鬼退治編・修験道の男
その時だ。
奇妙な、呻るような、不快な音色が駅構内全体に響き渡った。それは決して心地良い音ではない。胃の奥からせり上がるような、吐き気を誘発する音色だった。
音のした方──下階の在来線ホーム側階段から、ゆっくりと一人の男が上がってくるのが見えた。その手には、禍々しい法螺貝が握られている。男の目はぎらつき、顔には野太い笑みが浮かんでいた。
「来た!来てくれた。特殊事例の専門家が到着した。くれぐれも邪魔をせぬように」
駅長が駅員達に指示を出す。
頭襟に結袈裟、地下足袋に脚絆、念珠を首から下げ、異様にゴツい錫杖を持った、時代がかった修験道の修行者のような服装。
男は琴音の傷だらけの姿を一瞥し、ニヤニヤと笑いながら言った。
「こらまた、可愛らしいモノノフだな」
彼の名は
「こんな欠陥品にてこずるとは、お前らモノノフも落ちぶれたもんよ……役立たずは寝てろ」
嘲るように笑い、巨大な鬼へと向き直った。
「
そう言うと、鋼鉄製の念珠を拳に巻きつけた。
その目は、獲物を見つけた狩人のようにぎらついている。鬼もまた、琴音から矛先を変え、新たな闖入者へ咆哮を向けた。
ドゴォン!
三メートルの巨体から繰り出される鬼の鉄槌を、役禍角は笑いながら受け止めた。二メートルの巨躯が、わずかに沈み込む。駅のホームが、二つの巨人の衝突で震動した。
「ハハハ! いいぞ、いいぞ! もっとだ!」
役禍角は、鬼の拳をあえて、衝撃を全身で味わうかのように真正面から受ける。そして、受けた以上の力を込めて、その鋼鉄の念珠をはめた拳を、鬼の腹部に叩き込んだ。
グシャァ!
鈍い破裂音が響き、鬼の肉体から黒い血が飛び散る。鬼が呻き、よろめいた。
役禍角は、まるで楽しげに遊んでいるかのように、鬼と殴り合った。鬼の拳を受ければ受けるほど、彼の目は興奮に輝き、その打撃はさらに凄みを増していく。
その間、在来線ホーム側階段から、キャリーカートを引きずりリュックを背負ったもう一人の男が登ってくる。ホームの隅で倒れていた琴音の元に、男が慌ただしく滑り込む。キャリーカートからは長い配線がリュックまで伸びている。
「琴音! 」
陽介だった。背中のリュックには、厳重に梱包されたFUM。彼は琴音の横に膝をつくと、震える手でリュックのファスナーをあけFUM本体を取り出し起動する。
「酷いな……FUM、出力全開! 応急処置、初級卦術連続発動!」
陽介はFUMの観測珠の指向を琴音にむけ、ディスプレイに表示される生体データを凝視しながら、懸命にキーボードを叩く。FUMが細かく震え、陽介の指の動きに合わせて、琴音の傷口に、微弱な光の粒子が次々と降り注いだ。それは「治癒」ではなく、あくまで出血を止め、痛みを和らげるための応急処置。それでも、身体を焼くような痛みが、少しだけ引いていく。
治療を試みながら、陽介は目の前の光景に唖然とした。
役禍角は、もはや鬼を一方的に蹂躙していた。彼は、鬼の強大な打撃を幾度も受け止めては、その都度、狂喜の笑みを浮かべ、倍以上の力で打ち返している。鬼が殴られるたび、駅のホームが振動し、歪んだ電子音が断続的に響き渡る。
「すげえ……あいつ……あれは、ほんとに人間か?」陽介は、FUMのディスプレイに表示される役禍角の想子力場データに目を見張った。それは、単なる人間のものとはかけ離れた、とてつもない数値を示している。
殴り合いに飽きてきたのだろうか。役禍角は、突如として鬼との間合いを取った。彼は顔に歪んだ笑みを浮かべたまま、法螺貝を口元に持っていく。
ブォォオオオオオオオオオッ!!
