第28話 過去

乾いた土の匂いが鼻に刺さる。

桶に入れた水はすでにぬるくなっていて、肩に食い込むほど重い。


それでも私は歯を食いしばって歩いた。


――あの小さな家に、水を持って帰らなければ。

扉を押し開けると、かすかな咳の音が耳に届いた。

痩せこけた母が、布団の上でこちらを見ている。


「……おかえり」


掠れた声だった。

私は慌てて桶を下ろし、木の椀に水を注いで差し出す。


「ほら、母さん。少しでも飲まないと」


母は震える手で椀を受け取り、口に水を含んだ。

その喉が動くのを見て、ようやく胸の奥が少しだけ軽くなる。


「ありがとう……リヴィア」


腐った匂いと絶望が入り混じったこの街で

母だけが私を「リヴィア」と呼んでくれる。

その瞬間だけは、私は誰かに必要とされていると思えた。


母はもともと、上級家に仕える下女だった。

けれど――私を身ごもったことで、立場を追われた。


「旦那様に……迷惑をかけてしまったの」


母はいつもそう呟いていた。

本当は、旦那様――つまり父が原因だったのに、

母は気が弱く、真実を口にすることができなかった。

追放され、病に倒れ、それでも私を抱きしめては言った。


「リヴィアは……強い子だから……大丈夫」


だが、なぜこんなに辛い日々を過ごしているのか、幼い私には分からなかった。


「お父さんのことは忘れなさい」

と言われていたが、忘れられなかった。


母が時折、どこか遠くを見るような目をして

「お前には兄がいる」と言ったからだ。

立派で、優秀で、誰からも称賛される人だと。

私は想像した。

もしその兄と一緒に暮らせたら、母は幸せになれたんじゃないか、と。


「ねえ母さん」


ある夜、私は布団に横たわる母に問いかけた。


「お父さんが偉くて、お兄ちゃんが立派なら……きっとお金持ちなんでしょ? だったら、私たちもそこに行けばいいじゃん!」


我ながら子供じみた考えだった。

だが、そのときは本気でそう思ったのだ。

一緒に暮らせば、母がこんなに苦しまずにすむ、と。

母は一瞬だけ、言葉を失ったように目を見開いた。

やがて、かすかに震える声で言った。


「それは……ダメなの」


「どうして?」


「……いいから。忘れなさい」


その声は普段よりもずっと強かった。

それ以上、私は聞けなかった。

けれど幼心に理解した。

母にとって“そこ”は、決して戻ってはいけない場所なのだと。


桶を運んで水を飲ませる日々は、そう長くは続かなかった。

母親は私が十三になる頃に死んだ。


薬なんか買えるわけもなく、

貧民街で病気の女とガキが生きていけるわけもなく、

ただ日に日に弱っていって――

最後には言葉も出せないまま、静かに息を引き取った。

握った手から、温もりが消えていく。

私は声を上げなかった。

泣くことも、叫ぶこともなかった。

ただ、布団の上で冷たくなっていく母を見つめていた。


**


母の死からの日々は、地獄そのものだった。

盗み、殴られ、飢えを誤魔化しながら、気づけば四年が過ぎていた。

生きるために、私はどんな手も使った。

殴られても、血を吐いても、食べ物を口に入れる瞬間だけが生への執着を繋いだ。


そんなある日、私は首都に忍び込み、露店でパンを盗んで逃げ回っていた。

路地を抜け、息を荒げて大通りに出たとき──そこに、陽光を浴びて立つ男が目に入った。


「レオン=グレンデル様!」

「五強のレオン様だ!」


周りの兵士や民衆が、一斉に頭を下げる。

その姿は、母が語っていた「兄」の面影そのものだった。背が高く、気品に満ち、誰からも慕われている。


私は息を呑んだ。

──兄ちゃん?。

気づけば、盗んだパンを抱えたまま駆け寄っていた。


「もしかして、兄ちゃん!?」

レオンは振り返り、きょとんとした顔をした。


「……兄ちゃん?」

一瞬だけ考えるように目を細め、そして穏やかな笑みを浮かべた。


