
制御不能に陥った機体が、味方の対撃砲火の射線に飛び込む形での、自滅だった。
その時、ドアが二度、静かにノックされた。
「一条少佐。少しよろしい?」
白衣姿の東雲葵中尉が入室し、司令室の冷たい空気に、医務室特有の、僅かに消毒液が混じった匂いを持ち込んだ。
彼女は一条のデスクの上に、杉浦咲の訓練に関する報告書を静かに置き、空いている客席には座らず、デスクの角に軽く腰をかけた。
「今日の杉浦少尉との訓練報告よ。あの子、タイラントがスクラップになってからゲイルに乗ってるんだけど、毎日毎日、飽きもせず模擬戦を挑んでくるの。こっちの身がもたないわ」
葵はそう言って、やれやれと肩をすくめる。
「そうか。しかし、よく平気だな、お前も。ベティ・カーライル少尉から無断で借りたタイラントをスクラップにしておいて」
彩の言葉に、葵は悪びれもせずに肩をすくめた。
「あら、近接戦闘型だって言うから殴ってみたら壊れたのよ。そんな柔な機体、実戦じゃ使い物にならないわ」
「……その理屈が通るなら、兵器はいらん」
「おかげでベティちゃん、カンカンに怒っちゃって。ケルベロスはもう貸してくれないんですって。だから私も量産機で咲ちゃんの訓練に付き合う羽目になったのよ。こっちの身にもなってほしいわ」
葵の視線が、彩の顔から、デスク上の戦死者リストへと滑り落ちる。
彼女は指先で彩の冷めたコーヒーカップをくるりと回しながら、話題を変えた。
「杉浦少尉も神崎少尉も機体の修理待ち、鳴海少尉は独房。エース三人が不在の今、このアヴァロンをたった一人で支えているのは、新顔の如月エマ少尉ね」
その声には、先ほどまでの軽やかさはなかった。
「セイレーンがうろつくこの宙域で、無傷なのは彼女の『アルテミス』だけ。電子戦に慣れていないパイロットは、今や出撃することすら危険な状況よ」
「チャンバラやバンバンばかりで、電子戦を軽視するパイロットは多いからな」
彩が吐き捨てるように言う。
「咲ちゃんなんて、その典型。パソコンと睨めっこするくらいなら、模擬戦を百回やった方がマシって言うんだもの」
「……お前もだろう」
彩の呆れたようなツッコミに、葵は「あら、心外だわ」とすっとぼけた表情で肩をすくめてみせる。
「でも、あの如月エマの技術は……まるで『魔女』ね」
「期待には応えてくれている。……だが、底が見えないな」
「怪獣に興味を持つなんて、悪趣味にもほどがあるわ。下手をすれば、怪獣との共存や同化なんて言い出しかねない」
「事前調査では、単に研究熱心なだけで、危険思想の傾向は見られなかったが」
「あの子が、安々と身辺調査なんてさせると思う? 調査員の一人や二人を言いくるめるくらい、彼女なら朝飯前でしょうね」
彩は、思わずかすれた声で笑った。
「……東雲中尉は、如月少尉が嫌いか」
「さあ? ただ……怪獣は倒すべき敵よ。観察したり、利用したり、仲良くしたり、ましてや食べたりするようなものじゃないわ」
その言葉に、彩の脳裏に別の顔がよぎった。
「……鳴海志帆も、同じことを言っていたな」
「そうね。あの子は、私に似ているから」
葵は静かに笑った。そして、その笑みが消えた瞬間、司令室の空気は再び凍りついた。本題に入る前の、嵐の前の静けさだった。
彩は、もう逃げられないことを悟っていた。助けを求めるように、あるいは、断罪されることを覚悟した罪人のように、彼女は口を開いた。
「なあ、葵……セイレーンの報告書は読んだか?」
「ええ」
葵は一瞬だけ表情を消し、その瞳に冷徹な元エースパイロットの光を宿した。
「ほとんどの死因は電子戦による機体不具合と、それに誘発された自滅的行動。計器が全て沈黙した暗闇の宇宙で、己の目だけを頼りにマニュアルで機体を制御できるパイロットが、この基地に何人いるかしら」
