②『後漢書』卷八十五/東夷列傳第七十五


参考:卷八十五/東夷列傳第七十五

https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/033_gokanjo.html


『王制』は言う、「東方は夷と呼ばれる」夷とは根の意味で、仁を好み生命を愛し、万物が地から生じる。だから天性は柔順で、道で導きやすく、君子や不死の国がある。夷には九種あり、畎夷、于夷、方夷、黄夷、白夷、赤夷、玄夷、風夷、陽夷と呼ばれる。だから孔子は九夷に住もうとした。


 昔、堯は羲仲に嵎夷に住まわせ、暘谷と名付けた。日の出る所だ。夏の太康が徳を失い、夷人が叛いた。少康以降、世は王の教化に従い、王の門に賓し、楽や舞を献じた。桀が暴虐をすると、諸夷が内侵した。殷の湯が革命を起こし、伐って平定した。仲丁の時、藍夷が寇となった。それ以降、服したり叛いたり、三百年余り続いた。武乙が衰えると、東夷は次第に盛んになり、淮や岱に移り、徐々に中原に住んだ。


 武王が紂を滅ぼすと、肅慎が石鏃や楛矢を献じた。管叔や蔡叔が周に叛き、夷狄を誘った。周公が征伐し、東夷を平定した。康王の時、肅慎が再び来た。後、徐夷が王号を僭称し、九夷を率いて宗周を伐ち、西の河まで至った。穆王はその勢いを恐れ、東方の諸侯を分け、徐偃王に主宰させた。偃王は潢池の東に住み、地方五百里、仁義を行い、陸で朝する国が三十六あった。穆王が驥騄の馬を得ると、造父に御させて楚に告げ、徐を伐たせ、一日で至った。楚文王が大軍を挙げて徐を滅ぼした。偃王は仁だが権謀がなく、民と戦うのを忍び、敗れた。北へ彭城の武原県の東山下に逃れ、従う百姓は万数に及び、山を徐山と名付けた。厲王の無道で、淮夷が寇となった。王は虢仲に命じて征伐させたが、勝てなかった。宣王は召公に命じて伐ち平定した。幽王の淫乱で、四夷が交侵した。斉桓公が覇を修め、夷を退けた。楚霊王が申で会し、夷も盟に参加した。後、越が琅邪に移り、共に征戦し、諸夏を陵辱し、小邦を滅ぼした。


 秦が六国を併せ、淮泗の夷は民戸に散じた。陳渉が起兵し、天下が崩れ、燕人の衛満が朝鮮に避れ、王となった。百余年後、武帝が滅ぼした。東夷は上京に通じた。王莽が位を簒奪すると、貊人が辺を寇した。建武の初め、朝貢に来た。遼東太守の祭肜は北方に威を振るい、名声は海を越えた。濊、貊、倭、韓が万里から朝献した。章和以降、使者が行き来した。永初の多難で寇略が始まった。桓帝や霊帝の失政で、寇略が増えた。


 中興以降、四夷が賓し、時に叛いても使者は絶えなかった。国俗や風土を略記できる。東夷は土着で、酒を好み歌舞する。冠弁や錦衣を着、俎豆を使う。中国が礼を失い、四夷に求めたのだ。蛮、夷、戎、狄を総称して四夷とし、公、侯、伯、子、男を諸侯と呼ぶようなものだ。


