百年の残響・1・海を見ていた午後

 土曜日の朝。母親の美琴が洗濯物を干しながら、唄をくちずさんでいた。それは、海の見えるレストランで、女性が失った恋を思い出し「忘れないで」と願う曲だ。


「お母さん、その曲は?」


 琴音が尋ねると、美琴は懐かしそうに答えた。


「『海を見ていた午後』ってね、お母さんの若い頃の曲よ。曲にあるレストランは今もあるのよ。」


 琴音はスマートフォンでYouTubeを検索し、その曲を聴いた。心に染み入る歌声だった。


「なんだか、切ないけど、すごく心に残る歌詞だね。『忘れないで』って……山手って、港のほうの?行ってみたいな。」

「そうよ、だったら、お昼に行ってみる?でももう海は見えないみたいよ。」


 美琴は微笑みながら、娘の言葉に優しく応えた。


 JR小机駅で、琴音は母親の美琴と根岸線直通の横浜線に乗った。

 東神奈川での乗り換えもなく、電車は横浜、桜木町、関内、石川町と進んでいく。


「次の山手で降りるの?」

「ドルフィンは、その次の根岸駅から行ったほうが近いわよ。懐かしいわね~、昔、お父さんとも来たのよ。」


 美琴は遠い目をして、若き日の思い出に浸っていた。

 車窓から景色を眺めていた琴音は、石川町と山手の間、地下に入った線路が再び地上に上がる場所で、思わず目を疑う光景を見る。


 子供の頃から時折目にする霊視だ。何人もの血まみれの若い男たちが、ぽつぽつと線路脇に立ち、恨めしそうな目で列車を睨んでいる。彼らの姿は、この世のものではないと直感的にわかった。

 作業帽は薄汚れ、汗と血が混じったような染みが広がっていた。首にかけたタオルも同様に赤黒く染まっている。腰で縛るズボンに、よれよれのノースリーブのシャツ、上半身裸の者もいた。

 恨めしそうな目は、まるで何かを訴えかけるように、強烈な光を放っていた。中には、口元が歪み、何か言葉を発しようとしている者もいた。


「あらあら、少し日差しが強いわね。」


 そういって列車の窓の布のブラインドをそっと下ろした美琴の声は、わずかに震えていた。美琴は、琴音の凍り付いた表情を優しく見つめながら言った。


「顔色が悪いわね。少し、冷たいものでも飲む?レストランはまた今度にする?山手で降りて歩く?それとも、みなとみらいで、気晴らししようか。」


 琴音は、母親の言葉に言い知れぬ安堵を覚えた。

 窓の外の光景は自分独りだけが見たのではないと確信した。

 美琴の穏やかな表情の裏には、同じものを見て、娘を気遣う優しさがあった。


 琴音は、山手で降りることを選んだ。そこから市営の乗合バスに乗り、桜木町に戻ることにした。

 霊を見ることの多い琴音だったが、あんな眼は見たことがなかった。その瞳に込められた深い哀しみと恨みは彼女の心を抉った。もう一度列車で戻る勇気はなかった。

 母親の美琴は何も言わず、ただ静かに琴音についてくる。

 市営バスの中で、琴音は思い切って尋ねた。


「お母さんも、小さい頃から、見えてたの?」


 美琴は、少しあって、穏やかな笑顔で娘に答えた。


「……そうね、大人たちからは見る鬼と書いて、見鬼けんきって言われてたわ。」


 美琴は、遠い過去を思い出すように、少し目を伏せた。


「琴音が昔、目で追ってたのも知ってたわよ。」


 その言葉には、ごめんね、と謝るような、切ない響きがあった。


 その言葉は、琴音の心に温かく響いた。自分は独りではなかった。母親もまた、同じ世界を見て生きてきたのだ。


「作業着みたいな洋装のシャツに、和装の股引。あの帽子。大正から昭和初めの、港で働いていた沖仲仕さん(港湾労働者)かしらね。」


 ぼんやりと美琴が呟いた。琴音は母親の鋭い洞察力に驚く。自分はそこまで気が回らなかった。

 バスのアナウンスが、次は山下町であることを告げる。


「琴音、山下公園に行きましょうか。」

「えっ?」


 美琴は微笑んで、娘の目を見つめた。


 山下公園を歩く。海から聞こえてくる汽笛と、海風、色とりどりの花が咲き乱れる花壇が、琴音の心を少しだけ和ませた。


「あくまで雰囲気でだけれど、あのひとたちは関東大震災で亡くなった方々かもしれないわね。」


 美琴の言葉に、琴音は驚いて呟いた。


「関東大震災……。」

「ちょうど百年前の災害ね。この山下公園は、その震災で崩壊した街の瓦礫を埋め立てて作ったそうよ。」


 琴音は目を丸くする。美琴は穏やかな表情で、続けた。


「歴史は、そういった悲しみや怒りなんて思いを忘れて、立ってるものかもしれないわね。」


 美琴の遠い目には、過去と向き合おうとしない多くの人々の姿が映っているかのようだった。

 その言葉は、目の前の美しい風景に隠された、深い歴史の重みを語っていた。


 ふと、見覚えのある顔を見つける。


「あ、翠蓮ちゃんだ!そうか、中華街すぐそこだから。」


 声をかけようとした琴音に、美琴が言った。


「あら、ほんとう。楽しそうね。でも、お邪魔しちゃ悪いかもよ。」


 美琴はそう言って、琴音の腕をそっと引いた。

 太極拳の套路とうろを演武する小さな翠蓮の隣に、その動きをぎこちなくも模倣しようとしている青年がいた。

 琴音は桜木のことを話の上でしか知らない。しかし、あの人がそうだ、と確信した。

 二人ともお互いを見つめて、笑っていた。


 その笑顔は、先ほどまで琴音が見ていた暗い影とは、あまりにも対照的だった。まるで、この公園に存在する「悲しみ」と「希望」を、それぞれが体現しているかのようだった。


          ・


 夜九時、琴音は符を刻んでいた。


 百年もずっと、あんな辛そうな哀しみを抱えている心があるなんて、彼女には許せなかった。

 自分が何かできることはないだろうかと、必死に考える。自分の渾身の『雷水解らいすいかい』ならば、もしかすると彼らを解放できるかもしれない。

 そう思い、丁寧に、そして強く、卦を符に刻んだ。


 彼らは、何等かの災厄の根源になっているかもしれない。もしそうであれば、討伐対象になってしまうだろう。

 そう思うと、誰にも相談したくなくなった。彼女は陽介の顔を思い浮かべる。彼に相談すれば、きっと助けてくれる。

 しかし、これは誰も巻き込んではいけない、自分だけの戦いだという予感があった


 人知れず、彼らを解放したい。


 琴音は、静かに、しかし「安らかに」「忘れない」という強い決意を胸に、卦を刻み続けた。


 深夜二時、防具を装備したスーツに着替え、安全靴スニーカーを履き、刻んだ符をポケットに入れた。


 こっそりと家を出ようとする。柏葉まで十三キロ。琴音にとっては大した距離ではない。ロードタイプの自転車の鍵を外し、走りだそうとしたそのとき、後ろから声が聞こえた。


「ちゃんと、帰ってくるのよ。」


 美琴は、窓からこぼれる明かりを背に、娘の背中に静かに語りかけた。

 その声には、怒りや戸惑いはなく、娘を信じる力が込められていた。


「お母さん……。」


 美琴は、娘の背中に静かに語りかけた。


「危ないと思ったら、逃げることを考えなさい。」


 琴音は、母親が全て承知していることを悟り、感謝と、そして「必ず戻る」という決意を込めて、力強く頷いた。

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