第2話「屋上にて、君の真実」

呼吸が乱れる。肺が、心臓が、破裂しそうなくらいに痛い。

 三段飛ばしで階段を駆け上がり、非常扉を乱暴に蹴破って、私は屋上へと飛び出した。


 「レン!」


 夕暮れの冷たい風が、私の頬を叩く。フェンスの向こう側、レンは夕日に照らされて立っていた。薄い水色のセーターと、プリーツスカート。いつもと変わらない制服姿。無表情な横顔は、まるで彫刻のように綺麗で、今にも崩れ落ちてしまいそうな儚さだ。


 「しいな、来たんだ。」

 レンはゆっくりと振り返り、私を見る。その瞳には、何の感情も宿っていなかった。

 「な、何してるの!危ないよ!」

 私は必死に声を絞り出す。レンとの間にあったのは、たった数メートル。その距離が、まるで世界の果てのように遠く感じられた。

 「うん。危ないから、しいなは来ちゃだめだよ。」

 レンは、そう言って、ほんの少しだけ微笑んだ。その微笑みは、あまりにも静かで、あまりにも冷たい。

 「レン……!もう、やめてよ。お願いだから、もうやめて…!」

 私の声は、弱々しく震えていた。

 「何を?」

 「…嘘をつくのを、やめて!」


 レンの表情が、一瞬だけ固まる。

 「私は、知ってるんだからね。レンが、私をループから解放するために、死んでるわけじゃないってこと。レンは……私を、この悪夢に閉じ込めるために、死んでるんでしょ!」

 私の言葉を聞いて、レンはゆっくりと目を閉じた。その長い睫毛が、夕日に照らされて影を落とす。

 「ふふ。しいなは、全部知ってたんだ。」

 レンは、もう一度、静かに笑った。

 「そう。私は、しいなをこの悪夢に閉じ込めてる。しいなだけが、私の死を起点に、時間を巻き戻せる。この世界に、しいなと私以外はいないのと同じ。しいなだけが、私にとっての“世界”なんだから。」

 レンの言葉は、まるで鋭いナイフのように、私の心を切り裂いていく。

 「でも、どうして…?どうしてそんなことを…!」

 「だって、しいなは、私がいないとだめになるから。」

 レンの声は、優しく、そして冷たかった。

 「しいなが他の誰かと笑っているのを見ると、私は壊れそうになる。しいなが他の誰かと話しているのを見ると、私の世界は崩れていく。だから、しいなをこのループに閉じ込めた。しいなだけが、永遠に、私を助けようと足掻くように。」

 レンの言葉は、まるで私の心を凍らせるかのように、冷たく響く。

 「そんなの…そんなの、おかしいよ!」

 私は、泣きながらレンに詰め寄った。

 「おかしくないよ。だって、しいなは、私にとっての“世界”なんだから。私だけの世界に、しいなは閉じ込めておきたいんだ。」


 レンの腕に、私の手が届く。

 その瞬間、背後から声がした。

 「何してるの、あなたたち!」

 八重樫ルカだ。演劇部の、明るくて元気で、でもどこか影を抱えている女の子。彼女は、この後レンの死体を発見する第一発見者の一人だ。

 「ルカ…?」

 レンの無表情な顔が、一瞬だけ、驚きに歪んだように見えた。

 「屋上は立ち入り禁止だって、何度も言ってるでしょ!早く降りなさい!」

 ルカは、いつもの明るい笑顔を貼り付けたまま、私たちに近づいてくる。

 「しいな、誰か来たよ。」

 レンは、そう言って、私から手を離した。

 「…だめだ!レン!」

 私は、ルカが来る前に、レンを助けなきゃいけない。レンは、私だけのものだ。他の誰かが来てはいけない。

 私の思考は、もうすでにめちゃくちゃだった。


 「さよなら、しいな。」


 レンは、そう言って、フェンスの向こう側へと、身を投げた。

 私の目の前で、レンの体が、ゆっくりと、ゆっくりと落ちていく。

 悲鳴を上げることすらできなかった。

 ルカの絶叫が、屋上に響き渡る。

 ――だめだ。まただ。また、やり直さなくちゃ。

 レンの死を観測した瞬間、私の意識は、暗闇へと沈んでいく。


 「…っ」


 気づけば、私は、自分の部屋のベッドにいた。カーテンの隙間から差し込む朝日が、私立月夜見学園の青い制服に反射して、眩しいくらいにきらきらと輝いている。カレンダーの日付は、いつも通り、十一月二十六日。

 いつも通り、スマホにはレンからの「早く起きなさい」というメッセージ。

 すべてが“いつも通り”なのに、私だけが知っている。この先に待つ、あり得ない真実を。


 「…おかしいな」


 私の心臓が、ドクン、と不気味な音を立てる。

 私は、もう、屋上でレンが死んだことすら、覚えていないはずなのに。

 目の前が、真っ赤に染まっている。

 私の手には、レンがいつも付けていた、小さな指輪が握られていた。


 …私だけが、観測者じゃなかった。

 レンも、私と同じ観測者。

 じゃあ、あの指輪は…?

 誰かが死んだとき、誰かの記憶は混濁し、誰かの記憶だけが鮮明に積み重なる。

 このループの真実が、私を焼き尽くす。

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