急いで作成した硬い文章で読みにくい!

➀『漢書』卷二十八/地理志第八下 燕地


参考:『漢書』卷二十八/地理志第八下 燕地

https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/001_kanjo.html


 燕地は、尾箕の分野である。武王が殷を定め、召公を燕に封じた。その後36世を経て、六国と並び王を称した。東に漁陽、右北平、遼西、遼東、西に上谷、代郡、雁門、南に涿郡の易、容城、范陽、北新城、故安、涿県、良郷、新昌、及び勃海の安次があり、みな燕の分地である。楽浪、玄菟もまた燕に属すべきである。


 燕は10世にわたり王を称した。秦が六国を滅ぼそうとしたとき、燕王太子丹は勇士荊軻を遣わし、西で秦王を刺させたが、成らず誅された。秦は遂に兵を挙げ、燕を滅ぼした。


 薊は南で斉・趙と通じ、勃碣の間に一大都会である。註01-01: 初め、太子丹は勇士を賓客として養い、後宮の美女を惜しまなかった。民はこれを俗とし、今もなお然り。賓客が相過ち、婦を宿に侍らせ、嫁娶の夕に男女の別なく、反ってこれを栄とする。後に稍々止んだが、終に改まらず。その俗は愚悍で思慮が少なく、軽薄で威厳がない。だが長所もあり、人の急を敢えて助ける。これは燕丹の遺風である。


 上谷から遼東は、地広く民少なく、しばしば胡寇に侵された。俗は趙・代に類し、魚・塩・棗・栗の豊饒がある。北は烏丸・夫余に隙間、東は真番の利を賈う。


 玄菟、楽浪は武帝の時に置かれた。みな朝鮮、濊貉、句麗の蛮夷である。殷道が衰え、箕子は朝鮮に去り、民に礼義を教え、田作・養蚕・織作を施した。楽浪朝鮮の民は八条の禁を犯す。相殺は即時に殺で償い、相傷は穀で償う。相盜は男をその家の奴に没し、女は婢とする。贖いたい者は一人50万(銭)。民となっても、俗はこれを羞じ、嫁娶に讎無し。故に民は終に相盜せず、門戸を閉じず、婦人は貞信で淫辟しない。その田民は飲食に籩豆を用い、都邑は吏や内郡の賈人を頗る仿効し、杯器で食す。郡は初め遼東から吏を取り、吏は民が蔵を閉じないのを見、賈人が往けば夜に盜をなし、俗は稍々薄れた。今、犯禁は60余条に増えた。貴い哉、仁賢の化なり。然れど東夷の天性は柔順、三方外と異なる。故に孔子は道が行われず、海に浮かび九夷に居んと欲した、理あり。楽浪海中に倭人あり、百余国に分かれ、歳時に来たり献見すと云う。


 東夷(東方の異民族)は生まれつき柔順な性質を持ち、他の三方(西・南・北の異民族)とは異なる。そのため、孔子は道(儒教の教え)が世に行われないことを嘆き、もし海に船を浮かべて旅に出るなら、九夷(東夷の地)に住みたいと考えた。それには理由があるのだ! 楽浪郡の海中に倭人が住んでおり、百余りの国に分かれ、季節ごとにやって来て朝貢すると言われている。



参考:山海經卷十二/海內北經

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 海内の西北の隅から東にいたる。

 蛇巫の山の上に人がおり、杯を手に東を向いて立つ。一名、亀山。西王母は几を梯り、勝杖を戴く。その南に三青鳥あり、西王母のために食を取る。崑崙虚の北に人がおり、大行伯と曰い、戈を把つ。その東に犬封国あり。貳負の尸は大行伯の東にある。

