One more time,One more chance・2

 午前五時、翠蓮はいつものようにロードワークを始めた。中華街西門通りから出発し、港中学校とみなと総合高校の間をすり抜け、首都高のガード下を抜けて新横浜通りへ。新横浜通りを横浜方面へひたすら走る、そこまではいつもと同じだ。


 桜木町駅で、翠蓮は彼を見つけて声をかけた。


「おはよ、桜木くん。」


 桜木は目を輝かせて返す。


「おはようございます、翠蓮さん。」

「アーシのほうが年下なんだから、敬語いらないよ。」


 新横浜通りを高島町方面に走りながら、桜木が口を開いた。


「僕は、前は走るなんてとてもできなかった。すぐ気持ち悪くなって、止まってしまってたんです。」


 それは、鎌状赤血球症由来のチアノーゼの症状だった。


「でもこないだ、翠蓮さんを見かけた時、必死で走れたんです。不思議でした。」


 高島町から国道1号を右に曲がり、すずかけ通りを進む。


「きっと、これからは、走れるよ。」


 翠蓮の言葉に、桜木は力強く頷いた。


 パシフィコ横浜から臨港幹線道路へ。朝日にきらめく水面が、走り慣れた二人の横を過ぎていく。潮風が頬を撫でる、朝の清々しい空気の中、二人は並んで走る。


「桜木くんは、専門学校に行ってるっていうけど、医師になりたいの?」


 翠蓮の問いに、桜木は少し照れたように答えた。


「医師にはさすがにお金がないので、医療技術者です。僕みたいな病気の人たちを、最新の技術で支えたいんです。機器を駆使して、医療を支える仕事ですね。」


「立派だなー。アーシはまだ目標見つかってないや。」


 翠蓮は、真っ直ぐな桜木の目に、少し眩しさを感じた。


 翠蓮の言葉に、桜木は少し考えて、戸惑いながら恥ずかしそうに言った。

「もし、僕が、医療技術者になったら、それを支えてくれるような、奥さんがいたらな……なんて、そんな夢をもっちゃったりします。」


「えっ。」翠蓮は思わず目を見開き、驚いて顔を赤らめる。

 桜木もまた、自分の言葉に慌てて弁解した。

「ご、ごめんなさい、今のは聞かなかったことにしてください!つい、口が滑って……!」


          ・


 二人は、山下公園に到着する。朝日がすっかり昇りきり、公園の緑を鮮やかに照らし始めていた。約束ではここで解散だった。


 翠蓮は桜木に提案する。


「今日は、二人だから、套路じゃなくて、アーシがちょっと、独りじゃできないことをやってみたいんだ。」


 翠蓮は、太極拳の対練の初歩である『単推手たんすいしゅ』を説明した。定歩(その場立ち)から手首を掛け合わせる『塔手とうしゅ』というスタイルである。


 公園内の港に面した半円型の広場で、二人は向かい合った。


 桜木は言われるがままに、翠蓮を掌で推そうとする。

 翠蓮の掌に触れた瞬間、桜木はびくりとした。その温かさが、これまでの幻のような記憶とは異なる、確かな実在を告げていた。

 だが、翠蓮は柔らかな動きで身を捻ってその力を流し、桜木の胸元を軽く推した。翠蓮の動きを真似るように、桜木もその推しを流す。


 綿のように柔らかい呼吸で、静かに、左右の腕で、その鍛錬は繰り返された。力任せではない、互いの重心と気の流れを探り合うような動き。

 それはまるで、言葉を交わさずとも、互いの心を探り合うような、不思議な対話だった。


「なんだかゲームみたいで楽しいですね。」桜木が、思わず無邪気な笑みをこぼしながら言った。

「そうでしょ。これ、健康のためにやってる人たちもいるのよ。」翠蓮もまた、心底楽しげに微笑んだ。


          ・


 ひととおり推手を終えると、桜木は軽く汗をかいていた。その顔は、先ほどまでの必死さとは異なり、清々しい笑顔に満ちている。


「翠蓮さん、ありがとう、すごく楽しかったです。」

「もし、明日も来たら、続き。やれるよ。」


