2
開けた瞬間、むせるような薔薇の香りが周辺に漂った。
棺の中には真っ赤な薔薇が敷き詰められていたからだ。おかげで、血の生臭さなどが一切感じられなかったのは幸いだ。
その中に埋まるように横たわっていたのは、黒いタキシードを着た細身の男。身長は一八〇センチ近くありそうだ。黒髪をオールバックにし、二十代と思われる端正な顔は青白い。両目をつぶり、薄い唇にはかすかに微笑みすら浮かんでいた。ただしその端からは細く赤い筋がたれている。もちろんそれが血であることは明らかだった。
全身が太い鎖で巻き付けられていて、端部どうしを溶接したのか、つなぎ目がわからない。さらにそれとは別に、首、胴体、膝のあたりに鎖が掛けられ、その両端は棺の側面の板に金具でがっちりと固定されていた。つまりは完全に封印された格好となり、たとえ生きていたとしても棺の外に出ることはもちろん、身動きすらほとんどできないだろう。
そんな状態にもかかわらず、両手は胸の下あたりで握り合わされ、あたかも穏やかに逝ったように見える。その胸さえ見なければ。
「これは……」
ヤンキーはそれを見て絶句した。
周りにいたあたしたちも似たようなものだった。呼吸することさえ忘れ、立ち尽くし、棺の中に眠る者を凝視し続けた。
その胸には太い杭が打ち付けられていた。もちろんその周りは血で染まり、絶命しているのは明白だった。
「吸血鬼かよっ!」
ようやく気を取り直したらしいヤンキーが吐き捨てる。たしかにこいつが言うように、棺の中の男は成敗された吸血鬼を連想させる。見た目といい、胸の杭といい。
鎖で身動きできないようにして、杭で命を絶つ。どうしてもそんなことを考えてしまう。
「これ、本物なの?」
黒髪ロング優等生が誰にともなく聞いた。
これは本当に死体なのか? 蝋人形かなにかではないのか? あるいは、胸の杭はフェイクで実は生きているのではないか?
あたしの頭の中に疑問が駆け巡る。
少なくとも腐敗臭のようなものは感じられなかった。だが鼻を近づけて嗅ぐと、薔薇の香りに混じって生臭いようないやな匂い、おそらく血の匂いがする。
同時に冷気を感じる。腐敗を遅らせるため、薔薇の下にでも保冷剤が入っているのだろう。
玻璃が死体の手に触る。意外に大胆なやつだった。
「弾力がある。少なくとも蝋人形じゃない。……たぶん、本物だよ」
「死んだふりじゃねえのかよ?」
ヤンキーがつぶやくように言った。
「脈がない」
玻璃は首筋に指を当て、言った。
「呼吸による胸の動きもない。死んでるよ」
「誰が殺したんだ!」
ヤンキーが鋭い目つきであたしたちを睨み付ける。
誰も答えない。
だがヤンキーが言うように、この男が誰かに殺されたのは明確だ。自殺でも事故でもあり得ない。あんな太い杭を自分の胸に打ち込むのは不可能だ。
「誰がやったかって聞いてんだ!」
「知らないわよ!」
怒鳴り返したのは、気丈な優等生ぽい女。
「誰かは知らないけど、明白よ。あたしたちを誘拐した犯人に決まってる」
「そいつはどこにいんだよ?」
「あたしが知るわけないでしょ」
「おめえらは知ってんのか?」
あたしと玻璃に向かって叫ぶ。
「悪いけど、知らない」
そういうしかない。玻璃も静かに首をふった。
「くそっ、くそっ、いったいどういうことだ?」
ヤンキーが頭を抱える。
「全員目覚めたか?」
いきなり後ろから声がした。全員そっちを向く。
そこにいたのは、背が小さい男で、黒いジーンズ、ダボダボのバーカーはやはり黒いという格好をしていた。年はおそらくあたしたちよりすこし下くらい。はっきりいって女のような美少年だった。体からは水がぽたぽたと床に落ちている。べつに水も滴るいい男と言いたいわけじゃない。豪雨の中、外から来たらしい。
「おめえか、おめえがやったのかっ!」
「俺がやったかだって? ひゃっはははは。うけるぅ」
そいつは顔に似ず、下品な笑い声を上げると、上体を前後に振りつつ、両手をぱんぱんと叩きまくった。まるでおもちゃのサルのように。
「俺もさっきまでそこにいたんだよ」
美少年は空の棺を指さす。
「あんたたち同様、棺桶からよみがえったゾンビだよ。ただ目を覚ましたのが、あんたたちよりちょっと早かっただけさ」
「おめえ、ひとりで動き回ってなにをやってた?」
「周りの状況の確認さ。あったりまえだろう? ここがどこかもわからないんだぞ。スマホがあれば簡単にわかるんだけど、残念ながら没収されたようだしな」
その台詞にあたしと少年を除いた全員がポケットをまさぐる。
全員、スマホはないようだった。
「それでどうなの? まわりはどんな状況?」
優等生女が聞く。
「島だよ、ここは。それもすごく小さい」
「小さいってどれくらい?」
「歩いてもすぐに一周できる。建物はこれひとつだけだな」
いやな予感がした。つまり、この島には、あたしたち以外誰もいないのでは?