先ほどよりもさらに深く、長く、吐き気を催すような音色が、駅構内を支配した。それは単なる物理的な音ではない。鬼の脳髄に直接響くような、狂気と怨念の混じった波長だった。
鬼は突然、頭を抱えて苦しみ始めた。まるでバグが暴走したプログラムのように、その巨大な肉体が痙攣する。目を血走らせ、意味のない叫び声を上げながら、その場で錯乱し、自らの体をホームに叩きつけた。
「フン……これで終わりだ」
役禍角は冷笑を浮かべ、鋼鉄の念珠をはめた右手を大きく振りかぶる。錯乱し、無防備になった鬼の顔面を、幾度も、幾度も殴りつけた。ドゴッ!ベキッ!鈍い音が駅構内に響き渡るたび、鬼の顔面がみるみるうちに潰れていく。肉片が飛び散りホームの床を汚した。
鬼は一方的に蹂躏され、もはや反撃の意思すら失っていた。その赤い瞳に、わずかながらの「生への執着」と「恐怖」の光が宿り、命乞いをするかのように、うめき声を上げて手を差し伸べるそぶりを見せた。
その光景を目の当たりにした琴音は、衝撃に打ち震えた。
「やめて……やめてっ……やめて……!」
琴音がたまらず立ちあがる。悲痛な叫びが漏れた。しかし、役禍角はそれを意に介さない。さらに強く鬼の顔面を殴打し、その眼球が飛び出す。
怯えた様子の小鬼たちが、恐怖に震えながら、倒れ伏す大鬼の足元に必死にすがりつく。その様子を見た役禍角は、冷酷な笑みを深めた。
彼は、その太い錫杖を鬼の頭上に掲げた。
「無駄だ。世の歪みは、完全に消し去らねばな」
そして、容赦なくその錫杖を、大鬼の頭蓋めがけて振り下ろした。
ガッシャアアアアアン!!
骨が砕ける、錫杖の耳障りな金属音が響き渡る。その一撃で、大鬼の巨体はピクリとも動かなくなり、活動を完全に停止した。
役禍角は、満足げに笑った。そして、その冷酷な視線を、大鬼の足元で震え、うずくまる二匹の小鬼へと向けた。
「さて……おまけの余分な邪魔者も、始末するとしようか」
彼の口元から、邪悪な笑いがこぼれ落ちた。
役禍角は、満足げな笑みを浮かべたまま、その錫杖を再び振り上げ、大鬼の骸の足元で震える二匹の小鬼へと近づいていく。
その法服の裾を、琴音が必死に伸ばした手で掴んだ。血で汚れた掌が、ざらりとした生地を握りしめる。
役禍角は、足を止め、下卑た笑みを浮かべて琴音を一瞥した。
「けッ。ガキが」
彼は、まるでゴミでも見るかのように琴音を見下し、その分厚い顎をしゃくって、大鬼の骸を指差した。鬼の肉塊からは、想子力場の波が急速に消失し、まるで砂のように風化しつつあった。
「こいつらは生き物でもなんでもねえんだよ。ただの『歪み』だ。分かったか?」
琴音は岩山のような肉体を持つ役禍角を睨み上げた。その瞳には、痛みと怒りが宿っている。
「違う……心があるよ。この子たちにも!」
琴音の言葉に、役禍角は呆れたように鼻で笑った。
「心があるように見せかけて、おめえらを騙してんだよ。そうやってやり難くしてんだ。だいたい、おめえ、こないだ、わしが天塩にかけた
役禍角のまさかの言葉に、琴音は目を丸くした。全身から血の気が引いていくような感覚に襲われる。あの時の
役禍角は、その笑みをさらに深め、琴音の顔にその巨大な顔を近づける。
「なあ、モノノフ。おめえが焼いた
彼の問いは、琴音の心に深く突き刺さった。それは、彼女の信じる「理」の根幹を揺るがす、鋭利な刃のようだった。
「あいつは、人を襲ってた! この子たちはなにもしてない!」
琴音の反論に、役禍角は一瞬、バツが悪そうに眉を上げた。だが、すぐに下卑た笑みを戻す。
「知らねえのか、モノノフ。親鬼が死ねば、小鬼も消えるんだよ。そのまま放っておくなんざ、もったいねえだろうが」
役禍角は、そう言い放つと、握りしめた錫杖の先端で、倒れた大鬼の骸をトン、と軽く叩いた。その瞬間、錫杖から黒い光の筋が大鬼の骸へと流れ込み、わずかに残っていた想子力場が、吸い上げられるように錫杖へと消えていく。なるほど、この男の錫杖は、倒した相手のエネルギーを吸収するらしい。
琴音は、震える小鬼たちと役禍角の間に割って入り、傷だらけの身体で構えた。
「ほう? イキだけはいいな、ガキが」
役禍角は、愉快そうに鼻を鳴らした。
「つまらねえから、ハンデをやるよ」
役禍角は、そう言うと、血の染みこんだ鋼鉄製の念珠を、ゆっくりと拳から外した。ジャラリ、と鈍い金属音が響く。それを首にかけ、満足げに笑う。お前には使う価値もない、そういうことらしい。
そのやり取りを聞いていた陽介が、FUMの操作を一時的に中断し、叫んだ。
「琴音、よせ! 無駄だ!」
信じられない言葉が、琴音から返ってきた。
「こんなの嫌。絶対嫌。」
琴音は、次の瞬間には
ドスッ!
鈍い衝撃が走る。しかし、琴音の足先に伝わった感触は、肉どころか、まるで動かない岩そのものだった。
「ははははは、ちょこまかと。結構えげつねえ靴履いてんだな」
役禍角は、ほとんど微動だにせず、ただ楽しそうに笑っていた。琴音の狙い澄ました一撃は、まるで小石を投げつけたかのように、彼には全く効いていないようだった。
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