 犬封国は、犬戎国ともいう。状は犬の如し。一女子あり、跪いて柸食を進める。文馬あり、身は縞、鬣は朱、目は黄金の如く、名は吉量、乗れば寿千歳。

 鬼国は、貳負の尸の北にあり、人面で一目なり。一説に、貳負神はその東にあり、人面蛇身の物なり。

 蜪犬は、犬の如く青色、人の首から食う。

 窮奇は、状は虎の如く翼あり。人の首から食い、食われた者は髪を被る。蜪犬の北にある。一説に、足から食う。

 帝堯台、帝嚳台、帝丹朱台、帝舜台は各二台、台は四方、崑崙の東北にある。

 大蠭は、状は螽の如し。朱蛾は、状は蛾の如し。蟜は、人で虎文、脛に□あり、窮奇の東にある。一説に、人に似て、崑崙虚の北にあり。

 闒非は、人面で獣身、青色。

 据比の尸は、人で頸折れ髪を被り、一手を無くす。

 環拘は、人で獣首人身。一説に、蝟の如く狗に似て黄色。

 袜は、物で人身黒首、目から従う。

 戎は、人で人首三角。

 林氏国に珍獣あり、大は虎の如く、五彩備わり、尾は身より長く、名は騶吾、乗れば日行千里。

 崑崙虚の南に氾林あり、方三百里。

 従極の淵は、深さ三百仞、維れ冰夷そこに恒に都す。冰夷は人面で両龍に乗る。一名、忠極の淵。陽汙の山、河そこに発す。凌門の山、河そこに発す。

 王子夜の尸は、両手、両股、胸、首、歯、皆断れて異處にあり。

 舜の妻登比氏は、宵明、燭光を生む。河大沢に処し、二女の霊は方百里を照らす。一名、登北氏。

 盖国は、鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。

 朝鮮は、列陽の東、海の北、山の南にある。列陽は燕に属す。

 列姑射は、海河洲中にあり。姑射国は海中にあり、列姑射に属す。西南に山環あり。大蟹は海中にあり。

 陵魚は、人面で手足あり、魚身、海中にあり。

 大鯾は、海中に居る。

 明組邑は、海中に居る。

 蓬萊山は、海中にあり。

 大人之市は、海中にあり。



参考:衡第八卷/儒增篇第二十六

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 儒家の書は言う、「堯と舜の徳は最高で最大、天下は太平で、一人も刑罰を受けなかった」また言う、「文王と武王の盛時は成王と康王に受け継がれ、40年以上刑罰を使わなかった」これは堯と舜を称え、文王と武王を褒めるためだ。言葉を盛らなければ美が足りず、文を厚くしなければ功績が称えられない。堯と舜が優れていても、一人も刑しないのは不可能だ。文王と武王が盛んでも、刑罰を全く使わないのは無理だ。犯罪者が少なく、刑罰が滅多に使われなかったと言うなら分かる。でも、一人も刑せず、刑罰が全く不要だったというのは誇張だ。


 一人が刑を受けないなら、一国も伐たれない。刑罰が不要なら、兵も使われない。でも、堯は丹水を伐ち、舜は有苗を征伐し、四子(驩兜、共工、三苗、鯀)が罪を受けて刑罰と兵が使われた。成王の時代、四国が叛き、淮夷や徐戎が害をなした。刑罰は刀を使い、征伐は兵を使う。罪人は法で罰し、敵は武力で討つ。武力と法は違いなく、兵と刀は同じだ。巧みな論者はこれを分けられない。徳が劣れば兵を使い、法を犯せば刑を施す。刑と兵は足と翼のようなものだ。走るのは足、飛ぶのは翼、形は違っても体の動きは同じだ。刑と兵は民を禁じ邪を防ぐ、実は同じだ。兵が使われず刑が施されないと言うのは、耳が欠け目が整った人が体が完全だと称するようなもので、受け入れられない。虎を刺すのに人を恐れる者が、虎を刺して勇者だと称するのは聞けない。体に欠損がなく、勇気が進むことを欠かさなければ、本当に完全だ。今、「一人も刑しない」と称し、兵が不要とは言わない。「刑罰が不要」と褒め、一人も叛かないとは言わない。優れているとも盛んとも言えない。


 儒家の書は言う、「楚の養由基は射術が上手で、楊の葉を射て百発百中だった」これは射の巧さを称える。時に一枚の楊の葉を射て当てるなら分かる。百発百中は誇張だ。


 一枚の楊の葉を射て当てれば、一、二回で葉は破れ、撃てなくなる。葉を樹に懸けて射れば、葉を狙わなくても繁茂で自然に当たる。楊の葉を一つずつ取り換えて射つなら、数十回で巧さが示せる。射を見る人も射手の技を知り、百には至らない、明らかだ。事柄を美化する者は、数十の命中を百と盛る。百や千は数の大きいものだ。実は十を百、百を千とする。「万邦を協和」「子孫千億」と同じ意だ。


 儒家の書は言う、「衛の忠臣弘演は、哀公の使者として出かけ、戻らぬ間に狄人が哀公を殺し、肉を食い肝を捨てた。弘演が戻り、肝に命を捧げ、哀公の死を悼み、肉が尽きた。肝は付ける所なく、刀で腹を裂き、腹の内容物を出し、哀公の肝を入れて死んだ」これは忠義を称える。腹を裂き哀公の肝を入れて死ぬなら分かる。腹の内容物を全部出して肝を入れるのは誇張だ。


 刃で刺せば五臓に当たり即死する。なぜなら、五臓は気の中心、頭は脈の集まる所だ。頭が切られても、他人の頭を首に付けられない。どうやって腹の内容物を先に出し、哀公の肝を入れるか。腹の内容物を出すと即死し、手は動かせない。哀公の肝を先に入れ、内容物を出すなら、「肝を入れ、内容物を出す」と書くべきだ。今「全部内容物を出し、肝を入れる」「全部」と言い、実は誇張だ。


 儒家の書は言う、「楚の熊渠子は、寝石を伏虎と思い、弓で射て矢が衞に没した」または「養由基が寝石を兕と思い、射て矢が羽を飲んだ」または「李広」と。熊渠、養由基、李広は名前が疑わしく、実在しない。虎や兕、兕と虎は共に猛獣で同じだ。没衞や飲羽は、羽が衞で、言葉が違うだけだ。寝石が虎や兕に似て、恐れで力を込め、射て深く入る。寝石を虎と思い、射て矢が入るなら分かる。没衞は誇張だ。


 虎に似たものを見て虎と思い、弓を張り力を込めれば、本物の虎と変わらない。似虎の石を射て矢が没衞なら、本物の虎を射て矢は貫通するか。石は射ち難く、肉は射ちやすい。難射で没衞なら、易射は貫通、疑いない。善射者は遠く微小な物を撃ち、毫釐も外さず、どうやって弓弩に力を加えるか。養由基は軍に従い、晋侯の目を射た。一介の者が万乗の君を射る、力は倍、寝石と同じだ。晋侯の目を撃つなら、項を貫通か。貫通なら晋侯は死ぬ。十石の弩でも恐らく一寸入らず、矢は三つ折れる。まして人の力、弱い弓、精誠を込めても没衞できない。人の精は気、気は力だ。水火の難で、恐れで器物を動かし、精誠があっても、一石を挙げる者は二石を倍で挙げる。伏石を射て、精誠が倍でも一寸入るだけ、どうやって没衞か。剣を使う者が寝石を見て恐れ斬る、断石と言えるか。勇者が空拳で虎を殴り、寝石を手で叩く、石に跡か。巧人の精は拙人と等しく、古人の誠は今人と同じだ。今の射手が禽獣を射て、欲で力を尽くしても、獣に当たるのは数寸だ。誤って石に当たり、鋒は入らず、矢は折れる。だから、熊渠子、養由基、李広の寝石射ち、矢の没衞や飲羽は皆誇張だ。


