第9話 悪夢


「ううっ、やめ……やめろっ」


 苦しげな声は、やがてはっきりとした言葉に変わった。

 ヒナは寝台から飛び起きて、少し離れた矢速の寝台に近づいた。白い仔狼の真白ましろも、ヒナと一緒に矢速の寝台の前に座り込んでいる。


「来るなっ! あっちへ行け!」


 矢速の苦しげな声はだんだんと激しくなってくる。

 ヒナの母が施した術により、母親が魔物に喰われる夢は見なくなったと聞いた。だから、矢速が今見ている悪夢は自分が斬られる夢だろう。それを裏付けるように、眠っているはずの矢速の手が空を切る。夢の中の襲撃者に抵抗しているのだろう。

 あまりの激しさに、ヒナは怖くなって思わず矢速の手を取った。


「ヤハヤ。大丈夫だよ。それは夢だから。あんたの傍にはあたしがいる。怖い人は誰もいないよ。大丈夫、あたしが守ってあげるから。心配しないで」


 ヒナに手を捕まれた矢速は、はじめは激しく抵抗したが、ヒナが根気よく話しかけ続けると次第に力が抜けてゆき、そのうち安らかな寝息をたてはじめた。


「よかった……もう大丈夫よね?」


 両手で握りしめていた矢速の手をそっと放そうとしたが、矢速の手がヒナの指先を握り込んでいた。

 無理やり振り解けば起こしてしまう。せっかく安らかに眠っているのだからと、ヒナはそのまま矢速を見守ることにした。


 ○○


 矢速が目を覚ますと、辺りはまだ暗かった。

 悪夢を見ていたような気がするのに、心は穏やかだった。

 右手が重たい気がして視線を向けると、ヒナが床に座り込み、矢速の手を握ったまま眠っていた。


「ヒナ……」


 矢速は起き上がってヒナを揺り動かした。窮屈な体勢をしているのに熟睡しているのか、ヒナは「うん」とか「むにゃ」とか答えるくせにちっとも起きない。


「ははは……おまえ面白すぎだろ」


 不意に、目頭が熱くなった。

 嬉しいのか悲しいのか、自分でもよく分からない気持ちがこみ上げてきて、矢速はヒナを抱きしめた。


(ヒナ。こんな息苦しい場所に連れてきてゴメン……おまえには似合わないのに……俺の事情に巻き込んでゴメン。でも俺は……おまえがいてくれるから……)


 ヒナの温もりが腕と胸に伝わってくる。それが余計に矢速の心に染みて、涙がこぼれ落ちる。その涙を隠すように、矢速はヒナの髪に顔を埋めた。

 眠るヒナを寝台の上に上げ、矢速は彼女を抱いたまま横になった。彼女の傍にいれば悪夢は遠ざかる。きっと優しい眠りに包まれる――そんな言い訳を思い浮かべながら。


 ○○


 翌朝。

 奥の間を訪れた山吹は、狭い一つの寝台で抱き合って眠るヒナと矢速を見つけた。


「おやおや。何もそんな狭い所で寝なくてもいいものを……」


 山吹は真面目な顔でそう呟いてから、ほんの少しだけ口元をほころばせて奥の間から出て行った。



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