第2話 ヒナと那々彦

 昔むかし。

 いにしえの民が暮らすこの八洲やしまの国に、海を越えて異国の民がやって来た。彼ら渡海人とかいじんたちは肥沃な土地に国をつくり、日の神を祀った。

 遙か昔から数多あまたの精霊や神々を祀っていた八洲の民も、渡海人と共生するうちに日の神を崇めるようになったが、その一方で、森や山の奥へ入りひっそりと伝統的な暮らしを続ける者もいた。


 岩の里は数少ない古き神々を祀る里だ。神々の声を聞き、神通力を操る岩の巫女が村を守っていたが、今はいない。

 ヒナの母アカルでさえ、岩の巫女を継ぐ資格なしと大ばば様に判断されたくらいだ。体に流れる血潮の半分以上が渡海人のものとなったヒナは、もはや只人ただびとでしかない。


陽菜ヒナ……」


 うつむいていたヒナの頬に、那々彦ナナヒコの冷たい手が触れた。

 驚いて顔を上げると、すぐそばに那々彦の顔があった。

 彼らしくもない冷たい瞳が、じっとヒナを見据えている。

 こんな目で見つめられたことはなかった。ヒナは驚いて身を引こうとしたが、那々彦の腕がヒナの背中を押さえていて動けない。

 気がついた時には、唇が触れそうなほど近づいていた。


「やめて!」


 ヒナは那々彦の胸を突き飛ばし、そのまま全速力で逃げ出した。

 岬を駆け下り、集落の裏側にある森まで一気に駆ける。岬から遠く離れた森の奥深くまで入ったところで、ヒナはようやく足を止めた。

 那々彦が恐ろしかった。憎しみさえ感じるような冷たい目で見据えられて、心が冷えた。


(那々彦さまは、あたしのことが憎いんだ。だからあんな目をして、心にもない事をしようとしたんだ)


 木の根元に座り込み、ヒナは膝を抱えた。

 彼の境遇には同情する。けれど、それはヒナが望んだことではない。彼の父親の、くだらない執着のせいではないか。


「もうやだぁ……」


 情けない言葉が口を出た瞬間、バサバサっと羽音がして肩に微かな重みが乗った。


『どうしたヒナ? あのクソガキに何かされたのか?』

「……からすの王?」


 ヒナの肩に乗って人語で話しかけてきたのは白い鴉だった。

 彼はヒナの母アカルと共に諸国を旅した精霊で、霊力のないヒナの前にも度々姿を現してくれる。そして、時にはこうしてヒナの愚痴まで聞いてくれるのだ。


「クソガキって、那々彦ナナヒコさまのこと?」

「そうさ。ヒナに付きまとうだけで何もしないクソガキじゃないか!」


 あははっ、とヒナは笑って白い鴉を見上げた。


「そうね。確かに那々彦さまは何もしないわね。ただ岩の里にいるだけで、里の仕事をしたことはないもの。まぁ、彼は王子様だから仕方ないけど……」

『王子様だろうが関係ないね。岩の里で暮らすなら、里の者どもと同じように仕事をするべきだろう? オレは最初からあの小僧が気に食わなかったんだ!』


 白いくちばしをクワッと開けて、鴉の王は那々彦の悪口を言い始める。ピーチクパーチクと淀みなく喋る様は、残念ながら小鳥のように愛らしくはないが面白くて、いつのまにかヒナの心は和んでいた。


いにしえの神々は、みんな、こんなにおしゃべりなのかしら?)


 ヒナの母はいつも「鴉の王には感謝しかない」と言っているけれど、彼にまとわりつかれる度に邪険にしている。どうも、彼のおしゃべりが鬱陶しいらしい。


「鴉の王は……優しいよね」

『まぁな。オレは懐の深い神だ。一度守ると決めた者はずっと見守り続ける。少なくとも、オレはアカルの命を三度は助けているんだぞ! ヒナはそのアカルの子だ。アカルの子はオレの子みたいなもんだ。生半可な気持ちで近づく奴はオレが許さない!』


 一言彼に声をかけようものなら、十倍になって返ってくる。

 母がうんざりする気持ちもわからなくはないが、今のヒナには鴉の王のおしゃべりが心地よかった。


『アイツを国へ帰すように、オレがアカルに言ってやろうか?』

「ううん。ちゃんと自分で言う。でも、追い返すのは難しいかも。前に母さまが言ってたの。智至ちたる王が那々彦さまを岩の里へ送ったのは、近くに住まわせておけば自然に恋仲になるかも知れないからなんだって。無理に結婚させようとは思ってないって」

『ケッ……ミオヒコの考えそうなことだな』


 鴉の王が忌々しげに吐き捨てるのを見て、ヒナはくすくすと笑った。

 その時、森の奥でガサガサッと葉を揺らす音がした。

 ヒナは獣を警戒して立ち上がり、帯に差しておいた短刀を抜こうとしたけれど、そこにあるはずの愛用の短刀はなかった。


(しまった……山菜と一緒に籠に入れたままだった)


 サッと血の気が引いた。森の奥まで来すぎてしまった。山に続くこの森には獣が多い。もしも相手が大型の獣なら、今更走って逃げたところで追いつかれてしまうだろう。

 ヒナは覚悟を決めた。すぐ傍に落ちていた木の枝を拾って身構えた途端、正面の茂みが大きく揺れた。


(来る!)


 ヒナは目をそらさずに木の枝を構えた――が、新緑の枝葉を掻き分けて姿を現したのは、ヒナと同じくらいの年頃の少年だった。


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