 儒家の書は言う、「盧般や墨子の巧みさで、木を刻み鳶を作り、三日飛んで集まらなかった」木で鳶を作り飛ぶなら分かる。三日集まらないのは誇張だ。


 木を刻み鳶の形にしても、どうやって飛んで集まらないか。飛べるなら、どうして三日に至るか。仕掛けがあれば一飛で翔り、降りられなければ「遂に飛ぶ」と言うべきで、「三日」と言うべきでない。世の伝は言う、「盧般の巧みさで、母を亡くした」巧工が母に木の車馬、木人御者、仕掛けを備え、母を載せ、一駆けで戻らず、母を失った。木鳶の仕掛けが木車馬と等しければ、遂に飛んで集まらない。仕掛けは一瞬で、遠く三日を超えず、木車も三日で止まり、去って母を失わない。二つは必ず事実を失う。


 書は言う、「孔子は世に容れられず、七十余国を巡り遊説したが、安住を得なかった」巡って遇われないなら分かる。七十国は誇張だ。


『論語』や諸子の書で、孔子は衛から魯に帰り、陳で食糧が尽き、衛で跡を削られ、斉で味を忘れ、宋で樹を伐られ、費と頓牟を並べても十国に至らない。伝の七十国は事実でない。あるいは十数国か、七十の説は文書が伝え、七十国と言った。


『論語』で、孔子が公叔文子を公明賈に問う、「本当か、先生は言わず、笑わず、取らないか」公明賈は答えた、「言う者は間違っている。先生は時宜で話し、人はそれを嫌わない。楽しんで笑い、人はそれを嫌わない。義で取り、人はそれを嫌わない」孔子は言った、「そうか、そうか」公叔文子は時宜で話し、笑い、義で取る、人が伝え称える。言わず、笑わず、取らないのは俗説の誇張だ。


 書は言う、「秦の繆公が鄭を伐ち、晋を通過するのに道を借りず、晋の襄公が羌戎を率いて崤塞で迎撃し、匹馬隻輪も帰らなかった」当時、秦は三大夫、孟明視、西乞術、白乙丙を遣わし、皆帰還した。三大夫が帰れば、車馬も帰る。文の「匹馬隻輪も帰らない」は事実を盛る。


 書は言う、「斉の孟嘗君、魏の信陵君、趙の平原君、楚の春申君は士や賓客を厚く遇し、四方から招き、各三千人だった」士が集まり、多く来たと言うなら分かる。三千は誇張だ。


 四君は士を好み、士は多くても各千余人だ。書は三千とする。衆は千数、少なければ一つもない、世俗の情で、事の誤りだ。


 伝記は言う、「高子羔が親を亡くし、三年泣血して歯を見せなかった。君子はこれを難しいとする」難しいのは理由がある。非実でなく難しいとし、君子の言は誤る。高子の泣血は本当だ。なぜなら、荊和が楚に宝を献じ、足を刖られ、宝が進まず、情が届かず、涙尽きて血が随う。今、高子が親を悼み、哀極で涙尽き、血が随う、これは本当だ。三年歯を見せないのは誇張だ。


 歯を見せないは、言わず笑わないを言う。孝子が親を亡くし笑わないのは分かる。どうして言わないか。話せば歯が見えないか。孔子は言った、「言は文でなく」あるいは言わず、伝は歯を見せないとする。あるいは三年歯を見せないとする。高宗は諒陰で三年言わず。天子が言わないも、文は「不言」と疑う。まして高子は位が賤く、「歯を見せない」は必ず誇張だ。


 儒家の書は言う、「禽息が百里奚を薦め、繆公が聞かず。禽息は門を出て頭を叩き、首を砕いて死に、繆公が痛み、百里奚を用いた」賢者が善を薦め、死を惜しまず、頭を叩き首を砕いて死に、友を達する。世の士は相激し、文書は伝え、否定しない。頭を叩いて薦めるのは古今ある。禽息の頭叩きは本当だ。首を砕いて死ぬのは誇張だ。


 人が頭を叩けば、痛み血が流れ、忿恨や恐れでも首は砕けない。首が砕れず、人力で自ら砕けない。刃で首を刎ね、鋒で胸を刺す、鋒刃の助けで手足が成す。禽息が椎で自撃し、首が砕けるは疑わしい。頭を叩いて死はあるが、頭破れ首砕けない。当時頭を叩き百里奚を薦め、世は空しく死を言った。あるいは頭を叩いて死に、世は空しく首砕と言った。


 儒家の書は言う、「荊軻が燕太子のために秦王を刺し、匕首の剣を操り、刺せなかった。秦王が剣を抜き撃つ。荊軻は匕首を投げ、秦王に当たらず、銅柱に当たり、尺入った」匕首の鋭さ、荊軻の勢い、鋭い刃を投じ、堅い柱に陷る、荊軻の勇を称し、事を盛る。銅柱に入るのは本当、尺入るのは誇張だ。


 銅が匕首に堅くなくても、数寸入るだけ、尺は無理だ。尺入るなら、秦王に当たれば匕首は貫通か。十石の弩で垣木の表を射っても、尺入らない。荊軻の手力、軽い匕首、龍淵の剣刃を受け、堅い銅柱に入るは、荊軻の力が十石の弩に勝り、銅柱の堅さが木の表に劣るか。世は荊軻の勇を称し、多力を言わない。多力なら孟賁だ。孟賁が銅柱を投げ、尺貫通か。あるいは匕首は干将莫邪のよう、刺無前、撃無下、尺入る効。干将莫邪も過実だ。刺撃無前下も、銅柱尺入る類だ。