 翠蓮の言葉に、桜木は嬉しそうに頷いた。彼の瞳は、希望に満ちて輝いていた。


「それじゃあ」と立ち去ろうとする桜木の正面に回り込み、翠蓮が唐突にふわっと彼を抱きしめる。

 突然のことに驚いた桜木は、少し膝を落とし、その腕に包まれた。

 彼の頬に、翠蓮の髪がそっと触れる。


「翠蓮……さん?」


 翠蓮は桜木の頬にそっと頬を寄せた。彼の温かい体温を感じながら、ポケットから陽介に借りたプロトデバイスを取り出し、説明を受けた通りにアプリを起動する。

 モードを単発に選択し、画面に表示された『雷』のマークのアイコンに親指を置いた。


「桜木くん、きっとこれで元通りだよ。」翠蓮の声は、微かに震えていた。

雷水解らいすいかい……」そう小さく唱えると、翠蓮はアイコンを迷いなくスワイプした。

 卦の発動音とともに、翠蓮の左の掌に光が宿る。

 その掌を桜木の背に当てて、翠蓮は桜木を呪いから解放した。光が桜木の体を包み込み、翠蓮の腕の中で、彼の体が微かに揺れるのを感じた。

 桜木の肩の噛み跡は、消えていた。


          ・


 山下公園の脇に、エンジンを静めたVmaxが停まっていた。そのシートに黒のライダースーツに身を包んだ女性が体を預け、広場の方へと視線を向けている。

 彼女の瞳は、恋人同士にも見える二人のやり取りを全て見ていた。


 翠蓮が桜木を抱きしめ、呪いを解いた瞬間。

 桜木を包み込んだ光が消え去った後も、夜織は、その光景を静かに見つめていた。

 翠蓮の表情に浮かんだ安堵と、桜木の顔から失われた「呪いの輝き」を、夜織はしかと見て取った。


「あちきも、おとこどもを手玉にとってるようでは、だめなのかもしれねえでありんすね。」


 夜織は、自嘲するように呟いた。その声には、いつもの飄々とした調子とは異なる、どこか遠くを見つめるような、かすかな自省の色が滲んでいた。

 それは、彼女の妖怪としての在り方、そして人間との関わり方について、新たな問いを投げかける一言だった。




          ・




 横浜の街に、五日間降り続いた雨がようやく上がった。久々に月が見える早朝五時、翠蓮は新横浜通りを駆け抜ける。

 関内を過ぎ、桜木町を通りかかると、思わず少し立ち止まり、周囲を見渡した。


(……来ないか。)


 翠蓮の胸に、わずかな寂しさが広がる。国道一号、パシフィコ横浜、臨港幹線道路。いつも独りで走っていた道なのに、今日は何かが足りない。

 山下公園の中央口からゆっくりと進み、港につき出す半円型バルコニーへと歩いていく。空が白み始め、朝日が昇ろうとしていた。

 海からくるりと後ろを振り返り、姿勢を整える。両腕を前に出し、四十八式太極拳の起勢きせいのポーズを取った、そのとき。


 向こう側に、ベイスターズのキャップが見えた。

 嬉しさがこみ上げる。


「遅いぞ。」

「ごめん。」


 翠蓮は、口元に抑えきれない笑みを浮かべた。

 桜木は息を切らしながら、肩で大きく呼吸をして、翠蓮のもとへと駆け寄った。



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山下公園

https://www.kanagawa-kankou.or.jp/spot/19


金華猫

https://ja.wikipedia.org/wiki/金華猫


太極拳・単推手たんすいしゅ

https://www.youtube.com/shorts/ZLY0blAd21M


山崎まさよし「One more time,One more chance」

https://youtu.be/BqFftJDXii0


ロードワークのだいたいのコース

https://maps.app.goo.gl/hbGNRcDziGF6wVpX8


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