鬼退治編・モノノフ

 琴音は、駅ビルとゲームセンターのビルの間にできたわずかな隙間を縫うようにして、新幹線のホームへとぎりぎりまで寄った。ここは、一般の利用客からは見えにくい、隠れた場所だ。

 手荷物をその場に置くと、懐から一枚の符を取り出した。「䷭」の卦が描かれた、見慣れた木片だ。


「……地風升ちふうしょう


 琴音は短く唱えた。その瞬間、足元からふわりと体が浮き上がるような感覚に包まれる。彼女の全身を薄い光が覆い、その浮揚力は、アスリート顔負けの跳躍力を生み出した。そのまま、停車する大阪行き新幹線の車両を軽々と飛び越え、隣の線路へ音もなく着地する。


「おい! 何をしている! 線路に降りるな!」


 駅員の叫び声が背後から聞こえる。しかし、琴音に振り返る余裕はなかった。彼女はすぐに新幹線の最後尾に回り込み、ホームへと続く非常階段を駆け上がり一気にホームに這い上がる。

 そして、そこに「それ」がいた。

 駅長の名札をつけた年配の駅員が大声でオフィスの職員に指示を出している。


「緊急事態マニュアルに基づいて、急ぎ応援要請してくれ、警察じゃ対応できない。『特殊事例』の専門家のほうだ」


 新幹線ホームに這い上がった琴音の目に飛び込んできたのは、まさに地獄絵図だった。

 三メートルはあろうかという、赤黒い肉塊が、耳を劈くような咆哮を上げている。それは、かつて人間だった面影など微塵もない、純粋な暴力の塊だった。取り押さえようと無謀にも飛びかかる駅員を、その巨大な腕が無造作につかんでは、紙切れのように投げ飛ばす。ホームの床に叩きつけられた駅員たちは、呻き声すら上げられない。


 異形の荒々しい髪の隙間から、二本の黒い突起が禍々しく突き出ている。

 それを見た瞬間、琴音の脳裏に、師匠である比丘尼様の言葉が稲妻のように走った。


「あれは……」

 琴音はゴクリと唾を飲み込んだ。

「鬼」だ。


 その異形の背後で、二つの小さな影が怯えるように身を寄せ合っていた、子供の鬼のようだ。小鬼は大鬼に追従しているだけで、排除しようとしている人間たちの形相に怯えている。

 琴音は、足元にリュックを落とし、素早く制服のジャケットを脱ぎ捨て、首元のネクタイを乱暴に引っ張って引きちぎった。それらを近くのベンチに放り投げる。足元はいつも動きやすいスニーカータイプの安全靴だ。爪先には頑丈な金属板が埋め込まれている。その一歩一歩が、固い決意をホームに刻んだ。

 咆哮する赤い巨体に向かって駆け出す。大鬼の足元には、怯えた様子の二匹の小鬼がうずくまっていた。


「こんなとこで、何をしている! 逃げろ!」


 その時、駅長の名札をつけた年配の駅員が、鬼の背後から必死の形相で叫んだ。他の駅員たちも、琴音を制止しようと走り寄ってくる。

 琴音は振り返らず、しかし、その声が届くようにはっきりと、そして大きく叫んだ。


「私は! モノノフです!」


 その言葉は、駅長の耳にだけ、確かな意味を持って響いたらしい。駅長は目を見開き、信じられないものを見るように琴音を凝視したかと思うと、次の瞬間には、我に返ったように「待て! その子に手を出すな!」と叫び、駅員たちを静止させた。

 鉄道網のような広域公共交通機関では、古くから怪異による事件がたびたび発生する。警察でさえ手に負えないそれを、歴代のモノノフたちが秘密裏に解決してきた歴史があった。その事実を、この駅長は知っているのだろう。

 琴音は、駅長の言葉にわずかな安堵を覚えた。これで邪魔は入らない。彼女は再び鬼に向き直り、腰を低く構えた。


 琴音の視界の端で、華奢な女性駅員が、鬼の巨大な右手に掴まれているのが見えた。この距離と状況では、飛び道具を使うわけにはいかない。琴音は即座に判断し、鬼の巨体の後方へと回り込んだ。

 懐から「䷔」の符を取り出す。それは、先ほどベンチに投げ捨てた制服のポケットに忍ばせていたものだ。符を掲げ、短い呪文を唱える。


火雷噬盍からいぜいごう


 その瞬間、琴音の拳と足先に、まるで刃が走るかのような、薄い光が瞬いた。効果は十秒。このわずかな時間だけ、彼女の拳撃と蹴撃に、鬼の肉体を「噛み砕く」効果が付与される。

 琴音は低く構え、地面を蹴った。ふわりと跳躍し、鬼の肩めがけてハイキックを叩き込む。「ゴリッ!」と、肉と骨が軋むような、嫌な音が響いた。鬼の分厚い皮膚がわずかに波打ち、そこから微弱な煙が上がる。着地と同時に、今度は右拳を鬼の右肘に「噛み付かせる」ように深くめり込ませた。

