第7話 迷子の隣
人の視線から逃れるように、回り道を選んだ。
ごちゃごちゃした駅前から離れれば、まだ眠りから起きたばかりの閑静な住宅街が広がっている。柔らかな日差しが長くて淡い影をアスファルトに落とす。俺はその影を選んで進んだ。
俺にとっては世界が変わるほどの昨日の出来事も、日常に暮らす人々にとっては些末な、それどころか気づきもしない出来事だと実感する。
相変わらずの間延びした声で先生の愚痴だのを意味もなく繰り返す生徒を追い越して、いつもズカズカと人にぶつかりながら歩く神経質な会社員のことも追い抜いてやった。少しばかり余裕が無かった。これが俺が命を懸けて守るべき人間か、と人の嫌な面が普段よりも露骨に感じられて、頭を冷やしたかった。
人気の少ない道を、ぼんやりと歩いていると心が安らいだ。この道は、魔術師としての奏音や凍月と出会い、俺の絵を描いてくれた少年のいる喫茶店がある通りで、俺の一番のお気に入りの道だ。
案の定、というか、この道は俺に縁を呼ぶらしい。
黒い髪を適当にくくった、俺よりも上背のある青年がスマホを片手に首を傾げていた。話しかけようと方向を変えた自分に気づいて、思わず笑みがこぼれる。
――人助けは好きなままじゃん
そう気づいて俺はほっとした。全てが嫌いになったわけじゃない。
矛盾だらけで、少しも思い通りにいかない少年の心だ。ようやく手に入れた居場所だけれど、俺の気持ちは日常への懐かしさに傾いていた。
「どこかお探しですか」
「『ベーカリー麦屋』に行きたいのですが……」
夜明け前のような瑠璃色と目が合った。でも、真っ暗ではない。目の奥に燃えんとする光を予感させる。ざっくばらんにまとめられた中途半端な長さの黒髪と、その色彩はどこか懐かしさがあった。
不意に「最も大切なのは不屈の心だ」と言った横顔と重なる。
彼が挙げたのは、俺の行きつけの喫茶店の隣にある、くすんだ赤色の看板を提げた小さなパン屋の名前で、学校に行く道すがら案内した。
褪せた赤色の看板と、小さな入口。「焼きたてのパンあります」と張り紙がされている。どこか遠い故郷を思い起こさせるようなこじんまりとした店からは、朝一番の焼けたパンの香ばしい匂いがした。
このパン屋も、今度寄ろうかななんて考えながらも、何度も頭を下げる封筒を抱えた青年に軽く手を振って歩き出した。
なんだか他人な気がしない。パン屋の郷愁を帯びた匂いのせいか、それとも今朝見た悪夢のせいか。
* * *
「白銀氏は、迷子なのだな」
「えっ?」
いつも通り遅刻してきた佐藤は、席に着くなりそう言った。すでに教室は廊下に立つ人や話し声で溢れかえっていて、俺の声は騒がしさの中にたちまちかき消される。
俺の困惑をよそに、佐藤は一人納得した様子だ。
「岐路に立たされて悩むうちに、帰り道も見失った哀れな子羊だ」
俺は、迷える子羊ってか。
相変わらず訳の分からない言葉の選び方だけど、その意図は真っ直ぐに俺の現状を指していた。
確かに俺は迷っていた。このまま魔術師として非日常を選ぶべきか、それとも日常のなかで暮らすべきか。でも、選ぶ余地は残されてないことを思い知らされた。
俺の決意は、最初から無意味だった。
冗談か、それとも佐藤への返事だかを言おうとした時にタイミング悪く一限のチャイムが鳴った。俺の言葉は宙ぶらりんのまま、どっかに行ってしまった。
佐藤の言葉に気を取られていた俺は教科書一式をロッカーに残したままで、気まずい空気の中取りに行く羽目になった。
それから、
「白銀」
呼びかけてくる凍月を見上げる。凍月が俺に話しかけてくることは、今まで滅多になかった。
「どうした? 言っとくけど今日は一回も見てないからな」
「わかってる」
軽口を飛ばしても、凍月は表情を緩ませることは無かった。俺のことをじっと見つめたまま、言い出すべきか迷う。
「なにか用でも」
居心地の悪さを感じて、話を終わらせるために席を立とうとして、ようやくぽつりと言った。
――「パンを食べに行かないか」って。
* * *
「奏音は誘わなくてよかったのか?」
「あいつは用事があるってさ」
二人並んで影を眺める。辿る道は思った通りの、俺のお気に入りの遠回りと同じだった。連日、帰りのホームルームと同時に学校を飛び出すってことは、凍月は部活に入っていないんだな、と初めて気づいた。