 儒家の書は言う、「董仲舒は『春秋』を読み、専心一志、他に心なく、三年園の菜を見なかった」園の菜を見ないのは本当、三年は誇張だ。


 董仲舒は精魂を傾けても、時折休息する。休息の間、門庭の側を歩き、門庭に至ればどうして園の菜を見ないか。精魂は物を察せず、道に心あれば身を忘れ、門庭に至らない、坐して三年、園を見ない。『尚書』毋佚は言う、「君子は逸楽を好まず、稼穑の艱難を先に知り、逸楽する」人の筋骨は木石でなく、休息が必要だ。張り詰めて緩めず、文王はしない。緩めて張らず、文王は行わない。一張一緩が文王の常だ。聖人でも緩張の時がある。董仲舒の才は聖人に劣り、どうして三年休まないか。


 儒家の書は言う、「夏の盛時、遠方から物を図り、九牧が金を貢ぎ、鼎を鋳て物を象り備えた。山沢に入っても悪物に逢わず、神奸を避けた。上下が調和し、天の休福を受けた」


 金の性は物だ。遠方からの貢は美しく、鼎を鋳て百物の奇を象る。どうやって山沢で悪物に逢わず、神奸を避けるか。周の天下が太平でも、越裳が白雉を献じ、倭人が鬯草を貢いだ。白雉を食い、鬯草を服しても凶を除けない。金鼎の器、どうして奸を避けるか。九鼎は徳盛の瑞祥だ。瑞祥の物は福を呼ばない。男子は玉を、女子は珠を服す。珠玉は辟除できない。宝奇の物、蘭服や牙身、あるいは有益と言う、九鼎も同じだ。九鼎は辟除できず、伝は神奸を避けると、書は文を盛る。


 世俗は言う、「周の鼎は煮ず自ら沸き、物を投じず物自ら出る」世俗は言を盛る。儒書は文を盛る、九鼎を怪無く神とする。周鼎の神をどうやって確かめるか。周鼎の金は遠方から貢ぎ、禹が鼎を鋳った。鼎に百物の象がある。遠方の貢が神か、遠方の物がどうして神か。禹の鋳が神か、禹の聖は神でなく、聖人の身が神でなく、鋳器がどうして神か。金が神か、金は石の類、石は神でなく、金がどうして神か。百物の象が神か、百物の象は雷樽だ。雷樽は雲雷の形を刻画、雲雷は天で神、百物の象はどうして神か。


 伝は言う、「秦が周を滅ぼし、九鼎が秦に入った」本当は、周赧王の時、秦昭王が将軍摎を遣わし、赧王を攻めた。赧王は恐れ、秦に奔り、罪を受けて邑三十六、口三万を献じた。秦は献を受け、赧王を帰した。赧王が卒し、秦王が九鼎宝器を取った。だから、九鼎は秦にある。


 始皇28年、北で琅邪を游び、彭城を過ぐる時、斉戒祷祠し、周鼎を出そうとした。千人が泗水に潜り、求め得なかった。当時、昭王から三世で始皇帝、秦に危乱なく、鼎は亡魂でない、亡は周の時だ。伝の「赧王奔秦、秦取九鼎」は誤りかもしれない。また伝は言う、「宋の太丘社が亡、鼎は彭城下の水中に没した。後29年、秦が天下を併せた」だから、鼎はまだ秦に入っていない。周が去り、まだ神でない。


 春秋の時、宋に五石が隕落した。五石は星、星が天を去るは鼎が地を亡す。星が去っても天は神でなく、鼎が亡魂でも地は何が神か。春秋の時、三山が亡、太丘社が去り、五星が天を去った。三山亡、五石隕、太丘社去、皆自ずからの為だ。鼎の亡魂も応あり。亡魂故に神と言えず。鼎と秦や三山が同じなら、亡魂は神でない。有知で危乱を避けるなら、桀紂の時だ。衰乱無道は桀紂に過ぐ。桀紂の時、鼎は亡魂でない。周の衰乱は桀紂に劣る。無道の桀紂に留まり、衰末の周で去るのは神有知の証でない。あるいは周亡時、将軍摎や人衆が鼎を盗み、奸人が鋳て他器にし、始皇が求め得なかった。後で神名を言い、泗水没の話が空しく生じた。


 孝文帝の時、趙人新垣平が上言した、「周鼎は泗水に亡魂。今、河が溢れ、泗水に通じる。臣が東北を望むと、汾陰直に金気、鼎が出る。兆を見ず迎えなければ至らない」文帝は使者を遣り、汾陰南の河辺に廟を治め、鼎祠を行った。人々が上書し、新垣平が神器を詐欺したと告げ、平を吏に下した。吏が治め、平を誅した。鼎泗水の言は、新垣平が神気を見たと詐欺したのだ。



