第5話 夜風と砂と約束の背中

夏の夜。

海から吹く風に、提灯が揺れていた。

少年・レンは、その手にまだ食べかけのかき氷を握りしめたまま、

声も出せずに立ち尽くしていた。

高知の競馬場。

赤く照らされたナイターの砂の上を、

ひときわ輝く馬が走っていた。

名前は──《カナタノホシ》。

深い青を思わせる黒鹿毛。

流れるようなフォーム。

そして何より、誰よりも、

速かった。

その背にいた騎手は、地元出身の名手。

名は修二(しゅうじ)。

多くの馬を勝利に導き、

「地方の星」と呼ばれていた。

その日もまた、彼は勝った。

風とともに、夢のように駆け抜けていった。

──その姿が、レンの胸を撃ち抜いた。



帰り道、父が言った。

「すごかったな、今日の馬と騎手」

レンはうなずいた。目は夜空を見ていた。

「ぼく、あの人みたいになりたい」

「……馬に乗って、風になりたい」

父は笑った。

でもその手は、優しく頭を撫でてくれた。



それからのレンの毎日は、

夢のための一歩になった。

体を鍛え、食を管理し、

進路は迷わず競馬学校へ。

どんなに厳しくても、やめようとは思わなかった。

だって──

あの夜、あの馬の背にいた“光”を、

いつか自分も宿したいと願ったのだから。



時は流れ、

ついにレンは、高知の砂の上に立っていた。

ゼッケン「4」、栗毛の牝馬サクラアリア

まだ無名の馬だったが、

レンは彼女に、どこか《カナタノホシ》と同じ匂いを感じていた。

「行こう」

返すように、アリアが鼻を鳴らす。

ゲートが開く。

一瞬の静寂、そして──爆ぜるような蹄の音。

「前へ」

「もっと、前へ!」

風が鳴る。

照明の下、砂が宙を舞う。



気づけば、

ゴールの瞬間には観客が立ち上がっていた。

《サクラアリア》が、勝った。

しかも──他馬を影すら踏ませずに。

その背にいたのは、若き新人。

かつて、夏の夜に夢を見た少年だった。



表彰式。

マイクを渡され、言葉が詰まった。

けれど、ふと視線を上げると、スタンドの端にひとりの男がいた。

ベテランの騎手、修二。

静かに、けれど確かにうなずいていた。

レンは微笑んだ。

「きっかけは、小さな夜の光でした」

「いつか誰かの夢になれるように。

 これからも、走り続けます」



高知の夜に、また風が吹く。

あの夏、風に乗った背中を追いかけた少年は、

いま、自ら風になって走っている。

──物語は、続いていく。

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