その言葉が、彩の罪悪感を的確に抉った。
彩はテーブルの角を、人差し指でコツ、コツ、と意味もなく叩き始める。
「もし……もし、私が鳴海志帆を独房に入れていなければ、死なずに済んだ部下もいたのかもしれない」
「……彩」
「先日、桐生夏輝に言われたよ。鳴海少尉がいないことが、今どれだけこの基地を危険に晒しているか、司令官は理解しているのか、と。……一瞬、言い返せなかった」
声が、自分でも情けないほどに震えていた。
「もっと早く、如月エマを呼び寄せていれば……。そうすれば、助かった命もあったんじゃないか……」
罪悪感が、重い粘液のように胃の底からせり上がってくる。判断の全てが間違いだったのではないかという疑念が、信念を痙攣させる。
「夏輝ちゃんは……あとでたっぷりお仕置きが必要ね」
葵の声は氷のように冷たい。
「味方機を攻撃した鳴海志帆を許すというのなら、このアヴァロンはもう軍隊ではなく、あなたの私設兵団だわ」
葵はデスクの角から身を起こし、彩に一歩近づいた。
「そして、如月エマを呼び寄せたことが正解だなんて、誰にもまだわからない。あの女が、やがて災厄にならないと言い切れるの? あなたの判断が、正しいなんて、誰が保証するのよ」
その辛辣な詰問は、彩の最も深い部分を突き刺す。
「ねえ、彩。悲しんで、誰か一人でも戦場から生きて帰ってきた者がいる?」
その声には、一切の感情が乗っていなかった。
「あなたの言うその悲しみやつらさは、センチメンタルに過ぎないわ。戦場において、そんなものは何の価値もない。ただの感傷よ」
葵は、さらに半歩、彩ににじり寄る。物理的な圧力が、彩の呼吸を圧迫した。
「目の前の敵を撃ち、そして生き残る。重要なのはそれだけ。……たったそれだけの、単純なことから逃げ出したいあなたのその脆さを、人は『心』と呼ぶのかもしれないわね」
一条の瞳が、僅かに潤んだ。だが、涙は決して流れなかった。
葵の言葉は、正しい。痛いほどに、正しい。
だが、それを受け入れた瞬間、自分は心を失ったただの『道具』になってしまうのではないか。
この苦痛を捨てて、自分は人間でいられるのか。
心まで、あの宇宙怪獣と同じになってしまうのではないか。
その恐怖が、彼女の魂を締め付ける。
彩は、その全ての葛藤を、滲んだ涙ごと、奥歯で噛み砕くように飲み込んだ。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、先ほどまでの迷いも、苦痛の影も、綺麗に消え去っていた。そこにあるのは、全てを覚悟した者の、鋼鉄の光だけだった。
「……それで、セイレーンへの対策は決まったの?」
葵が、静かに問う。
「……毒を食らわば、皿までだ」
彩は短く答えた。その一言に込められた意味を、葵は即座に理解した。「魔女」を、その毒牙ごと利用する。その覚悟を。
その決意を読み取った葵は、満足げに「お手並み拝見ね」と笑うと、司令室の給湯器で新しいコーヒーを淹れ始めた。
差し出されたカップを受け取り、一口飲んだ一条は、盛大に顔をしかめた。
「……なぜお前の淹れるコーヒーは、毎回こうも絶望的にまずいんだ」
「なんですって!?」
「事実だ」
怒った葵が、一条の首を背後から楽しげに締め上げる。
その腕の温もりに、十年前の記憶が重なった。
まだ何者でもなかった、ただのパイロット候補生だった頃。
訓練の後、こうして他愛なくじゃれ合っていた二人の、屈託のない笑顔。
鋼の仮面の下で、一条彩の口元に、誰にも気づかれない、ほんの微かな笑みが浮かんでいた。
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