第10話 夜道、彼女は泣いていた

「光君、下がって」


 瞬きのうちに現れた影人形は突如現れたコンクリートの壁に阻まれた。


 梓さんは、確かに戦闘に向いた力では無かったけど、その能力は凄まじかった。


 影人形の攻撃から逃れながら、表層に仲間がいる場所を経由しつつ走る。その間、梓さんは地形そのものを書き換えていた。道がない場所に道を、本来なら道の場所に建物を。


 ――梓さんは、町を森林に変えれる人だ


 息咳切って走りながら、そんなことを思う。

 どれほど魔力で身体能力をあげても、緊張で走りっぱなしだと息が持たない。すでに肺が痛かった。


 それでも、影人形は、魔術的な防御は容易く破るが、物質として存在する壁を破壊できないらしく、時間を稼ぐのが楽になった。

 とはいえ、影の異常な移動速度は依然として脅威のままで、俺と梓さんはギリギリのところで防いでいるだけだ。


「まだ5分も経ってない……!」


 白銀色の時計は、周囲の闇を映すように暗く輝いていた。


 ――もう何時間も走り回っているように思えるのに。


 俺は額の汗を拭った。梓さんは大丈夫だろうか、と振り向くと、後ろを走る梓さんにはまだ余裕がありそうだ。


 ザリ、と砂利を踏む音を捉えた。振り返れば、梓さんが方向を切り替えていた。俺は何が起こったのか分からなくて立ち止まる。その混乱は一瞬だった。ぞ、と背筋が粟立つ濃い死の気配を感じて、指先にまで緊張が走る。


 ――どこにいるんだ?


 梓さんは、俺を庇うように手を伸ばした。薄暗がりには、ガードレールと、信号と、角に建つ家の壁が見える。

 あいつは近くにいるはずなのに、姿が見えない。ひゅっひゅっ、と自分の呼吸音がうるさい。一秒経つ度に緊張が高まるのを感じた。

 かさ、と木の葉が擦れる音がして、俺は慌てて振り向く。そこには、影人形の姿ひとつ無く、俺は緊張の糸がぷつりと切れた。

 ふぅと呼吸を落ち着かせる。

 暗がりで敵に追われているこの状況はまるでパニックホラーだ。

 幾分か平静を取り戻して、視線を上げる。目の前で影が音もなく笑っていた。


「うそだろ!」


 一瞬のうちに影人形が鎌を振るう。輪郭の無い影が切り裂く瞬間だけ鋭く研ぎ澄まされる。俺は仰け反って初撃を躱す。鼻の先に、鎌が空を切った風圧が掠めた。

 本当なら間に合わないで、俺の首は胴体と切り離されたはずだ。でも、梓さんが俺の目と鼻の先に落とした交通表示が鎌の軌道を逸らした。

 倒れ込みそうになるところを、受身をとって素早く立ち上がる。

 音もなく瞬きのうちに空を切り裂き続く攻撃を梓さんは間一髪で避ける。そのまま影人形の後ろに回り込み、その脳天に基礎攻撃魔術を撃ち込んだ。


 影がボロボロと形を失い、暗闇のなかに消えていく。俺はそれを呆然と眺めていた。


 あっという間のことだった。梓さんが戦闘向きじゃないってどういうことだ?

 思いついて、気づく。梓さんが巡らせている魔力の量は俺と天と地ほどの差があった。だから、巨大な建造物をなんども創り出せる。俺には追い切れない影を、正確に見切ることが出来る。


「しばらくすれば復活するわ。――ほかのみんなは層を越えるのに手間取ってるみたいだけど、さっきから魔力の気配がするからもうすぐよ、頑張りましょう」


 はい、と答えたかったが声にはならなかった。

 手のひらは汗でじっとりと濡れている。足は小刻みに震えていて立つのがやっとだ。一度緊張が切れると、想像以上に身体中の疲労は酷かったと気づく。そして、自覚してしまったら中々切り替えが上手くいかなかった。