 夫餘国は玄菟の北千里にある。南は高句驪、東は挹婁、西は鮮卑、北は弱水と接する。地方二千里、元は濊の地だ。


 北夷の索離国王が出行中、侍女が孕んだ。王が戻り、殺そうとした。侍女は言った、「天上に鶏卵大の気が降り、妊娠した」王は囚えたが、男が生まれた。王は豕牢に置き、豕が息で温め、死ななかった。馬蘭に移しても馬が同じくし、王は神とみなし、母に養わせた。名を東明とした。東明は成長し、射術に優れ、王はその猛さを忌み、殺そうとした。東明は南の掩水に逃れ、弓で水を撃つと、魚や鼈が浮き、東明はそれに乗って渡り、夫餘に王となった。東夷の域で最も平敞で、五穀に適し、名馬、赤玉、貂、酸棗大の珠が出る。円柵を城とし、宮室、倉庫、牢獄がある。人々は粗大で強く勇猛だが謹厚で、寇略しない。弓矢、刀矛が武器だ。六畜で官を名付け、馬加、牛加、狗加がある。邑落は諸加に属する。俎豆で飲食し、会同で拜爵や洗爵、揖讓や升降を行う。臘月に天を祭り、連日大会を開き、飲食や歌舞を「迎鼓」と呼ぶ。刑獄を断ち、囚を解く。軍事では天を祭り、牛を殺し、蹄で吉凶を占う。行人は昼夜なく、歌吟が絶えない。刑は厳急で、誅されると家族は奴婢となる。盗は一で十二を償う。男女の淫は殺し、特に妒婦を厳しく罰し、死体を山に置く。兄が死ねば嫂を娶る。死者は椁で棺がなく、殉葬は百数に及ぶ。王の葬は玉匣を使い、漢は玄菟郡に玉匣を預け、王の死で迎え葬った。


 建武中、東夷諸国が朝献した。建武二十五年、夫餘王が使者を送り、光武は厚く答えた。使命は毎年通じた。安帝永初五年、夫餘王が七八千の歩騎で楽浪を寇し、吏民を殺傷し、後で帰服した。永寧元年、嗣子の尉仇台が印璽を貢ぎ、天子は印綬や金彩を賜った。順帝永和元年、王が京師に来朝し、帝は黄門鼓吹や角抵戲で送った。桓帝延熹四年、使者が朝賀し貢献した。永康元年、王夫台が二万余人で玄菟を寇し、太守公孫域が撃破し、千余級を斬った。霊帝熹平三年、章を奉じて貢献した。夫餘は玄菟に属し、献帝時、王は遼東属を求めた。


 挹婁は古の肅慎国で、夫餘の東北千余里、大海に濱り、南は北沃沮と接し、北の極は知られぬ。山険が多く、人は夫餘に似て言語は異なる。五穀、麻布、赤玉、良貂が出る。君長はなく、邑落に大人あり。山林に住み、極寒で穴居し、深さを貴び、九梯に至る。豕を養い、肉を食い、皮を衣る。冬は豕の脂を数分厚く塗り、風寒を防ぐ。夏は裸で、尺布で前後を蔽う。臭穢で不潔、厠を中に作り、囲んで住む。漢興以降、夫餘に臣属した。種は少なく、勇力多く、山険に住み、善射で、矢は目に入る。四尺の弓、弩の力、楛矢は一尺八寸、青石の鏃に毒を塗り、命中即死だ。船に乗り、寇盗を好み、隣国は恐れるが服せない。東夷や夫餘は俎豆を使うが、挹婁だけ無で、法俗は綱紀がない。


 高句驪は遼東の東千里、南は朝鮮や濊貊、東は沃沮、北は夫餘と接する。地方二千里、大山や深谷が多く、人はそれに住む。田業少なく、力作で自給できず、飲食を節し、宮室を好む。東夷は夫餘の別種と言い、言語や法則は似るが、跪拜で片足を引き、歩行は走る。五族あり、消奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部だ。本は消奴部が王で、弱ると桂婁部が代わった。官に相加、対盧、沛者、古鄒大加、主簿、優台、使者、帛衣先人がある。武帝が朝鮮を滅ぼし、高句驪を県とし、玄菟に属させ、鼓吹や伎人を賜った。淫で清潔を好み、夜に男女が集まり、倡楽する。鬼神、社稷、零星を祠り、十月に天を祭る大会を「東盟」と呼ぶ。東に禭神の大穴があり、十月に迎えて祭る。公会は錦繡や金銀で飾る。大加や主簿は幘を着け、後がない。小加は折風を着け、弁に似る。牢獄はなく、罪は諸加が評議し、即殺し、妻子を奴婢とする。婚姻は婦家に行き、子が育つと還り、送終の具を営む。金銀財幣を厚葬に使い、積石で封じ、松柏を植える。人は凶急で気力あり、戦闘や寇略を好む。沃沮、東濊は属する。