「いやあ、僕に妹なんていないんだけどな」

周りの兵士や町人がクスクス笑う。

その笑顔は冗談めかしていて、誰が見ても爽やかな一幕に映った。


だが──レオンは私に目配せをした。


「……ちょっとこっちに来いよ」

人気のない路地裏に連れ込んだ後、その笑顔は消えた。


「名前は…リヴィアだっけ?父上から聞いている。お前は、本来“生まれてはいけなかった”存在だとな」


「……っ!」


心臓を掴まれたように息が詰まる。


「お前が生きてる限り、お前と僕の血が繋がっていることは、いずれ誰かに知られるだろう。だがいいか、リヴィア。忘れるな」


彼の声は低く、背筋を這い上がる。


「お前が“グレンデルの名に傷をつける存在”になった時点で、僕は迷わずお前を切り捨てる」


私は必死に反論する。


「私は……私は、兄ちゃんの足を引っ張るつもりなんか――」


「兄と呼ぶのは構わない」


レオンは淡々と告げる。


「だが他人の前ではあまり口にするな。僕に妹がいることをあまり知られたくない。」


「どうして……?」

 

彼は吐き捨てるように言った。

「お前の存在はグレンデル家の汚点なんだよ。」


それからだった。

私が兵士を目指そうと思ったのは。

母を守れなかった自分を憎んだ。

盗みでしか生きられない自分を軽蔑した。

頭が良くない私にできることは一つ。


――強くなるしかなかった。

兵士として戦場に立てば、食える。

戦いに勝てば、生きられる。

そうやって私は、血反吐を吐きながら剣を振り続けた。


やがて、仲間と呼べる者たちもできた。

同期のゲイル。

強いが、殺さない優しさを持つ男。

彼の存在は、私に人としての温かさを思い出させた。

だが――それすらも。


「ゲイルの昇格は無しだ」

「なぜですか!? あいつの実力は――!」

「不要だ。規律に合わない兵士は、上には行けない」


裏で糸を引いたのは、レオンだった。

彼は私の仲間を一人、また一人と左遷させ、追い出していった。

理由はただ一つ。


――私が誰かと“仲良く”するのが気に食わないから。


彼にとって私は、ただの汚点。

それ以上でも、それ以下でもなかった。


これは私のせいだ。

私と話したから、レオンに目をつけられた。

それから、私は人と深く関わることをやめた。

仲間と呼べる者ができるほど、それを兄に壊されていくのが怖かった。

兵舎で笑い声が上がっても、私はあまり輪に加わらなかった。

ただ剣を振り、ただ戦いに出る。

気づけば、心は乾ききっていた。


そしてある日、金を盗まれ路地裏で空腹に一人、耐えていた。


「……もう、何のために生きてるんだろ」


母を守れず、仲間を奪われ、金を盗まれ、何も残せない自分。

私は、誰の記憶にも残らず死んでいくのだろうと、そう思っていた。

そんな時だった。


「なあ、大丈夫か?」


路地裏に、声が降りてきた。

振り向くと、見知らぬ青年が立っていた。

どこか頼りなげで、それでも真っ直ぐにこちらを見つめていた。


――ネフだった。


「……放っておけ」

思わず吐き捨てた。だが少年は笑って、差し出した。

手に持っていたパンを。


「腹、減ってんだろ?」


震える手でそれを受け取った瞬間、胸の奥に溜め込んでいた何かが決壊した。

涙が、勝手にあふれて止まらなかった。

パンの味なんて覚えていない。

ただ、誰かが私に与えてくれた温もりが、心に沁みた。


――ああ、まだ生きていてもいいんだ。

そう思えた。

母を守れなかった私にも、仲間を失った私にも、もう一度立ち上がる理由ができた気がした。

乾ききっていた心に、確かに何かが流れ込んでいくのを感じた。

だからこそ、私は決めたのだ。


この光を、失いたくはない。

二度と奪わせない。

ネフを守る、この日からそう決めた。

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