参考:第十三卷/超奇篇第三十九

https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/022_ronkou.html


 書物を千篇以上万巻以下に読み、ゆったりと丁寧に内容を理解し、文章を正確に定め、教えて人の師となるのが通人だ。書の意味を解き明かし、文を増減し、奏書や記録に使い、論を興し説を立て、篇章を連ねるのが文人や鴻儒だ。学問を好み努力し、広く聞き強く記憶するのは世に多い。でも、書を著し文章を表し、古今を論説するのは万に一つもない。だから、書を著し文章を表すのは博学な通人ができることだ。山に入り木を見て長短を知り、野に入り草を見て大小を識る。でも、木を伐って家を作れず、草を採って薬を調合できない。これは草木を知っても使いこなせないのと同じだ。通人が広く博学でも、論説にまとめられなければ、書を隠す主人と変わらない。孔子が「詩三百を誦しても、政を授けるに達しない」と言ったのと同じで、草木を伐採できないのと一緒だ。孔子は史記を得て『春秋』を作り、義を立て意を創り、褒めたり貶したり、賞したり誅したり、史記に頼らず、深い思索が胸中から出た。通人を貴ぶのは、その使いこなしを貴ぶのだ。ただ誦読し、詩を読み技を諷しても、千篇以上は鸚鵡の言葉に似る。書の意を広げ、豊かな言葉を出せても、傑出した才がなければ務まらない。広く見るのは世に多いが、文章を著すのは歴史上稀だ。近世の劉子政父子、楊子雲、桓君山は、文武や周公が一時に並ぶようなものだ。その他はわずかで、珠玉の得がたいのに似て、珍しい。だから、一経を説く者を儒生、博く古今を通じる者を通人、文章を採り奏書や記録に用いる者を文人、精緻に思索し篇章を連ねる者を鴻儒と呼ぶ。儒生は俗人を、 通人は儒生を、文人は通人を、鴻儒は文人を超える。だから鴻儒は超えてまた超える存在だ。超奇の才は、儒生と比べれば、文軒と粗末な車、錦繡と粗衣の差、遠く離れている。俗人と比べれば、泰山の頂と平地、長狄の首と足、たとえでは足りない。丘や山は土石を体とし、銅や鉄はその奇だ。銅や鉄がすでに奇なら、時には金や玉が出る。鴻儒は世の金や玉、奇にしてまた奇だ。奇にしてまた奇、才は互いに超え、みな品格に差がある。


 儒生は儒門で名を説き、俗人を大きく超える。あるいは一経を説かず、後生を教える。あるいは弟子を集め、論説が溢れ、経に明るいと称される。あるいは文書を作らず、一説も治めない。あるいは得失を述べ、便宜を奏し、言葉は経伝に合い、文は星月のように輝く。高第の谷子雲、唐子高は、書を奏書に説くが、篇章を連ねない。あるいは古今を並べ、行事を記録し、司馬子長、劉子政の類は、篇を積み重ね、文章は万を数え、子雲、子高を大きく超える。でも、前に基づき、胸中の創造はない。陸賈、董仲舒は世事を論説し、意から出て外に頼らず、だが浅く見えやすく、読む人は伝記と見なす。陽成子長は「楽経」、楊子雲は「太玄経」を作り、深い思索で創り、奥深い境地を極め、傑出した才がなければ成せない。孔子は『春秋』、二子は両経を作り、抜きんでて孔子の跡を踏み、盛大に二聖の才に並ぶ。王公子が桓君山に楊子雲を問うた。君山は答えた、「漢興以来、こんな人はいない」君山の才の差は高下を正しく得た。玉を採る者は玉を羨み、亀を鑽る者は亀の神を知る。衆儒の才を分け、高下を重ね、賢は重ねて勝る。「新論」を作り、世事を論じ、然否を明らかにし、虚偽の言を正す。子長、子雲の論説の類で、君山はトップだ。君山以来、みな鴻儒の才、素晴らしい文がある。筆は文を著し、心は論を謀る。文は胸中から出て、心は文を表す。文を見て、奇偉で傑出し、論を得たと感じる。繁文の人は人の傑だ。


 根や株は下に、栄や葉は上に、実や核は内に、皮や殻は外にある。文や論説は士の栄や葉、皮や殻だ。実誠は胸に、文や墨は竹帛に著す。外内表裏、互いに称する。意が奮い筆が縦に、文が現れ実が露れる。人の文は禽の毛だ。毛は五色、体に生じる。文に実がなければ、五色の禽の毛は妄りに生じたようなものだ。射を選ぶは心が平で体が正、弓矢が確かで、だから当たる。論説の出は弓矢の発射だ。論の理が応じるは矢の命中だ。射は命中の巧、論は文の奇だ。奇巧は心から発し、実が同じだ。文は深い指針や大略、君臣の治術、身で行えず、口で漏らせず、情や心を表し、己の能を示す。孔子は『春秋』で王意を示す。『春秋』は素王の業、諸子の伝書は素相の事だ。『春秋』に王意を見、諸子に相の指針を見る。陳平の割肉は丞相の端、叔孫敖の決期思は令君尹の兆だ。伝書の文を読み、治道や政務は、ただ割肉や決水の占ではない。足が強くないなら跡は遠く、鋒が鋭くないなら割は深くない。篇章を連ねるのは、大才や知恵、鴻懿の俊だ。


 ある人は言う、著書する人は博学多聞、学問に熟練し、類を推し文を興す。文は外から興り、必ずしも実才や学が文と一致しない。浅い意は華やかな言、根や核の深さなく、大道や体要を見ず、功を立てる者は稀だ。安危の際、文人は関わらず、功を立てられず、ただ筆や説の効だ。だが、それは違う。周の著書は権謀の臣、漢は直言の士、通覧の吏だ。文は華やかな葉でなく、根や核を推す。心思は謀、集めた筆は文、情は言葉に見え、意は言に験る。商鞅は秦を相とし、覇に功をなし、「耕戦」を作る。虞卿は趙で計説を定め、退いて『春秋』の思を起こし、趙城中の議を興す。耕戦は秦堂上の計、陸賈は呂氏の謀を消し、「新語」と同じ意だ。桓君山は晁錯の策を変え、「新論」と同じ思だ。谷永の陳説、唐林の宜言、劉向の切議は知を本とし、筆墨の文は送るもの、飾り言葉の華葉でない。精誠は中から、だから文は人を深く感じさせる。盧連の飛書で燕将が自殺、鄒陽の上疏で梁孝王が牢を開けた。書や文の義は肝心を奪い、博学や熟練の所能でない。鴻儒は稀、文人は多い、将や相、長吏、どうして貴ばないか。才力を使い、書牘に文を游ばせるだけでなく、州郡の憂いを解き、章奏を治め、煩を解き、州郡を連ねる。唐子高、谷子雲の吏は、身を出し思を尽くし、筆牘の力を竭くし、憂いを解かぬことはない。