 句驪は貊耳とも呼ばれ、別種が小水に住み、小水貊と名付け、良弓「貊弓」を出す。


 王莽の初め、句驪兵を匈奴伐に発したが、行きたがらず、強制され、塞外に逃げ寇盗となった。遼西大尹の田譚が追撃し、戦死した。王莽は将厳尤に命じ、句驪侯騶を誘い、斬り、首を長安に送った。王莽は喜び、高句驪王を下句驪侯と改めた。貊人の寇は増した。建武八年、句驪が朝貢し、光武は王号を復した。二十三年冬、蠶支落大加の戴升らが万余口で楽浪に内属した。二十五年春、句驪が右北平、漁陽、上谷、太原を寇したが、遼東太守祭肜が恩信で招き、款塞した。


 後、句驪王宮が生まれ、目を開き見えた。国人はこれを尊んだ。長じて勇壮で、辺境を犯した。和帝元興元年春、遼東の六県を寇略し、太守耿夔が撃破し、渠帥を斬った。安帝永初五年、宮が使者を送り、玄菟属を求めた。元初五年、濊貊と玄菟を寇し、華麗城を攻めた。建光元年春、幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷らが兵を率いて撃ち、濊貊の渠帥を捕斬し、兵馬財物を獲た。宮は嗣子遂成に二千余人を率いさせ、姚光らを迎え、詐降した。光らが信じ、遂成は険で軍を遮り、三千人を潜遣して玄菟、遼東を攻め、城郭を焼き、二千余人を殺傷した。広陽、漁陽、右北平、涿郡の属国三千余騎が救ったが、貊人は去った。夏、宮は遼東鮮卑八千余人と遼隊を攻め、吏民を殺略した。蔡諷らが新昌で追撃し、戦死し、功曹耿耗、兵曹掾龍端、兵馬掾公孫酺が諷を護り、共に死に、死者百余人だった。秋、宮は馬韓や濊貊の数千騎で玄菟を囲んだ。夫餘王が子尉仇台に二万余人を率いさせ、州郡と討破し、五百余級を斬った。


 その年、宮が死に、子遂成が立った。姚光は喪に乗じて兵を出すと上言し、議者は許した。尚書陳忠は言った、「宮は前桀黠で、光は討てなかった。死後に撃つのは義でない。弔問を遣わし、前罪を責め、赦して誅せず、後善を取るべきだ」安帝は従った。翌年、遂成は漢の生口を返し、玄菟に降った。詔は言った、「遂成らは桀逆で、斬断すべきだが、赦令で罪を乞い降った。鮮卑や濊貊は連年寇略し、小民を駆略し、千数なのに数十百人しか送らず、向化の心でない。今後、県官と戦わず親附し生口を送る者は、縑を一人四十匹、小口は半分で贖う」


 遂成が死に、子伯固が立った。濊貊は服し、東垂は平穏だった。順帝陽嘉元年、玄菟郡に屯田六部を置いた。質帝や桓帝の間、遼東や西安平を犯し、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を掠った。建寧二年、玄菟太守耿臨が討ち、数百級を斬り、伯固は降服し、玄菟属を乞うた。


 東沃沮は高句驪の蓋馬大山の東、大海に濱り、北は挹婁や夫餘、南は濊貊と接する。東西は狭く、南北は長く、方千里だ。土は肥美で、山に背し海に面し、五穀に適し、田種に良い。邑落に長帥あり。人は質直で強く勇で、矛を持ち歩戦に便だ。言語、食飲、居所、衣服は句驪に似る。葬は大木の椁で十余丈、一頭を開戸とし、死者を仮埋し、皮肉が尽きて骨を椁に入れ、家族は一椁を共にする。木を刻んで主とし、死者に合わせて数える。


 武帝が朝鮮を滅ぼし、沃沮を玄菟郡とした。後、夷貊に侵され、郡を高句驪西北に移し、沃沮を県とし、楽浪東部都尉に属した。光武が都尉を廃し、渠帥を沃沮侯に封じた。土地は狭く、大国の間にあり、句驪に臣属した。句驪は大人を置き、使者として監領し、租税、貂布、魚塩、海の食物を取り、美女を婢妾とした。


 北沃沮は置溝婁とも呼ばれ、南沃沮から八百余里だ。俗は南と同等で、南は挹婁と接する。挹婁人は船で寇略し、北沃沮は恐れ、夏は巌穴に隠れ、冬は船道が通じず、邑落に住む。耆老は言う、海で三丈の両袖の布衣を得た。また岸で破船に乗る人を見、頂に顔があり、語れず食わず死んだ。海に女国があり、男はいない。神井を覗くと子が生じると伝わる。