 鬼の巨体が、一瞬だけぐらりと揺らぐ。その隙に、掴まれていた女性駅員が、意識を失ったまま鬼の掌から滑り落ちた。

 琴音は休む間もなく、時間切れまで後方から鬼の肉体に拳を連続で叩き込んだ。「メキッ、メキッ」と、硬いものを削り取るような音が鳴り響く。鬼は凄まじい形相でこちらを睨みつけ、その赤い肉塊が、怒りに震えながら琴音に迫ってくる。

 その間にも、数名の男性駅員が、気絶した女性駅員を素早く救助するのを確認した。

 火雷噬盍行使に伴う、凄まじい疲労が身体を襲う。全身の筋肉が悲鳴を上げ、呼吸は乱れ、肺が焼け付くように熱い。しかし、構っていられない。鬼の反撃が来る。


 鬼の赤い巨腕が、轟音と共に頭上四メートルもの高さまで振り上げられた。空手でいうところの鉄槌。ただの原始的な振り下ろしだが、その破壊力は想像を絶する。卦術の発動は間に合わない。

 琴音は咄嗟に両腕をクロスさせ、必死に十字受けの構えを取った。膝をサスペンションのように使い、衝撃を吸収しようとする。しかし、その全てを受け止めるには、あまりにも力が違いすぎた。

 鈍い、しかし凄まじい衝撃が全身を駆け抜ける。ホームのコンクリートがミシミシと軋む音が聞こえた。両腕は悲鳴を上げ、膝は限界まで押し込まれる。琴音の全身が震え、その体は地面に叩きつけられる寸前だった。

 拳が上がったところで、琴音は必死で転がるようにして、ホームの下へと意図的に落下した。コンクリートの地面に叩きつけられる寸前、その身を翻し、衝撃を逃がす。

 地面に着地するや否や、素早く懐から新たな符を取り出す。


「……離為火りいか


 短く唱えられた呪文と共に、琴音の手のひらに、赤々と燃える小さな火球が現出した。彼女はそれを迷わず、鬼の巨体めがけてオーバーヘッドキックで蹴り飛ばす。火球は唸りを上げて宙を舞い、正確に鬼の分厚い大胸筋にヒットした。

 ジュワッ!

 肉が焼けるような音が響き、焦げ付く匂いが鼻を突く。しかし、それは皮膚を火傷させる程度のダメージにしかならない。鬼は怒りに任せて、再び耳を劈くような咆哮を上げた。


 別の符をスカートのポケットから取り出し、琴音は再びホームの上に跳び上がった。

 待ち構えていた鬼の横殴りの拳が、風を切り裂くように迫る。間に合うか。


「……水山蹇すいざんけん!」


 琴音は祈るようにその名を叫び、符を発動させた。

 ズン……

 鬼の巨大な拳が、琴音の数センチ手前で、まるでスローモーションになったかのようにぴたりと止まる。周囲の空気が粘り気を帯びたように重くなり、鬼の動きが極端に鈍くなったのだ。敵の動きを遅くする卦術。

 この一瞬の猶予を逃すまいと、琴音は渾身の力を込めて、鬼の身体を蹴った。蹴った。何度も、力の限り。

 鬼は琴音に蹴られるたび、不自然なほどゆっくりと、しかし確実に後方に後退していく。やがて、その巨体がぐらりと傾ぎ、鈍い音を立てて膝をついた。

 下がった顔面に、琴音の渾身の蹴りがヒットする。ゴキリ、と嫌な音が響き、顎骨が割れた。黒い血が飛び散り、ホームの床を汚す。


「……効いてる!」


 確かな手応えがあった。しかし、その刹那、時間制限が切れた。

 粘り気を失った空気が、一瞬で元に戻る。鬼の動きが、まるで弾けたように加速した。バスケットボールほどの巨大な拳が、振りかぶられることもなく、横薙ぎに琴音の腕のガードごと、その身体を容赦なく貫いた。

 まるで車に撥ねられたかのような、すさまじい衝撃。琴音の細い体は宙を舞い、そのままコンクリートの床に叩きつけられ、何度も転がった。全身を激痛が襲う。視界が急速に狭まり、意識が遠のいていく。

 身体を貫くような激痛の中、遠くで年配の駅員が何かを叫んでいるのが聞こえた。駅員たちがこちらに駆け寄ろうとする気配がする。

(ダメだ……守られちゃ……)

 そうじゃない。守るのは、私だ。

 琴音は、泥のような疲労と痛みに蝕まれた身体に、渾身の力を込めた。震える腕でホームの床を突き、何とか膝をついた。そして、ゆっくりと、しかし確実に、ふらつきながらも立ち上がる。その眼差しは、再び鬼を捉えていた。


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