第10話 戦場に潜む黒き影
男は、土埃の中からゆっくりと顔を上げた。
戦場の喧騒はまだ遠くで続いているのに、その周囲だけは妙に静まり返っているように感じられる。
「――あの男、強かったなぁ」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく呟く。
その声には疲労も怒りもなく、ただ事実を確認するような平坦さがあった。
男は折れた左腕をぶらりと下げ、視線を落とす。
「まさか、あの一瞬で……左手を折られるとはね」
軽く笑みを浮かべながら、関節の曲がらない腕を揺らしてみせる。骨の軋む音が、耳の奥を不快に震わせた。
俺とノルは、言葉を失ったまま視線を交わす。
男の様子は、痛みを訴えるどころか、むしろ楽しげですらある。
その異様さに、困惑と警戒心が同時に胸に広がった。
「……でも、君たちは」
男の灰色の瞳が、ゆっくりとこちらを射抜く。
「そこまで強くなさそうだね」
にやり、と笑う。その笑顔には悪意も好意もなく、ただ純粋に観察対象を面白がる色があった。
「さっきの、白髪の男に守られてたのかなぁ?」
その口調は、挑発とも世間話ともつかない軽さだった。
「……こいつ、強い」
ノルの低い声が、すぐそばで響く。
冗談やハッタリではない。本気でそう感じている声だ。
男は、地面に片膝をついたまま、ゆっくりと立ち上がる。
その動作は、無駄な力が一切なく、重力さえ拒むかのように静かだった。
灰色の瞳が、今度は確実に俺たちだけを見据えた。
背中に、冷たい汗がじわりと滲む――。
「そういえば、名乗ってなかったね」
目の前で、まるで世間話のような口調で言う。
「ヴェルド。どうせすぐに死ぬから意味ないかもしれないけど……」
その声には冗談めいた軽さがあるのに、体は一瞬たりとも緩んでいない。
次の瞬間、ヴェルドが消えた。
本当に――視界から霧散したかのように。
足音も、呼吸も、気配もない。
さっきまで正面に立っていたはずの影が、まるで存在そのものを消し去ったかのようにどこにも見えない。
「ッ……!」
反射だけでノルが剣を振り抜く。
金属同士がぶつかる鋭い音と同時に火花が散った。
その瞬間、ヴェルドの姿が現れる――いや、現れたのではない。ただ気づけばそこにいた。
片腕、折れた左はだらりと下げたまま、右手だけでノルの剣を受け止める。
重さはない。むしろ軽く押し返され、逆にノルの体が後ろに揺らぐ。
その隙を突くように、ヴェルドはするりと死角へ滑り込んだ。
――見えない。感じられない。
目の前にいるはずなのに、意識が捉えられない。
「くっ!」
俺は一歩下がり、剣を構え直す。
だが間合いを取った瞬間には、もうヴェルドの姿は別の場所にあった。
その動きは疾風のようで、ただの速さではない――存在そのものを錯覚させる、そんな異常な技だ。
再びノルが迎撃する。金属が打ち合う鈍い衝撃音。
ノルの踏み込みは地を割る勢いだが、ヴェルドはその力をいなすように手首ひとつで方向を逸らす。
「ノルッ!」
俺も横から斬り込む。
だがヴェルドは軽く後ろへ体を流し、俺の刃先を髪の毛一本分で避けた。
追撃――そう思った瞬間、視界からふっと影が消える。
「……っ!」
背後!
反転しようとしたが遅い。首筋に冷たい風が走り、ぞわりと皮膚が粟立つ。
刃は届かなかったが、次で確実に終わるだろう。
場所が分からなくやりづらい。
その時、脳裏にあの感覚が蘇った。
深く息を吸い、視界の奥へ潜り込む。
――淡く輝く輪郭。
戦術眼。
ぼんやりと光るオーラが、ヴェルドの位置を示す。
ゲイルほどではないが、それでも俺の何倍も大きい。
そして、その色――深い闇に溶ける黒、その中に不気味な紫が混じって揺れている。
視ただけで胃の奥が冷え、心臓を握られるような圧迫感があった。
……だが、これで見える。
もう消えられない。
「そこだッ!」
反転しざま、刃を振り抜く。
金属音ではなく、生々しい肉を裂く手応え。
薄く赤い線がヴェルドの腕に走る。
「……おや?」
ヴェルドの笑みが、一瞬だけ揺らいだ。
その微細な変化をノルは逃さない。
「もらった!」
地を蹴る爆音。
ノルの剣が弧を描き、ヴェルドの脇腹を抉る。
裂けた布と皮膚から鮮血が噴き、地面を赤く染めた。
だが、ヴェルドは呻かない。
代わりに、右足が地を踏み砕いた。
――速い。
だが、反撃は一瞬だった。
ノルの剣が止まった瞬間、その胴へ拳がめり込む。
まるで巨大な鉄槌で叩きつけられたような衝撃音。
次の瞬間、ノルの体が宙を舞い、十メートル先の地面に叩きつけられた。
重い音と土煙が同時に上がる。
「ノルッ!」
俺の叫びと同時にヴェルドがこちらを振り向く。
相変わらず足音は一切しない。ただ紫を帯びたオーラの揺らぎだけが、その存在を示していた。
「あとはお前と…あの子供だけだね」
湿った声が、戦場の空気をさらに重くする。
俺は構えを直し、一歩踏み込んだ。
心臓の鼓動が耳の奥で爆音のように響く。
そして――ヴェルドの姿もまた一歩ずつ近づく
**
土煙がゆっくりと晴れ、ノルの姿が露わになる。
うつ伏せに倒れたまま、肩がわずかに上下しているが――多分、もう立ち上がることはできない。
あの拳の衝撃をまともに受けて、生きているだけでも奇跡だ。
視線を横に走らせる。
遠くでアレンが剣を構えていた。
距離があるため今すぐ駆けつけることはできないが、その眼は明らかにこちらを見据えている。
――俺とノルが負けたら、自分が戦うつもりなのだろう。
だが、そんなことはさせられない。アレンでは一瞬でやられる。
さらに奥では、ゲイルがあの二人の敵と刃を交えていた。
見た限り、押しているのはゲイルの方だ。だが戦線は拮抗しており、こちらへ加勢が来る余裕はまだなさそうだ。
つまり――。
このヴェルドと戦えるのは、今、この場で、俺だけ。
逃げ場も、助けもない。
腹の奥で、静かに火が灯る。
震える足を一歩前に出すと、砂を踏む音がやけに大きく響いた。
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