 濊は北で高句驪や沃沮、南で辰韓、東で大海、西で楽浪と接する。濊、沃沮、句驪は元朝鮮の地だ。武王が箕子を朝鮮に封じ、礼義や田蠶、八条の教を施した。人は盗まず、門を閉じず、婦人は貞信、飲食は籩豆だ。四十余世後、朝鮮侯準が自称王した。漢初の大乱で、燕、斉、趙の数万人が避れ、燕人衛満が準を破り、王となった。孫右渠に至り、元朔元年、濊君南閭らが二十八万口で遼東に内属した。武帝は蒼海郡とし、数年で廃した。元封三年、朝鮮を滅ぼし、楽浪、臨屯、玄菟、真番の四部を置いた。昭帝始元五年、臨屯と真番を廃し、楽浪と玄菟に併せた。玄菟は句驪に移った。単単大領以東、沃沮や濊貊は楽浪に属した。後、領東七県を分け、楽浪東部都尉とした。内属後、風俗は薄れ、法禁は増え、六十余条となった。建武六年、都尉を廃し、領東を棄て、渠帥を県侯に封じ、歳時に朝賀した。


 大君長はなく、侯、邑君、三老がある。耆旧は句驪と同種と言い、言語や法俗は似る。人は愚直で欲が少なく、乞わない。男女は曲領を衣る。山川を重んじ、部界を侵さない。同姓は婚姻せず、忌諱が多く、病死で旧宅を棄て、新居を作る。麻や蠶を養い、緜布を作る。星宿を候い、年歳の豊約を知る。十月に天を祭り、昼夜飲酒歌舞し、「舞天」と呼ぶ。虎を神と祠る。邑落が侵すと、生口や牛馬で罰し、「責禍」と呼ぶ。殺人者は死で償う。寇盗は少ない。歩戦に便で、三丈の矛を数人で持つ。楽浪の檀弓、文豹、果下馬が出、海の班魚を献じる。


 韓は三種、馬韓、辰韓、弁辰だ。馬韓は西に五十四国、北は楽浪、南は倭と接する。辰韓は東に十二国、北は濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に十二国、南は倭と接する。計七十八国、伯済はその一つだ。大は万余戸、小は数千家、山海にあり、方四千里、東西は海に限られ、古の辰国だ。馬韓が最大で、種を立てて辰王とし、目支国に都し、三韓を王とする。諸国の王は馬韓種だ。


 馬韓人は田蠶を知り、緜布を作り、梨のような大栗、長五尺の尾の鶏が出る。邑落は雑居で、城郭はない。土室は冢の形で、戸は上にある。跪拜せず、長幼男女の別がない。金宝や錦罽を貴ばず、牛馬に乗らず、瓔珠を衣に綴り、頸や耳に垂れる。魁頭露紒で布袍、草履だ。人は壮勇で、少年は室を築き力作し、繩で脊皮を貫き、大木で縋り、嚾呼で健さを示す。五月に田が終わり、鬼神を祭り、昼夜酒会し、歌舞し、数十人が蹋地で節を取る。十月に農功が終わり、同様だ。国邑は一人を天君とし、天神を祭る。蘇塗を立て、大木に鈴鼓を懸け、鬼神を事える。南界は倭に近く、文身する者もいる。


 辰韓の耆老は秦の亡人が苦役を避け、韓国に来たとし、馬韓が東界を割いたと言う。国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴と呼び、秦語に似るので秦韓とも呼ばれる。城柵や屋室がある。小邑は渠帥が治め、大は臣智、次に儉側、樊秖、殺奚、邑借だ。土地は肥美で五穀に適し、蠶桑を知り、縑布を作り、牛馬に乗る。嫁娶は礼で、行者は路を譲る。鉄が出て、濊、倭、馬韓が市する。貨易は鉄だ。歌舞、飲酒、鼓瑟を好む。子の頭を扁平にし、石で押す。