「船かなんかねえのかよ! あ?」
「ないね。まわりは断崖絶壁、船を着けられそうなところは一カ所しかなかった。そしてそこには大型の船はもちろん、小型のボートすらなかった」
「それがほんとなら、あたしたちをここに連れてきたやつは、死体を置いて、船で立ち去ったってことじゃない」
優等生女が言った。
「なんのためにそんなことをするっていうんだ?」
ヤンキーが吠える。
もちろん答える者はいなかった。
「おい、建物がここしかないというのは間違いないんだろうな?」
「間違いないね。はっきりいってここは小さな無人島だ。この屋敷以外はな。島のどこからでもこの屋敷は見えるが、それ以外にはない。ちなみにこの建物、玄関前に夢幻館と書いてあった。ひゃひゃひゃ、受けるぜまったく」
「夢幻館? は? 幻だっていうのかよ、ここは」
ヤンキーがいらついた声で言う。
確かにここには現実感の欠片もない。
しばしの静寂のあと、美少年が言う。
「なあ、とりあえず自己紹介でもしようぜ」
「そんな悠長なことをしてる場合かよ? とっとと警察に連絡するべきだ」
「どうやってだよ? 誰もスマホを持ってないし、この屋敷に電話はない。ネットにつながったパソコンも。ついでにこの島にはここしか建物はないんだぞ」
一瞬の沈黙のあと、優等生女が言った。
「そうね。名前くらい知らないと呼びようもないしね」
「賛成」
あたしが言うと、玻璃とゴスロリ少女もうなずいた。
「まず俺は
美少年が名乗った。
「都内の明誠義塾高校一年、十五歳だ」
あたしは内心驚いた。
明誠義塾高校といえば、東京でも有数の進学校。そんな秀才に、というより、そもそも高校生に見えなかった。せいぜい中学生、ひょっとしたら小学生かもしれないと思っていたのに。
「あたしは月夜野霧華」
次にあたしが自己紹介する。
「都立緑が丘高校の一年生、十五歳よ」
「ボクは霧華のクラスメイトの水沼玻璃、やっぱり十五歳だ」
玻璃が続く。
ひょっとして誘拐犯は、都内の十五歳の高校生に狙いを絞ったのだろうか?
いや、あのヤンキーはどう見ても高一とは思えない。
「あたしは横浜青磁学園一年、国友さゆり」
優等生女が言う。東京縛りも消えた。
この学校もたしかそれなりに有名な進学校だったはず。
「剣道部所属で趣味は読書」
国友は情報を付け足した。
「ウチは黒川絵美です。十五歳。家は千葉。……高校は行ってません」
ゴスロリはちょっとばつが悪そうな顔で、ぼそぼそという。
フリーターなのか、あるいは受験で失敗し、来年ふたたび高校受験するのか?
まあ、ニートだとしても、あたしには関係ないけど。
「榊原玲司。鳶職。二十歳だ」
最後にヤンキーがつまらなさそうに言う。
「共通項がないな」
幽目宮がつぶやく。
たしかにそうだ。年齢縛りも、高校生という縛りも消えた。誰か知らないが、なにを根拠にこのメンバーをそろえたのだろうか?
「で、誰かここに来る前の状況を詳しく覚えているやつは?」
幽目宮があたりを見回す。みな考え込んだ。
「あたしはここにいる玻璃と一緒に学校から帰った。そこまでは覚えてるけど、その途中から記憶がない」
あたしが口火を切る。
「帰宅はどうやってだよ。徒歩か? 電車? それとも自転車かよ?」
聞いたのは幽目宮。
「電車だけど、……そういえば、電車に乗ったかな? 歩いている時点の記憶しかない」
「そういえば、ボクもそうだな」
玻璃が同意する。
「つまり、電車に乗る前に拉致されたってことか?」
「よくわかんない」
もし駅に向かう途中で誘拐されたとしても、なぜその状況を思い出せないんだろう?
「なんかの薬でほぼ瞬間的に眠らされたんじゃねえのか? 俺も似たようなもんだ。現場が終わって、車で帰ってる途中で……」
榊原は言ってる途中、首をかしげた。
「おかしいな。俺は何人かと一緒に車に乗ってた。そいつらはどうなった?」
「ウチは……家にいました。その記憶しかないんですけど」
黒川が言う。やっぱりニート?
いや、問題はそこじゃない。家にいたのに、記憶を失って、気づいたらここ?
「あんたの家に押しかけて、さらっていったって言うの?」
国友が信じられないといった顔をする。
「じゃあ、あなたは?」
「……塾にいた」
「そっちのほうがありえねえだろ! まさか、誰かしらねえが、塾に乗り込んで、おまえをさらえるはずがねえ」
榊原の言うとおりだ。もしそんなことになったら大問題だ。
「俺は警視庁にいた」
意外なことを言ったのは幽目宮だった。
「警察? なんかやったのか、おまえ?」
「馬鹿言うなよ、おまえじゃないんだぜ。刑事に意見を聞かれたのさ。事件解決のためのね」
「は? なんだそりゃ? おまえ、名探偵か何かか?」
「そう思ってくれていい」
ほんとうにそんなミステリー小説みたいなことがあるわけ? いや、問題はそれよりも、幽目宮が警視庁にいたということだ。それがほんとうなら、誘拐犯は警視庁に乗り込んだことになる。
「これって、現実のことなの?」
あたしは思わずつぶやいた。
みなさらわれたときのことをはっきりとは覚えていないが、誘拐するには極めて困難な状況だ。そして気づいたら見知らぬ島に連れ込まれ、そこには死体が……。
夢の出来事としか思えない。それもとびきりの悪夢。
「夢としか思えない状況だが、それでもこれは現実だ。で、どうするよ、これから?」
榊原が誰にともなく聞いた。
「外の状況を確認するか?」
「いいや、やめた方がいい」
ただひとり、外部を見て回った幽目宮が言う。
「もう、真っ暗だし、雨と風も強い。周辺は絶壁。はっきりいって危険だ」
「あ? じゃあ、この屋敷の中を見回るか?」
全員が榊原の意見に同意した。
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