「光、望むなら魔術師をやめることもできるんだ」
俺は弾かれたように顔を上げた。凍月の表情は、どう表したらいいのか。
すっごく哀しそうで、途方に暮れた、迷子のような顔をしていた。
——魔術師をやめる選択肢がある
今朝の諦めに、加えられた甘い誘惑だった。
そんな欲しくてたまらなかった
「本当は、黙ってるつもりだったけど」
凍月は困ったように笑った。
「俺の両親は魔術師をやめたんだ。だから俺は今、一人で暮らしてる」
――そんな
俺の知る限りでは凍月祐は、完璧な優等生だった。
絵に描いたような青春を送り、何一つ不自由のない暮らしをしているのだとばかり思いこんでいた。
「魔術師はやめることができる…といっても不完全なものだけどな。うっすらと敵の気配は感じるし、必要になれば以前の三割くらいの魔力を取り戻せる」
「どうして教えてくれたんだ」
「学校でずっと苦しそうな顔してたから」
はっとさせられた。俺はもう一人じゃないんだ。
「殺されかけて、生き残るためには魔術師として目覚めるしかなかったんだ。それで、俺、どうしたらいいのかわからなくなって」
ようやく言い出せた一言。凍月は静かな沈黙をもって受け入れてくれた。
非日常に踏み込んだことは、悪いことばかりじゃなかったと思い出した。一人ぼっちの放課後をここ二日は過ごさなかった。奏音に凍月、沙千佳さん、梓さんたちと出会い、縁を結べたのは魔術師になったからだった。
「ほら、見えた」
凍月が指さしたのは、赤い看板を下げた小さなパン屋。「ベーカリー麦屋」と黄色いペンキで大きく書いてある。
店内では小さな棚に所狭しとパンが並べられていた。店長の趣味か、レジ横に置かれたレコードが「カントリーロード」を奏でていた。懐かしい故郷を思い出させるようなレトロな雰囲気に合わさって、俺の失った記憶のなかの暖かさを思い出させた。
「それがとんだ大物が異動してきたんだ」
昨日、目玉魚の大軍に対して石化の魔術を使っていたサラリーマンの男が、エプロンを身に着けた店員の青年と語らっていた。
「金剛さん、こんにちは。大物って年はいくつなんですか?」
「それが、二十二歳なんだ」
ひゅうと若い男が口笛を吹いた。
「そりゃ、すごい。人形姫…は出てこないし。となると雷電の方か?」
「いや、砲撃の方だ」
「珍しいっすね」
入店してきた俺たちに気づいた店員が、俺たちを手招いた。
「いらっしゃい凍月君。あと新顔の君。ようこそ魔術師のパン屋へ」
にんまり、という様子で笑う店員は「麦屋」と名乗った。気のいい兄ちゃんって感じの青年だ。猫みたいな焦げ茶色のくせっ毛に、黄緑色の爽やかな瞳がいたずらっぽく細められていた。
「クロワッサン焼いててもう少しで焼きあがるんだ。今ならサービスもするよ」とすかさずアピールしてくる。
「じゃあ、それ二つ。お願いします」
「はいよ。サービスでタダで」
麦屋さんはそう言ってピースした。「仲間同士、助け合わないとね」と、その言葉が嬉しい反面、ちょっぴりと息苦しさを感じた。魔術師をやめようとしている俺に、そんな資格はあるのか。
「まーたそうやってすぐおまけする」
「いいじゃないですか、趣味のパン屋なんで。おれの本業は伝達ですよ」
ひょいと指先を動かして、封筒が飛んできた。それをひょいと金剛さんに差し出した。
「今朝、見かけたことのない魔術師が届けてきた最新の連合報告ですよ」
「もしかして昨日の『夜』ですか」
金剛さんは、俺たちの目の前で封をほどいて書面をにらむ。だんだんと険しくなる表情に、思わず凍月が問いかけた。
「どうやらここだけじゃなかったらしい。各地で夜の報告がある」
言って重い溜息をついた。魔術師ならば、誰しも夜の怖さをしている。体の芯まで凍るような寒さと、絶えずこちらを誘う甘い死の匂い。
魔術師の世界で、何かが起ころうとしていた。
「彼が異動したのも、これ絡みだろうな」
「でも、うちにはすでに二十二歳がいるじゃないですか」
目の前で繰り広げられる魔術師トークに俺はすっかり置いてけぼりにされていた。
「魔術師には、桁違いの魔術を行使する四十人がいるんだ。人形姫や雷電、砲撃なんか呼ばれてる三人もそうだ。今この町に来てる『砲撃』は魔力を純粋なエネルギーとして扱い、一切の無駄なく放たれる魔術からそう呼ばれてる」
