一、狐面の忍び

 ──人の世に在りながら、人ならぬものの噂というものがある。


 それは霧のように輪郭を持たず、それでいて確かに人々の耳へと忍び込み、恐れと共に記憶される。織宮おりみやの地にまつわる“それ”もまた、そうした語り草の一つだった。


 幾つもの戦が交錯するこの時代において、織宮が関わる戦場では、まれに不可思議な戦死者の痕跡が残された。

 刀傷はただ一つ。首、心臓、喉笛──必ず急所のみを、ただひと振りで仕留められた兵ども。無残ではなく、静かで、まるで舞うような死に様であったという。


 生き残った者が語るは、闇を裂くように現れた、ひとつの影。

 その面に刻まれしは、冷たき狐の眼。


 誰もその正体を見たことはない。

 だが、確かに“存在した”と、多くの者が口を揃える。

 曰く――


 「織宮は、狐の化け物を飼っているのだ」と。



***



 夜は静かだった。

 月のない空の下、荒れた村は獣のように息を潜めていた。


 粗末な家の前に、野盗が二人。ぼさぼさの髪と酒臭い息を撒き散らしながら、下卑た笑いを交わしていた。


「中の女、なかなかだったぜ。泣いても喚いても構わねぇ。どうせこんな村の娘、誰が惜しむってんだ」

「おい、次は俺の番だろ。分け前は平等って話だったじゃねぇか」

「へっ……じゃあ代わりに年寄りの相手でもしてろや」


 再び汚れた笑いが響いた。

 

 と、野盗の一人が急に身震いする。


「おい、なんだか気味が悪くねえか?」

「あ?」

「急に霧が出てきやがった…」


 いつの間にか霧で悪くなった視界を見回す。


「ちっ。ただでさえ見通しの悪い地形だってのに。──おい。人質を逃がすんじゃねえぜ」

「分かってら」と、背中にある小屋を見た。


「心配しねえでも奴ら、手足が凍って満足に走れねえよ。」

「油断するな。相手は織宮だぞ。」

「あ?こんな小国が何だってんだ。この村だって簡単に落ちたじゃねえか。奴らが弱えからだろうがよ」

「知らんのか?織宮には化け物が棲んでいるという話を…」

「化け物ぉ?」

「なんでも、百人の人間を一瞬で切り刻むとかなんとか…」

「はあ?馬っ鹿。んな人間居てたまるかよ」


 男は呆れながら「人質の様子を見てくる。」と小屋の扉に手をかけた。

 

 家の中では怯える人々が、声を押し殺して固まっている。娘の肩は震え、必死に父の手を握っていた。


 がらり、と、野盗が戸を開け、中に入った。蹴り飛ばすように戸を閉め、足音を立てて娘に近づく。


「泣くなよ、お嬢ちゃん。すぐ気持ちよくしてやるからよ」


 汗と血と酒の臭いが家に充満する。娘は震え、父は歯を食いしばりながら何もできなかった。


 ──その時。


 戸の隙間から、すうっと影が差し込んだ。月も光もない夜に、そこだけ異質な静けさが生まれる。


 音もなく、気配すらないまま、その「何か」は忍び込んでいた。


 次の瞬間、鋭い音が室内に落ちた。


 野盗の胸に、静かに突き立てられた短刀。目を見開いたまま、声も出せずに男は崩れ落ちた。その身体が、閉めたはずの戸を押し開ける。


 ばたり、と倒れた男の向こうに立っていたのは──


 狐の面。無表情な仮面に、柿色の装束。男か女かもわからぬしなやかな身体。その白い手に先程野盗を仕留めた血濡れの刀を携えた忍び。


 ただじっと、倒れた野盗を見下ろしている。


 その瞳だけが、仮面の奥に、緑色に光っていた。



***



 野盗のうめき声が夜風にかき消された瞬間、狐面の忍びがふわりと宙を舞った。人影に気づいた家の外の野盗が叫ぶよりも早く、狐面は屋根の影から矢のように飛び降り、着地の音すら響かせず、踵を払って敵の足を崩した。


「なん、だと──」


 呻く間もなく、短刀が喉元を横に薙いだ。血が月に照らされ、細い花のように散る。


「おい、こっちだ!こいつ、忍──」


 最後の言葉は言い切れなかった。もう一人の野盗が腰の太刀を抜こうとした瞬間、背後から飛び込んできた影が肘を打ち込み、そのまま喉に手刀を叩き込む。


谷河内やごうち、遅い」


「へいへい、主役に花を持たせてやろうと思ってねぇ!」


 軽口を叩いたのは、派手な布を巻いた額と口元にいたずらな笑みを貼りつけた谷河内やごうち 喜助きすけだった。狐面が手早く次の敵を追って姿を消すのと入れ替わるように、谷河内が倒れた野盗の腰の袋を物色する。


「ったく、女子供ばかり狙いやがって……根性まで腐ってやがる」


 その声に被さるように、静かな足音が近づいた。


「谷河内、遊んでないで次の家へ。澄真すまが一人で行った」


 低く、芯のある声。立っていたのは望月もちづき 魁悠かいゆうだった。腰の刀は血に染まり、額には一筋の汗が垂れていたが、視線は冷静そのもの。


「へいへい」


 谷河内はふっと笑って肩をすくめると、再び夜の闇に紛れていった。魁悠は一瞬だけ空を見上げ、そして静かに歩き出す。


 その頃、村の中央に近い大きな家。狐面──結城ゆうき 澄真すまは二人の野盗に囲まれていた。だが彼の動きに一切の焦りは無い。狐面の下の緑の瞳がすっと細まり、次の瞬間、床を蹴って空中で一回転。真上から落ちるように一人の肩に膝を叩きつける。骨の砕ける音と共に男が崩れた。


 残った一人が叫びながら大上段から刀を振るうが、澄真の身体はすでにそこにはいない。ぬるりと横をすり抜けたかと思うと、逆手に構えた短刀が、腰から斜めに一直線。


「……何者だ……っ」


「これから死ぬのに、知ってどうするの?」


 澄真は呟くように、柔らかく、けれどどこか冷えた声で言った。


 やがて、村には静寂だけが残った。澄真が足元の草を払って立ち上がると、背後から魁悠と谷河内が姿を現した。


「おつかれさん。無事か?」


「……顔、見られてない。全部面つけたまま片付けた」


「ははっ、さすが澄真!でもなあ、もう少し台詞とかさ、こう、かっこよくしてみねぇ?『闇より来たりし、狐の牙』!とか!」


「要らない。うるさい、谷河内」


「えぇ~」


 ため息交じりに谷河内の後頭部を叩く魁悠の横で、澄真は微かに笑った。

月光に揺れるその笑みは、一瞬だけ、あの村で蔑まれていた少年の、無垢な笑顔に重なった。


 ——だが、澄真の腰に括られた短刀の桜の印章が、静かに何かを告げているように、冷たく揺れていた。

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