 古昔は遠く、四方が隠れ、文や墨の士は記録が難しい。近世の会稽に、周長生、文士の雄がいた。州にいると刺史任安に奏を挙げ、郡にいると太守孟観に書を上、事を解き憂いを除き、州郡は無事、二将は全うした。長生の身は尊顕でなく、才知は少なく、功力は薄くない。二将は俗人の節、どうして貴ばないか。燕昭に遇えば、長生は鄒衍の寵を受ける。長生死後、州郡は憂いに遭い、奏を挙げる吏なく、事が解けず、征相が続き、文軌は尊ばれず、筆疏は続かず。憂いを上にする吏がいないわけでないが、文中や筆は足りない類だ。長生の才は、書牘に鋭いだけでなく、「洞歴」十篇、黄帝から漢朝、鋒芒や毛髪の事まで記録、太史公の表紀に似る。上通下達、だから「洞歴」だ。長生は文人だけでなく、鴻儒だ。前世に厳夫子、後に呉君高、末に周長生。白雉は越に貢ぎ、暢草は宛に献じ、雍州は玉、荊楊は金だ。珍物は四遠幽遼に産し、奇人はいないと言えない。孔子は言った、「文王が没しても、文はここにないか」文王の文は孔子、孔子の文は董仲舒。仲舒が死に、長生の類か。どうして抜きんで、文の美麗か。唐勒、宋玉は楚の文人、竹帛に紀されず、屈原はその上だ。会稽の文才、独り周長生でない。未だ論列されないが、長生は特に超える。九州に山は多く、華や岱は岳、四方に川は多く、江や河は瀆、華岱は高く、江河は大きい。長生は州郡の高大だ。同姓の伯賢、他族の孟を捨てて誉める、未だ得ない。長生は文辞の伯、文人の共宗、独り記録、『春秋』記元の魯の義だ。


 俗は古を好み、聞こえを称える。前人の業は菜果の甘甜、後人の新造は蜜酪の辛苦。長生は会稽に生まれ、今世に生き、文章は奇でも、論者は前人に劣るとする。天は元気、人は元精、古今に差はない。優れた者は高く、明は上だ。実事の人は然否を見、是を推し今を進め古に、心明知昭、俗に惑わない。


 班叔皮は太史公の書を百篇以上続け、事は詳しく、義は浅く理は備わる。読む人は叔皮を甲、太史公を乙とする。子男孟堅は尚書郎、文は叔皮に非ず五百里、周召や盧衛の謂だ。古を高くすれば、班氏父子は紀すに足りない。周に郁郁の文、百世の末。漢は百世後、文論辞説、どうして茂くないか。小を以て大を喻せば、民家の事、王廷の義を見る。廬宅が始まり、桑麻が有り、歳を重ね、子孫が続き、桃李梅杏、菴丘が野を蔽う。根茎は多く、華葉は繁茂だ。漢氏の治定は久しく、土は広く民は多い、義は興り事は起こり、華葉の言、どうして繁茂でないか。華と実は共に成り、華なく実は稀だ。山が禿なら何が茂く、地が瀉なら何が滋す。文章の人は漢朝を滋茂させ、漢家の熾盛の瑞だ。天が晏なら、列宿は煥炳、陰雨なら日月は蔽匿。文人が並び出るのは、漢朝明明の証だ。高祖は陸賈の書を読み、万年と歎じた。徐楽、主父偃は上疏し、郎中に徴された、今は聞かない。膳に苦酸の肴なく、口は甘えず、手は挙げない。詔書が下る毎に、文義は経伝四科、詔書は斐然、郁郁好文の明証だ。上書が実核でなく、著書に義指がなければ、「万年」の声、「徴拜」の恩、どうして発するか。飾面は皆好を欲し、目は希だ。文音は皆悲を欲し、耳を驚かすは寡い。陸賈の書が奏でられず、徐楽、主父の策が聞かれず、群諸の瞽言の徒、事は粗醜、文は美潤でなく、指さない。文辞が淫滑なら、濤沙の謫を受けず、幸いだ。どうして郎中の寵を受けるか。



参考:第十九卷/恢國篇第五十八

https://www.seisaku.bz/rekidai_waden/023_ronkou.html


 顔淵がため息をついて言った。「見上げれば高く、掘れば堅い」これは顔淵が孔子に学び、年月を重ねて道が深まったことを指す。漢を称える文章は、漢を周より高く評価し、漢が周を超えると論じるが、十分ではない。漢の素晴らしさを徹底的に論じれば、漢の卓越さがさらに明らかになる。経書を熟読すると奥深い妙が見え、国の素晴らしさを極めると驚くべき点が際立つ。漢を論じれば、百代の頂点に立つのは確かだ。何で証明できるか。黄帝は涿鹿で戦い、堯は丹水を征伐し、舜の時代は有苗が従わず、夏の啓は有扈が叛逆し、殷の高宗は鬼方を伐って三年で勝った。周の成王は管蔡が反乱し、周公が東征した。前の時代はみなそうだったが、漢にはそんな話はない。高祖の時代、陳狶や彭越が反したが、すぐに治世が安定した。孝景帝の時、呉楚が兵を起こしたが、晁錯への怨みだった。匈奴は時折騒いだが、正朔は届かず、荒れ地はなく、王の功績は兵を用いず、今はみな内属して牛馬を献上する。これは漢の威勢が盛んで、誰も犯さないからだ。


