あなたはフェイク
冷たく無機質な通路を、桐生夏輝は一人歩いていた。
固く握りしめられた拳の中で、爪が掌に食い込む痛みだけが、沸騰しそうな思考をかろうじて現実へと繋ぎ止めている。
(なぜ、誰も分からないの……!)
一条司令の、あの氷のような宣告。神崎ミコトと杉浦咲の、馴れ合いの友情。宗像整備班長の、偽善に満ちた気遣い。その全てが、夏輝のプライドをずたずたに引き裂いた。
志帆が、あんな屈辱的な暴力を受け、独房に送られるというのに。このアヴァロンの誰もが、あの人の孤高の魂を、その圧倒的な強さを理解しようともしない。
理不尽な世界への怒りで、胃が焼けるように熱い。狂気の戦姫――その不在がもたらす戦力的な穴を、なぜ誰も直視しないのか。
あれは不当な監禁だ。そしてその元凶は、あの杉浦咲と、彼女を甘やかす周囲の全てにある。
その思考の迷路は、通路の分岐点に現れた一つの人影によって途絶えた。
一条の司令室へと向かう通路で、データパッドを見ながら歩く小柄な女。くすんだ銀色の髪、人形のように大きな紫色の瞳。
如月エマ少尉。
志帆の代用品として、この基地に呼ばれた技術官。
その存在を認識した瞬間、夏輝の中で渦巻いていた行き場のない激情が、明確な敵意へと収束していく。
「――待ちなさい」
気づけば、夏輝はエマの進路を塞ぐように立ちはだかっていた。
データパッドから顔を上げたエマの紫色の瞳が、何の感情も映さずに夏輝を捉える。
「あなたが、如月エマ少尉ね?」
「そうだけど。……君は?」
「桐生夏輝、少尉候補生よ」
睨み返す瞳に、ありったけの敵意を込める。
「忠告しておくわ。あなたがどれだけ優秀なパイロットか知らないけれど、私は、あなたを志帆様の代わりだなんて、決して認めないから」
それは、この基地における序列を叩き込むための、宣戦布告だった。
だが、エマの反応は、夏輝の予想を根底から裏切った。彼女は、怒りも、反論も、驚きさえも見せなかった。ただ、心の底から億劫そうに、小さく、ほとんど聞こえないほどの溜息を一つ吐いただけだった。
「……それで? 言いたいことは、それだけ?」
その声には、感情というものが一切乗っていなかった。まるで、道端の石に話しかけられたかのような、絶対的な無関心。
「なっ……!」
「私、一条少佐に用があるから、そこをどいてくれないかな。君との会話、時間の無駄だと思うんだけど」
「分からないの!? 志帆様がいない今、このアヴァロンがどれだけ危険な状況か……!」
「知らない。興味もない」
エマの絶対的な無関心は、夏輝の怒りを沸点へと叩き込んだ。
「あなた……!」
激情に突き動かされるまま、彼女はエマの肩を掴もうと、右手を乱暴に伸ばした。
瞬間。
伸ばしたはずの右手が、目標に届く前に、ふわりと現れたエマの左手に掴まれていた。まるで、そこに待ち構えていたかのように。
コマ送りじみた最適化。
エマは掴んだ夏輝の腕を引くと同時に自らの身体を沈ませ、その勢いを殺すことなく利用して、夏輝の身体を床へと薙ぎ倒していた。
「いっ……!」
肺から全ての空気が強制的に絞り出され、背中に鈍い衝撃が走る。息を詰まらせた夏輝の思考がパニックに陥るよりも早く、腕の付け根に焼けるような痛みが走った。
エマは、夏輝の右腕を完璧な角度で捻り上げ、床に引き倒した状態で関節を極めていた。その動きには、感情的な乱暴さは微塵もない。
背の急所に石のような膝頭が食い込む。
「いやあああっ! い、痛い! 離して! 離しなさい!」
夏輝は激しい痛みに身をよじる。しかし、エマの力は、華奢な見た目からは想像もつかないほど強靭だった。
ギリッ……
夏輝の腕から、骨が軋むような、ぞっとする不快な音が響いた。その音を聞いた瞬間、痛みも何もかもが遠のき、息が止まった。
「あああああっ!」
「弱い犬ほどよく吠える、って言うけど、本当なんだね」
頭上から降ってくる声は、先ほどと何も変わらない、平坦で、温度のない声。
「い……いやっ! いやああああっ!」
「やめてほしい?」
エマの声が、悪魔の囁きのように耳元に響く。
「このまま、ほんの少しだけ力を入れたら、君のその腕、綺麗に折れると思うんだけど。試してみる?」
「いやっ、やめ…! ごめんなさ…あああっ!」
「何? よく聞こえない」
「ごめんなさい! 許してください! 私が、私が悪かったですから!」
プライドなど、一瞬で砕け散った。夏輝は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、ただ必死に許しを乞うた。
懇願。命乞い。床に額をこすりつけ、ただ必死に謝罪の言葉を繰り返す。
ふ、と。腕にかかっていた圧力が消えた。
解放された腕を押さえ、夏輝は床に蹲って嗚咽を漏らす。その前に、エマがゆっくりとしゃがみ込んだ。
そして、まるで怯える小動物をあやすかのように、夏輝の焦茶色の髪を優しく撫でた。
「いい子。でもね、勘違いしないで。私は、君が志帆様とやらを崇拝しようが、私を憎もうが、心底どうでもいいの。君という存在に、一ミリも興味がないから」
エマは立ち上がり、夏輝を見下ろす。
「二度と、私に話しかけないで。次に私の視界に入って、ノイズを発生させたら――」
夏輝の頭上で、愛を囁くように言った。
「――その腕、本当に折るからね」
夏輝は、絶望と恐怖に支配され、ただ必死に、何度も何度も頷いた。
エマは満足げに微笑み、夏輝のことなどもう忘れたかのように、データパッドに視線を戻し、何事もなかったかのようにその場を立ち去っていった。
一人、冷たい床に取り残された夏輝は、ようやく悟った。
目の前に現れたのは、代用品などではない。人間ではない。
宇宙怪獣よりも、もっとずっと恐ろしい、本物の――。
「……魔女……」
その唇から、震える声で、その言葉が漏れた。
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