第34話

 一月下旬。大学入学共通テストが終わり、俺たちは、束の間の休息を得ていた。だが、俺たちの心は、既に次の戦いに向かっていた。国公立大学の前期試験。それが、俺たちにとっての、最後の試練だった。


 そんなある日、俺は、美咲から声をかけられた。

「日高くん。……話があるの」

 美咲は、いつもと変わらない完璧な優等生の笑顔で、俺に微笑みかける。だが、その瞳の奥には、どこか緊張と不安が入り混じった光が宿っているように見えた。


 放課後の教室には、俺と美咲しかいなかった。窓から差し込む夕日が、二人の間を照らしている、静かな空間だった。


「日高くん。……私、国公立大学、前期試験、受けないことにしたわ」

 美咲の言葉に、俺は一瞬、息をのんだ。美咲は、完璧な優等生として、国公立大学の前期試験を受けることを、誰よりも強く望んでいたはずだ。


「どうしてだ? 橘さんなら、絶対、受かるはずだ」

 俺がそう言うと、美咲は、フッと冷たく微笑んだ。


「そう。でもね、本当は違うの。……私、お母様から、完璧な成績を維持することを求められていた。だから、完璧な私を演じてきた。……でも、日高くんと出会って、本当の私を受け入れてもらって……私、もう、完璧な私を演じることに、疲れてしまったの」

 美咲の声は、震えている。いつも完璧な優等生である彼女が、こんなにも弱っている姿を、俺は初めて見た。


「橘さん……」

 俺がそう言うと、美咲は、俺の瞳から、そっと視線を外した。


「私ね、日高くんと出会って、本当の私を見つけたの。……完璧な私じゃなくても、ありのままの私を受け入れてくれる、日高くんという、大切な存在を見つけたの」

 美咲の言葉に、俺は胸が締め付けられた。美咲が抱える孤独と、完璧でなければならないというプレッシャーから、彼女は解放されたのだ。


 その日の帰り道、俺は、華蓮と二人きりになった。他の生徒たちがそれぞれの友人たちと帰っていく中、華蓮は、俺の隣を歩きながら、楽しそうに今日の出来事を話していた。


「ねえ、陽介。……美咲ちゃん、国公立大学の前期試験、受けないんだって」

 華蓮の声は、いつもと変わらない、優しい声だ。だが、その瞳の奥には、どこか寂しげな光が宿っているように見えた。


「ああ。そうみたいだ」

 俺がそう答えると、華蓮は、俺の腕に、そっと自分の腕を絡ませた。


「陽介……私ね、美咲ちゃんのこと、少し、羨ましかった」

 華蓮の言葉に、俺は一瞬、戸惑った。華蓮が、美咲のことを羨ましいと思うなんて、思ってもみなかったからだ。


「どうしてだ?」

「だって……美咲ちゃん、陽介に、本当の自分を見せることができたじゃない。……私、まだ、陽介に、本当の自分を見せられていないから」

 華蓮の声は、震えている。いつも屈託のない笑顔を見せる彼女が、こんなにも弱っている姿を、俺は初めて見た。


 俺は、華蓮の身体を、優しく抱きしめた。俺の腕の中で、華蓮の身体が、小さく震えている。その感触が、俺の心を締め付ける。


「大丈夫だよ、華蓮。……俺は、華蓮の、ありのままの姿を、すべて受け入れてやるから」

 俺がそう囁くと、華蓮は、俺の胸に顔を埋めたまま、深く息を吐いた。


 美咲が、完璧な自分を演じることをやめ、本当の自分を見つけ始めた。

 華蓮が、俺に、本当の自分を見せたいと願っている。

 国公立大学の前期試験は、彼女たちにとって、単なる試験ではない。

 彼女たちの抱える孤独と、情熱が、今、俺の心を突き動かしていた。

 俺の「後悔のない青春」は、今、静かに、最後の局面を迎えていた。

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