 紂は極端な悪で、天下が叛いた。武王が兵を挙げると、皆戦いを望み、八百の諸侯が約束なく集まった。項羽は悪が軽く、号令で兵を動かし、高祖と同時期に起ち、力の軽重は定まらなかったが、項羽の力は強かった。鉄を折るのは木を壊すより難しく、高祖が項羽を倒したのは鉄を折るようなもの、武王が紂を伐ったのは木を壊すようなものだ。だから漢の力は周を大きく超える。敵を倒すのは一人が簡単で、二人は難しい。湯と武王は桀と紂を倒し、一人の敵だ。高祖は秦を滅ぼし項羽を殺し、二家に勝ち、力は湯と武王の倍だ。武王は殷の西伯として紂に仕え、臣が君を伐つのは夷斉が恥じ、馬を叩いて諫めたが、武王は聞かず、夷斉は周の粟を食わず首陽で餓死した。高祖は秦の臣でなく、光武は王莽に仕えず、悪を倒し無道を伐ち、伯夷の非難なく、周より正しい。


 丘や山は高く作りやすく、淵や沼は深くしやすい。微賤から起こり、拠る地位がないのは難しく、爵位を継ぐのは簡単だ。堯は唐侯から帝位を継ぎ、舜は司徒として堯から禅譲を受け、禹は司空として功績で舜を継ぎ、湯は七十里、文王は百里、武王は西伯として文王の位を継いだ。三皇五帝の興起は因縁があり、力は簡単だった。高祖は亭長から三尺の剣で天下を取り、光武は白水から威を振るい海内を平らげ、尺の土地も位も拠らず、天命を受けて自然に推した。これは淵や沼より高く、丘や山より深い。五帝と比べ、どちらが優れているか。


 伝書は言う、武王が紂を伐つ時、太公が陰謀を企て、子に丹を食わせて全身を赤くし、成長させて「殷が滅ぶ」と教え、殷の民は赤い子を天神と思い、「殷が滅ぶ」と聞いて商の滅亡を信じた。兵が牧野に至り、朝に脂燭を掲げ、詐欺で民を惑わし、権謀で不備を隠し、周が忌む、世は虚偽と呼ぶ。漢は天下を取るのに虚偽の言葉を使わなかった。『武成』の篇は言う、周が紂を伐ち、血が流れて杵を浮かべた。『武成』なら、丹の子や脂燭は本当かもしれない。漢が亡新を伐ち、光武は五千人を率い、王莽は二公に三万人を遣わし、昆陽で戦い、雷雨で暗闇になり、前後が見えなかった。漢兵が昆陽城を出て二公の軍を撃ち、一人が十人に当たり、二公の兵は散った。天下は雷雨が漢を助け敵に威を示したとされ、脂燭で人を騙して殷を取るより優れている。


 ある人は言う、「武王が紂を伐ち、紂は火に飛び込んで死に、武王は鉞で斬り首を大白の旗に懸けた」斉の宣王は釁鍾の牛を憐れみ、怯える姿を見た。楚の荘王は鄭伯の罪を赦し、肉袒の姿を見た。君子は悪を憎むが身を憎まず。紂の屍が火に飛び込み、凄惨な姿は怯えや裸体以上だ。鉞で斬り首を懸けるのは何と残酷か。高祖は咸陽に入り、閻楽が二世を殺し、項羽が子嬰を殺したが、高祖は穏やかに入り、二人の屍を害さなかった。光武は長安に入り、劉聖公が王莽を殺したが、兵に乗じて害せず、王莽を刃で斬らなかった。火中の首を斬るか、刃を受けた身を赦すか、徳と虐どちらが大きいか。羑里の恨みか。君が臣を拘するのは、秦が周国を奪い、王莽が平帝を毒殺する逆と比べどうか。鄒伯奇は桀紂の悪は亡秦に及ばず、亡秦は王莽に及ばないと論じた。紂の悪は軽く周は厳しく誅し、秦と王莽の罪は重く漢は軽く伐った。寛容さはどちらか。


 高祖の母が身籠もった時、蛟龍が上空に現れ、神と夢で出会い、酒を好み大いに飲み、酒屋に借金を重ね、酔って寝ると上に怪異が現れ、夜に蛇を斬ると蛇の老婆が悲しみ泣いた。呂后と田舎の家に行くと、高祖が隠れると光気が見え、呂后はそれを知った。始皇は東南に天子の気を見、起つと五星が東井に集まった。楚が漢軍を望むと、五色の雲気が現れた。光武が生まれると、鳳凰が城に集まり、嘉禾が屋に生えた。皇太后の身、夜半に燭なく空中が光った。最初、蘇伯阿が舂陵の気を望むと、鬱々と葱葱だった。光武が起こり、旧居を過ぐと、気が天に連なった。五帝三王の誕生や興起にこんな怪異はない。堯の母は赤龍に感じたが、起つ時に奇瑞はない。禹の母は慧苡を吞み、玄圭を得た。契の母は鷥子を飲み、湯は白狼が鉤を銜え、后稷の母は大人の足跡を踏み、文王は赤雀、武王は魚烏を得たが、漢の太平の瑞には及ばない。黄帝、堯、舜は鳳凰が一度来ただけだ。多くの瑞祥が重なるのは稀だ。漢文帝は黄龍、玉棓。武帝は黄龍、麒麟、連木。宣帝は鳳凰が五度、麒麟、神雀、甘露、醴泉、黄龍、神光。平帝は白雉、黒雉。孝明帝は麒麟、神雀、甘露、醴泉、白雉、黒雉、芝草、連木、嘉禾で、宣帝と同じ、奇に神鼎、黄金の怪。一代の瑞祥が絶えず続き、漢の徳が豊かで、瑞祥が多い。孝明帝が崩じ、今上帝が位を継ぎ、元和二年の間に嘉徳が広がった。三年、零陵に芝草五本が生えた。四年、甘露が五県に降った。五年、芝草が六本、黄龍が大小八つ現れた。前世は龍が双でなく、芝草は二つなく、甘露は一度降るだけだ。今、八龍が並び、十一の芝草が続き、甘露が五県に流れた。徳と恵が盛んで、瑞祥が夥しい。古の帝王で誰がこれを成したか。