 弁辰は辰韓と雑居し、城郭や衣服は同じだが、言語や風俗は異なる。人は長大で、美髪、衣服は清潔、刑法は厳峻だ。倭に近く、文身する者もいる。


 初め、朝鮮王準は衛満に破られ、余衆数千で海に入り、馬韓を破り、韓王となった。準が滅び、馬韓人が辰王となった。建武二十年、韓人廉斯人の蘇馬諟らが楽浪に貢献した。光武は蘇馬諟を漢廉斯邑君に封じ、楽浪郡に属させ、四時に朝謁した。霊帝末、韓や濊が盛んになり、郡県は制せず、百姓は乱に苦しみ、韓に流亡した。


 馬韓の西、海島に州胡国がある。人は短小で髡頭、韋衣を着、上下がない。牛豕を養い、船で韓に行き、貨市する。


 倭は韓の東南大海中、山島に住み、百余国ある。武帝が朝鮮を滅ぼし、三十国余りが漢に通じた。国は王を称し、世々伝統する。大倭王は邪馬台国に住む。楽浪郡徼から一万二千里、その西北界の拘邪韓国から七千余里だ。会稽東冶の東、朱崖や儋耳に近く、法俗は似る。


 土は禾稻、麻紵、蠶桑に適し、縑布を織る。白珠、青玉、丹土が出る。気は温暖で、冬夏に菜茹が生じる。牛馬、虎豹、羊、鵲はない。矛、楯、木弓、竹矢、骨鏃が武器だ。男子は黥面や文身で、左右大小で尊卑を別ける。男は横幅を結束し、女は被髪屈紒、単被を貫頭で着る。丹朱で身を塗り、中国の粉のようだ。城柵や屋室があり、父母兄弟は別居、男女の会同は無別だ。手で飲食し、籩豆を使う。徒跣で、蹲踞が恭敬だ。酒を好み、百余歳まで寿考が多い。国は女子が多く、大人は四五妻、後は二三妻だ。女は淫せず妒しない。盗窃や争訟が少なく、犯法者は妻子を没し、重罪は門族を滅ぼす。死者は十余日停喪し、家人は泣き、酒食をせず、他は歌舞で楽しむ。骨を灼き、吉凶を卜する。海を渡る時、一人が不櫛沐、不食肉、不近婦人で、「持衰」と呼ぶ。吉利なら財物を雇い、病疾や害なら持衰の不謹とし、殺す。


 建武中元二年、倭奴国が朝賀し、使者は大夫と自称し、倭国の極南だ。光武は印綬を賜った。安帝永初元年、倭国王帥升らが生口百六十人を献じ、見を願った。


 桓帝や霊帝の間、倭国は大乱で、相攻伐し、歴年無主だった。女子卑弥呼は年長で未婚、鬼神道を事とし、妖で衆を惑わし、共立されて王となった。侍婢は千人、男子一人が飲食を給し、辞語を伝えた。宮室楼観や城柵は兵で守られ、法俗は厳峻だ。


 女王国から東に海を渡り千余里で拘奴国、倭種だが女王に属さない。女王国から南四千余里で朱儒国、人の長さは三四尺だ。朱儒から東南に船で一年、裸国や黒歯国に至り、使驛はここで終わる。


 会稽海外に東鯷人、二十余国がある。夷洲や澶洲もある。伝は言う、秦始皇が方士徐福に童男女数千人を遣わし、海に入り蓬萊神仙を求めたが得ず、徐福は誅を恐れ還らず、此洲に止まり、世々続き、数万家となった。人々は時に会稽に市に来る。会稽東冶県の人が海で風に遭い、澶洲に流れ着いた。所在は遠く、往来はできない。


 論は言う。昔、箕子は衰殷の運を避け、朝鮮に去った。国俗は知られなかったが、八条の約を施し、禁を知らせ、邑に淫盗がなく、門は夜閉じなかった。頑薄な俗を広い法に変え、数百千年続き、東夷は柔謹を風とし、三方と異なる。政が暢なら道義が存する。仲尼は憤り、九夷に住めるとした。陋と疑う者も、子は言った、「君子が居れば、何が陋か」これに因る。後、商賈を通じ、上国と交わり、燕人衛満が風を雑じ、澆異した。老子は言う、「法令が増え、盗賊が多くなる」箕子の省簡な文条と信義は、聖賢の作法の原だ。


 贊は言う。嵎夷に住み、暘谷と名付く。山に巣作り海に潜み、九族を区す。嬴末は紛乱、燕人が難を避けた。華を雑じ本を澆し、漢に通じた。偏遠の訳は、従うも叛くも。

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