 それでも、進まなきゃいけない。立ち止まっていたら死ぬだけだ。

 梓さんは、仲間と合流地点を設定しておいたと言う。梓さんの表情にも僅かな疲れが滲んでいた。

 梓さんはずっと俺をかばいながら動いている。本当なら創らなくていい建造物を出して俺が逃げられるように時間を作ってくれていた。

 ギリ、と奥歯が鳴る。足の震えを気合いで止めた。


 ――悔しい


 腹の底から湧いてくる思いだ。結局俺は、守られてばかり。気を使ってもらって、大事にしてもらって。俺からは何も返せてない。今回のことだけじゃない。十年前から今日に至るまで、色んな人に守ってもらっていた。


 魔術師として道具として生きるか、全てを忘れたフリをして日常のなかに戻るか。

 決断しきれないのも、猶予を引き伸ばし続けているのも、未だにずっと迷子なのも、周りから守ってもらっているからだ。

 ――悔しい

 もう一度心のなかで、つぶやく。俺は、自分で選択肢を作ろうとは一度も努力しなかった。与えられた道があるから、進んだだけ。

 そんなままだから、中途半端で、今も梓さんの足を引っ張っていた。


 街灯は光一つも灯さない。一寸先は何にも見えない中を、二人で走った。アスファルトの上で運動靴が鳴らす控えめな音が、呼吸に混じって聞こえる。俺も梓さんも、この辺りには慣れていた。進むべき道は、暗黙のうちに共有されている。


「あいつらは、何者なんですか」


 俺が知っているのは、底のない暗さと、体の芯から凍りつくような寒さだけ。魔術師が「夜」とどのように戦い、そして追い払ったのかを知らなかった。俺は家の中に匿われて、為す術なく夜に流されただけ。


「私たちは夜に負けました」


 端的な一言。声色に滲むのは一言では到底言い尽くせないほどの感情だった。

 力不足を恥じるような、仲間の死を悼むような。あるいは、敗北を悔しく思って。ほかにもたくさん。胸に込上げる感情を、押し殺しきれなかったほんの少しの欠片だけで、俺は梓さんの壮絶な記憶を思って胸が痛くなった。

 梓さんは当時十二歳だったはずだ。兄弟も同じ年の頃で前線へ赴いていた、同じように夜と戦った梓さんは、俺には想像もつかないほどの惨劇を目の当たりにしただろう。


「影の蝙蝠、影人形。本来は、数え切れないほどの群れで動いていたわ。そいつらは夜から際限なく生み出され続けて、夜もまた分厚い呪いを纏っていた。――私たち魔術師は、その本体すら見ることが出来ずに負けた……」


 言葉の端から伝わる悲痛な思いに、俺は心臓がぎゅっと押しつぶされた。


 目の前すら真っ暗闇に包まれて、影の蝙蝠や影人形に絶えず襲われる恐怖はどれほどだろうか。辺りの暗さ全てが、自分を殺しに来ているように思えただろう。踏み越えたのは敵の成れ果てか、同胞の亡骸か。それでも、立ち止まることは許されない。魔術師は結局は、人類の為に作られた道具なのだから。


 俺の脳裏に、射干玉の夜に独り、顔を覆って無言のうちに慟哭する姿が過ぎった。その影が、開きかけの向日葵を、鮮烈な色彩を抱えた子供と重なる。


「来る!」


 ぞわりと背筋を撫でた悪寒に、俺は叫ぶ。一体だけじゃない、何体か。驚きはしない、影人形は本来群れで動くから。


 完全に俺の死角から現れた影は、俺の纏う白銀の光のヴェール阻まれて姿を消す。俺が諦めない限り、白銀の光は俺の生き残ってやるという意思に応え続ける。


「梓さん……!」


 一瞬俺を守ることに気を取られた梓さんは、左腕を薄く裂かれた。影の口元が笑うように歪む。そのまま傷ついた腕を抉るように鎌を振り上げた。その、どこまでも人を嘲笑う悪意の顔を、俺は衝動的に撃ち抜いた。余った影を巨大な建物が押し潰す。

 かつてないほどの熱さと痛みが右腕に走った。さながら、巨大な電流が体を流れたみたいで。

 でも、右腕の痛みはちっとも気にならない。

 梓さんが、左腕を庇うように立っていた。暗がりのなかでも、おびただしい量の汗をかいているのがわかった。


 俺は地面が抜けたような心地がした。

 ――俺のせいで、俺のせいで!