 儒者は言う、「王者は道徳を広め、天命を受ける」論衡は初めに王者は生まれながら天命を受けると言う。性命は確かめ難く、両方を論じる。酒食の賜物は一度なら薄く、二度なら厚い。儒者の言うなら、五帝は一度天命を受け、漢だけ二度で、天命が厚い。論衡の言うなら、生まれは自然を受け、漢の受けたものが厚い。絶えて再び続き、死して復活する。世に死して生き返る人がいれば、神と呼ばれる。漢の統が絶えて再び続き、光武が存亡を救ったのは優れている。


 武王が紂を伐つ時、庸と蜀の夷が牧野で戦いを助けた。成王の時、越常が雉を献じ、倭人が暢草を貢いだ。幽王と厲王の衰微で、戎狄が周を攻め、平王は東に逃げて難を避けた。漢に至り、四夷が朝貢した。孝平帝元始元年に、越常が重訳で白雉一、黒雉二を献じた。成王の賢と周公の補佐で、越常は一。平帝は三だ。後、四年目に金城塞外で、羌の良橋種良願らが魚塩の地を献じ、内属を願い、西王母の石室を得て西海郡とした。周は戎狄に攻められ、漢は内属させ宝地を献じられた。西王母の国は極遠の外にあり、漢が属した。徳と領土、どちらが大きいか。今、哀牢、鄯善、諾婼が降伏し徳に帰し、匈奴は騒ぐも将を遣り討ち、捕虜千万を得た。夏の禹は裸で呉国に入り、太伯は薬を採り、断髪文身した。唐虞の国界では、呉は荒服、越は九夷、罽衣関頭だったが、今はみな夏服で、褒衣と履舄を着る。巴、蜀、越嶲、鬱林、日南、遼東、楽浪は、周の時は被髪椎髻だったが、今は皮弁を被る。周の時は重訳、今は詩書を吟じる。


『春秋』の義は、君親に叛く者なく、叛けば必ず誅する。広陵王荊は愛巫に迷い、楚王英は狭客に惑い、事情は明らかだ。孝明帝は三度赦し、二王は薬を飲んで死に、周の管蔡誅殺とは遠い。楚の外家許氏は楚王と謀議し、孝明帝は「許氏の民は王に属し、尊貴を望むのは人情」と、聖心で許し、法で縛らなかった。隠彊侯は市に書を懸け、聖政を誹謗した。今上帝は思を奪い、爵士を取り上げた。悪人を憎む者はその余も憎む。二王の子、安楚、広陵、彊の弟員を陰氏の祀に継がせた。二王は帝族、王侯で、管蔡と同じだ。管蔡は後を絶たれ、二王は後を立てられ、恩は大きい。隠彊は異姓だが、父祖を重んじ祀を存続した。武庚や禄父の恩に継ぐ義に劣る。共に帝王で、兵を挙げて相争い、天下を貪り、成湯の統を絶つのは聖君の義でなく、天の意を失う。隠彊は臣子、漢の統は自在、陰氏を滅しても義に損なわず、なお存続させたのは恵が深い。だから雨露の施しは、内に骨肉、外部族に注ぐ。唐の穏やかさ、舜の盛大さも、これを超えられない。驩兜の行い、靖言庸回、共工の私、堯に称薦された。三苗は巧佞、或いは罪の国。鯀は水を治めず、知力尽きた。罪は身にあり、上に及ばず。唐虞は放流し、不毛の地で死なせた。怨悪で上を謀り、叛逆を抱き、事を誤り国を害し将を殺す罪は、四子より重い。孝明帝は恩で辺に徙し、今上帝は恵で州里に帰した。開闢以来、これほど大きなことはない。


 晏子は言った、「鉤星が房心の間に現れ、地は動くか」地動は天の時で、政が原因でない。皇帝は恐れ、治政に帰し、賢良を広く求め、過失を問うた。高宗の側身、周成の開匱も、励めば及ぶ程度だ。穀が登り年が平らなら、凡庸な君主も因縁で徳政を立てる。危殆の時、聖哲の優れた者が功と化を立てる。軽い病なら普通の医者も巧み、重い病なら扁鵲が優れる。建初元年に無妄の気が来て、歳の疫病、連続の旱で雨が降らず、牛が死に民が流れたのは重い。皇帝は徳を厚くし、俊才が官にあり、第五司空が国の支えとなり、穀を運び振興し、民は飢えず、天下は徳を慕い、危うくても乱れなかった。民は穀に飢え、徳に満たされ、身は道に流れるが心は郷に帰し、道に盗賊の跡なく、深幽の地に劫奪の悪もない。危を安に、困を通じた。五帝三王で、誰がこれに耐えられるか。

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