第8話

 六月下旬。期末試験が迫る中、俺たち三年一組の教室は、いつもより静まり返っていた。皆が皆、受験勉強と並行して、目の前の試験に全力を注いでいる。俺もまた、参考書と睨めっこする日々を送っていた。


 そんなある日の放課後、俺は美咲から声をかけられた。

「日高くん、少し、時間ありますか?」

 美咲は、いつもの完璧な笑顔で、俺に微笑みかける。だが、その笑顔の裏に、どこか緊張しているような気配を感じた。


「ああ、いいぜ」

 俺がそう答えると、美咲は、俺を誰もいない教室の隅に連れて行った。そこは、窓から差し込む夕日が、二人の間を照らしている、静かな空間だった。


「日高くん。……去年の、私の三者面談のこと、覚えてる?」

 美咲の言葉に、俺は一瞬、戸惑った。三者面談。去年の三者面談で、美咲が、母親から厳しい言葉をかけられていたことを、俺は知っていた。


「……ああ、覚えてるよ」

 俺がそう答えると、美咲は、ふっと寂しそうに微笑んだ。

「お母様は、私に、完璧な成績を維持することを求めている。だから、私は、常に、完璧でなければならない。それが、私の、唯一の存在価値だから」

 美咲の声は、震えていて、弱々しい。いつも完璧な優等生である美咲が、こんなにも弱っている姿を、俺は初めて見た。


「でも……本当は、違う。私は、完璧な私じゃなくても、誰かに、ありのままの私を受け入れてもらいたかった」

 美咲の瞳から、大粒の涙が、こぼれ落ちた。俺は、美咲の肩に、そっと手を置いた。美咲の身体が、俺の腕の中で、小さく震えている。


「大丈夫だよ。俺は、完璧な橘さんじゃなくても、ありのままの橘さんが好きだ」

 俺がそう囁くと、美咲は、俺の胸に顔を埋めた。俺の制服に、彼女の涙が、熱く染み込んでいく。


「……日高くん……ありがとう」

 美咲の声は、震えている。だが、その声は、どこか晴れ晴れとして聞こえた。


 その日の帰り道、美咲は、俺に、去年の三者面談の出来事を話してくれた。

 美咲の母親は、美咲の成績が少しでも下がると、美咲を厳しく叱責するのだという。

「あなたは、完璧な成績を維持しなきゃいけないのよ。それが、あなたの、唯一の存在価値だから」

 美咲の母親の言葉が、俺の脳裏にこだまする。美咲が、完璧な自分を演じなければならない理由が、この母親の言葉の中にあるのだと、俺は直感した。


「でも、日高くんは、違う。日高くんは、完璧な私じゃなくても、ありのままの私を受け入れてくれた。……だから、私は、日高くんと一緒にいると、安心するの」

 美咲の言葉に、俺は胸が締め付けられた。美咲が抱える孤独と、誰かに必要とされたいという強い願望が、痛いほど伝わってくる。


「橘さん。俺は、橘さんの完璧な外面の下に隠された、情熱的な内面も、すべて受け入れたい」

 俺がそう言うと、美咲は、俺の顔を、じっと見つめた。その瞳の奥には、去年の夜、彼女が流した涙と同じ、強い感情が渦巻いている。


「……日高くん。私……もっと、日高くんのことを知りたい。そして、私自身も、日高くんに知ってほしい」

 美咲の言葉に、俺の心臓が、ドクリと大きく脈打った。


 美咲の情熱的な内面が、今、俺の心を突き動かしている。

 期末試験は、彼女にとって、単なる試験ではない。

 彼女の抱える孤独と、情熱が、今、俺の心を突き動かしていた。

 俺の決意が、この美咲の心の闇を、どう照らしていくのか。

 俺たちの関係は、この期末試験を機に、さらに深いものへと変わっていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る