見かねた凍月が助け舟を出した。会話に追いつけない俺に気づいた二人が「悪い悪い」と説明を加える。
「魔術はイメージに依存してなんでもできる。とはいえ、少年、このパン屋が森林に塗り替えるイメージはつくか?一度に扱える魔力の限度とか、他にも条件があいまって、世界を書き換えるような大規模な魔術はなかなか使えない。彼ら四十人はそれを軽々とやってのける。俺なんかは、せいぜい石化したっていう情報を付け足すだけだ。――それも、俺の魔力がはがされたら全部パー」
そういって肩をくすめる金剛さんに「いや、アナタも十分すごいですって」と麦屋さんが付け加える。
「彼らには遠く及ばないよ。このあたりで唯一比肩しうるのは炎使いじゃないかな」
俺は昨日の戦いを思い出した。金剛さんは、エネルギーの渦巻く魚に臆することなく、冷静に石化や拘束の魔術を行使していた。俺はその姿を、かっこいいと思ったことを覚えている。
炎使いは、きっと昨日の目玉魚を焼いた、揺蕩う炎を操っていた幽玄なおばあさんのことだろう。
そして、俺は世界を丸ごと書き換える魔術師に心あたりがあった。
――アーデル
彼はコンクリートで閉ざされた狭い世界を、黄金のきらめく純白の宮殿に書き換えて見せた、俺が最初に見た、本物の魔術師。
「アーデルとか?」
「それって…」
驚いたように凍月は目を見開いた。
「アーデル・ブラウンか?」
俺は頷いた。信じられないような目で俺を見つめてくる。麦屋さんたちは状況に追いつけていない。
「アーデルさんは有名ですからね」
その言葉に凍月が頭を振る。何かを言いかけて、小さく「いや、なんでもないです」と。その声は少し震えていた。凍月は、俺が魔術師に殺されかけたことを知っている。
誰もが知る有名な魔術師が、ちっぽけな人間の高校生に手を出したことにショックを受けたのだと思う。
ただ、凍月が俺に向けた視線が、少しだけ「うらやましい」と恨むような火をはらんでいたような気がしたのだ。
「ほいよ、焼き立てのクロワッサンだ」
大きなクロワッサンだった。バターの香りがふわりとただよう。俺は深く息を吸って、多幸感に包まれる。つやつやとした綺麗な焼き色に思わずつばを飲みこむ。隣を見れば凍月がさくりと一口かぶりついた。たちまち、表情が緩む。
おもったより豪快に食べるな…と思いつつ、俺も一口。さっくりとした生地にほんのりと塩気が効いていて、何口でも食べれそうな気がした。あまりのおいしさに思わず二口めにかぶりつく。
麦屋さんが嬉しそうに俺たちを眺めていた。「おれも買えばよかったかな」と金剛さん。麦屋さんは肘で小突いて「金剛さんは大人なんで、三百円になります」と、金剛さんはしかたがないなぁと五円札を取り出した。
「よ、太っ腹」
「そろそろ出なきゃいけないのでね。仲間の差し入れに」
「まいどあり!」
チャランと鐘の音が鳴って、クロワッサンが詰まった袋を抱えた金剛さんが店を出た。そのころには俺たちはクロワッサンを平らげていた。
「凍月はどうして俺をここに連れてきたんだ」
「来るとき話したことと、あとは俺のお気に入りの店を知ってほしかったんだ。魔術師として生きても、魔術師じゃなくなっても、俺はここにいるから」
ここに居てはいけない。お前がいなければ幸せになれた人がいるんだと自分に呪いをかけ続けていた。
白銀さんが愛してくれているのも、ほんとうは学校の人達が俺のことを仲間に誘ってくれていて、応えない俺に愛想を尽かしたのも気づいていた。
ずっと一人だった。それでも、たまに憂鬱に沈みそうになるのを時折佐藤がすくい上げてくれていた。
そして今、凍月が彼の日常に俺を連れて来てくれた。
俺は少し泣きそうになった。人前だから、なんとかこらえる。
――俺だけじゃなかった
凍月も、俺のことを友人だと思ってくれていた。その事実が、魔術師だとか、運命だとか全部関係なく、ただただうれしかった。
「お二人さん」
見守っていた麦屋さんが、レジ奥の扉を開いた。
「腹ごしらえもすんだことですし、特訓していきます?」
俺はまだ、魔術師を続けるのか、それともやめるかもしれない。何も分からないままだけど。道があるなら進まなきゃいけない。たとえ、回り道だとしても。
二人そろって、強く頷いた。
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