 梓さんは明らかに俺を庇おうとした、気を抜いたのも、反応が遅れたのも全部俺なのに。それなのに、梓さんは左腕を裂かれて、痛みに耐えている。罪悪感とも、判別のつかない感情が心を蝕んでいた。


「私は大丈夫よ」


 梓さんは、いつもみたいな柔らかな表情を浮かべた。朗らかな声に、胸が詰まる。――また、守られた。


「切られたのが私で良かった。影には毒があるけど、私には効かないから」


 強がりでもなんでもなく、梓さんは笑顔を浮かべた。じわじわと傷が塞がっていく。そして、俺に手を差し伸べた。

 隣には、バス停の看板。薄暗い中でもはっきりとわかった。駅前だ、夜の世界の駅前がすぐそこにあった。

 最後の全力を振り絞って俺たちは走り出した。合流地点はすぐそこにある、その事が何より力を与えた。後ろから影人形が迫ってくるのを感じても、今は恐怖は無かった。仲間がすぐそばにいる、影人形を仕留めようと罠をはって今かと待ち構えている。


「こっちだ!」

 

 金剛さんの声が道標のように響いた。ほかにも、知っている魔力がいくつか。知らない魔力もたくさん。大勢が、「夜」の影に立ち向かおうと集まっていた。


 ――あと少し


 終わったら、もっと魔術を練習しよう。みんなの役に立てるように。俺は無力さを痛感させられるばかりで。ちゃんと、選ぼう。どう生きるのか、どう死ぬのかを。

 ――敵を背後に背負っているのに、これは楽観的な思考だった


「うあぁ、えぇえーん」


 子供の泣き声が聞こえて、俺は思わず振り向いた。影が、頭部が吹き飛んだ影が、その体を構成する悪意が取り払われ、暗くて到底見えるはずの無いけれど、赤い彼岸花と黄色い向日葵の花弁が散るのが確かに見えた。


 一瞬、目の前の光景は、毒々しい花束が叫ぶように花弁を広げていた。痛々しく、鮮烈に俺のまぶたに焼き付いている。


 細く黒い女性が、夜に囲まれて・・・・・・泣いていた。花束を抱えた子供に直感した痛くて声にならない悲しみが、十年前の記憶の中に眠っていた。


 黒いベールで顔を隠した彼女は、手のひらで顔を覆っている。彼女が立つのは、吹き荒ぶ魔力も、凍えるような死の気配も感じられない、台風の目の中にいるみたいな凪いだ夜だった。

 隙間から、彼女の瞳が覗いた。一瞬、視線が交錯する。


 淋しい。


 俺は、見知らぬ彼女の姿に泣きたくなった。

 何か大切な大きなものを失ってしまったような、自分という存在そのものに穴が空いたようだった。そう思わせる、音のない叫び。

 確かにそう思ったのを、いま、思い出した。


 俺は思わず立ち止まった。ある考えが思い浮かぶ。夜はずっと悪意に覆われていた。けど、その内側には。

 ――もしかして夜って


「前!」


 必死の叫びに意識が現実へ引き戻される。音もなく忍び寄る影、眼前に迫る刃、真っ直ぐに振りかぶられて。


 一瞬のうちに、十年間の記憶が溢れ出す。奏音と凍月を悲しませてしまうな、と思ったり。佐藤に別れも言ってないと気づいて。両親への感謝も後ろめたさも、疑問も。

 すべてが昇華されていって、まっさらな状態に近づく。

 恐怖を通り越し、定まってしまった終わりへの諦念の先に、静かな同情があった。その感情の正体を、知らずに終わるのか、と心のうちで独白する。

 

 ――でも……!


 捨てきれない、俺の意思が叫び声をあげる。

 俺は、全ての選択肢に納得してない。世界の道具として諦めて魔術師になるのも、選択しきれないで苦しみから目を逸らすのも。


 ――俺はまだ、道を選んでない

 ――白銀光・・・はまだ、何者にもなれてない!


 俺の死は、もう逃れようが無かった。


 それでも―――、この手で確かに掴んだのは新しい光だった

 





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る