伊勢崎町編・1・黒猫

 夜の帳が下りた横浜・伊勢佐木町。ネオンサインが赤や青の光を投げかけ、行き交う人々の喧騒が通りを満たしていた。その雑踏の中、ひときわ目を引く少女がいた。李翠蓮りすいれん。小柄ながらも涼やかな美貌を持ち、どこか憂いを帯びた瞳が、夜の街の喧騒とは隔絶された静けさを湛えている。


「ねぇ、お兄さん。ちょっと時間、ない感じ?」


 翠蓮すいれんは、一人で歩く青年に、かすかに上擦った甘い声で話しかけた。その声には、抗いがたい魅力が宿っている。

 青年は一瞬、警戒の色を見せたものの、目の前の少女の肌の白さに足を止めた。


「こんな時間に一人で? どうかしたの?」

「ちょーっと、寂しくてぇ……足りなくてぇ。よかったら、ちょっとだけ付き合ってくれない?」


 翠蓮は、楚々とした仕草で青年の袖を引く。その小さな手に触れた瞬間、青年は微かな痺れのようなものを感じたが、気にする様子はない。翠蓮の誘うような視線に、理性は容易く溶けていく。

 二人は、雑踏を抜け、ひっそりとした裏通りを進んでいく。やがて、古びたラブホテルの前に辿り着いた。翠蓮は、不安げな表情で青年を見上げる。


「ちょっとだけ……温かいところで話したいんだけどぉ。」


 青年は優しく微笑み、翠蓮の肩を抱いてホテルの中へと入っていった。

 静まり返った一室。翠蓮は、先ほどまでの少女とは別人のように、妖しい笑みを浮かべる。

 翠蓮は、鍵が閉まったことを確認すると、それまでの儚げな笑みを消し、獰猛な捕食者の顔をしていた。

 まるで猫のように、ゆっくりと縦に細長いスリット状に変化していく。その鋭い縦長の瞳孔は、夜の闇に潜む捕食者の目を思わせた。


「ふふっ、マジいい匂い…たまんないんだけど!」


 翠蓮の口元には、小さな牙が覗き、その爪は微かに伸び、鋭利な光を放つ。彼女を取り巻く空気は一変し、甘美な誘惑の香りの奥に、隠された危険な妖気が漂い始める。

 ベッドに座る青年に近づき、翠蓮は優しく抱きつく。

 互いの顔を見ずに、肩ごしに囁きあう。

「やばい、めっちゃ浅ましい感じ?なんか足りなくて、欲しくて、キュンキュンしちゃうのぉ!」

 青年が喜びの表情を見せる。

「僕だって、すげぇ欲しいよ。」


 翠蓮の瞳に、一瞬、悲しみがよぎる。その喉の奥から絞り出すように言った。

「アーシ、昔はこんなじゃなかったんだけど…なんか、こんな子になっちゃった。食べちゃってもいい?マジ、すっごく食べたくて…悪い子かなぁ?」

「悪くねぇよ。欲望って、生きるってことだろ?」


 青年の軽い言葉が、翠蓮の心を抉る。彼女の瞳に、かつての純粋な少女の面影が浮かぶ。

「ごめんね、お兄さぁん…もう我慢できない。いっぱい、欲しいよぉ。」


 翠蓮は涙を溜めながら、その震える手で青年の頬に触れる。そして、まるで慈しむような仕草の直後、首筋に口を近づける。その可愛らしい顔からは想像もできないほどの速さで、牙が皮膚を貫いた。

「う……!」


 驚きと苦悶の表情を浮かべる青年。翠蓮の体から、まるで彼女の悲しみが具現化したかのように、黒く粘りつくような妖気が静かに流れ出し、青年の体へと吸い込まれていく。

 その瞬間、青年の肌が蒼白に変わる、髪は色を失い、まるで時間がいちどきに進むかのように生気が失われていく。翠蓮の耳には、彼の心臓が、まるで泥沼に沈むかのように弱々しく脈打つ音が聞こえていた。

 巨大な黒猫の姿が、少女の背後に一瞬だけ垣間見えた。黒い毛並みに金色の目を持つ、妖しくも美しい猫の影。それは、獲物の精を吸い尽くす、古の妖怪の飢えを満たす瞬間だった。

 やがて、翠蓮が体を離した時、ベッドには見る影もなく痩せ衰えた、抜け殻のような青年が残されていた。翠蓮の瞳は元の優しい色に戻っていたが、その奥には満たされたような、冷たい光が宿っていた。


「う〜ん……サイコーだった、ごめんなさい、おいしかった。ごちそうさま。」

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