第3話「観測者、二人の嘘」

呼吸が、うまくできない。

 私の右手のひらには、ひんやりとした金属の感触があった。そっと指を開くと、そこには月を模した、小さな銀色の指輪が乗っている。


 これは、黛蓮がいつも付けていたものだ。

 私は、もう何十回も、何百回も、レンの死を観測してきた。そのたびに、レンとの関係は歪み、私の記憶だけが積み重なる。そして、朝目覚めると、すべてはリセットされている。

 ――のはずなのに。

 この指輪は、どうして私と一緒に、この朝を迎えているのだろう。

 レンが死ぬたびに、私だけが戻る。それが、これまでの私の知る世界のルールだった。でも、この指輪は、そのルールを完全に無視して、私のもとに残された。

 まるで、誰かが私に「世界の読点(くぎり)は、まだ打たれていない」と告げているみたいに。


 スマホの画面を見ると、レンからのメッセージ。「早く起きなさい」

 震える手で、私は返信を打つ。

 「起きてるよ。今日は、学校でレンに大事な話があるから、放課後、ちょっと付き合ってほしいな」

 送信ボタンを押すと、すぐに「わかった」とだけ返信が来た。その短い文字の羅列が、私にはとても重く感じられた。


 指輪をポケットにしまい、私は家を出た。

 いつも通り、レンが私の家の前で待っている。いつも通り、無表情な横顔で、私を見る。

 「しいな、遅い」

 「ごめんごめん!ちょっと寝坊しちゃって」

 私はわざと明るく、弾んだ声で答えた。レンは、いつもと同じように、私の隣を歩き始める。

 いつもと違うのは、私のポケットの中にある、あの指輪の存在だ。そして、それを知っているのは、私だけじゃないのかもしれないという、底なしの恐怖。


 教室の窓際、朝読書の時間が始まる前の、まだ少しざわついた空気の中。

 私とレンの間に、いつも通り、言葉はない。けれど、レンの視線が、時折私のポケットへと向けられているような気がした。

 私の心臓は、ドクン、ドクン、と不気味な音を立てる。

 「しいな、何か持ってる?」

 不意に、レンがそう尋ねてきた。私の心臓が、一瞬止まる。

 「え?何も持ってないよ?」

 私は、精一杯の笑顔で、嘘をついた。


 昼休み。私はレンから少し離れて、一人でパンを食べていた。

 「ねぇ、観月さん」

 その声に、私は顔を上げた。そこに立っていたのは、転校生の野火つかさ。記憶喪失で、いつも一人でいる女の子だ。なぜか彼女は、私にだけ心を開いてくれた。

 「…野火さん」

 「それ、綺麗だね」

 つかさは、私のポケットのふくらみを見て、そう言った。

 「え…?」

 つかさは、私のポケットを指差しながら、優しく微笑んだ。

 「月みたいな、綺麗な指輪」

 私は、自分のポケットを必死に押さえた。

 「な、なんで…どうして知ってるの…?」

 つかさは、何も答えなかった。ただ、その瞳は、何かを知っているかのように、私をまっすぐに見つめていた。そして、こう続けた。

 「その指輪、壊れちゃうと、困るんだよね?」


 その言葉は、まるで鋭い針のように、私の心を突き刺した。

 私は、つかさの言葉の意味がわからなかった。でも、その言葉が、私の心の中にある、一番深い部分を揺さぶったような気がした。

 「…どういう、こと?」

 つかさは、静かに首を振った。

 「いつか、全部わかるよ」

 そして、つかさは、私の元を去っていった。


 放課後。私は、レンと一緒に屋上へ向かう階段を上がっていた。

 「レン」

 私は、ポケットから指輪を取り出し、レンに見せた。

 「これ、どうして私と一緒に、朝を迎えたの?」

 レンは、私の手の中にある指輪を、じっと見つめる。

 その瞳に、一瞬だけ、激しい動揺の色が宿ったように見えた。

 「しいな…どうして、それを…?」

 レンの声は、微かに震えていた。

 「レン…教えて。この指輪の真実を。そして、このループの、本当の理由を!」

 私の言葉を聞いて、レンはゆっくりと目を閉じた。

 「ごめん、しいな。…もう、間に合わない」

 その言葉の意味がわからなかった。

 その瞬間、非常扉が開く音がした。

 そこに立っていたのは、演劇部の八重樫ルカ。

 「何してるの、あなたたち!」

 ルカは、いつもの明るい笑顔を貼り付けたまま、私とレンに近づいてくる。

 …違う。このルカは、いつものルカじゃない。

 その瞳の奥には、いつもと違う、深くて重たい色が宿っている。

 そして、ルカの手には、レンがいつも付けていた、もう一つの指輪が握られていた。


 レンの指輪は、二つある。

 これは一体、誰の嘘なんだろう。

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