第2話 ヒナと那々彦
昔むかし。
遙か昔から
岩の里は数少ない古き神々を祀る里だ。神々の声を聞き、神通力を操る岩の巫女が村を守っていたが、今はいない。
ヒナの母アカルでさえ、岩の巫女を継ぐ資格なしと大ばば様に判断されたくらいだ。体に流れる血潮の半分以上が渡海人のものとなったヒナは、もはや
「
うつむいていたヒナの頬に、
驚いて顔を上げると、すぐ
彼らしくもない冷たい瞳が、じっとヒナを見据えている。
こんな目で見つめられたことはなかった。ヒナは驚いて身を引こうとしたが、那々彦の腕がヒナの背中を押さえていて動けない。
気がついた時には、唇が触れそうなほど近づいていた。
「やめて!」
ヒナは那々彦の胸を突き飛ばし、そのまま全速力で逃げ出した。
岬を駆け下り、集落の裏側にある森まで一気に駆ける。岬から遠く離れた森の奥深くまで入ったところで、ヒナはようやく足を止めた。
那々彦が恐ろしかった。憎しみさえ感じるような冷たい目で見据えられて、心が冷えた。
(那々彦さまは、あたしのことが憎いんだ。だからあんな目をして、心にもない事をしようとしたんだ)
木の根元に座り込み、ヒナは膝を抱えた。
彼の境遇には同情する。けれど、それはヒナが望んだことではない。彼の父親の、くだらない執着のせいではないか。
「もうやだぁ……」
情けない言葉が口を出た瞬間、バサバサっと羽音がして肩に微かな重みが乗った。
『どうしたヒナ? あのクソガキに何かされたのか?』
「……
ヒナの肩に乗って人語で話しかけてきたのは白い鴉だった。
彼はヒナの母アカルと共に諸国を旅した精霊で、霊力のないヒナの前にも度々姿を現してくれる。そして、時にはこうしてヒナの愚痴まで聞いてくれるのだ。
「クソガキって、
「そうさ。ヒナに付きまとうだけで何もしないクソガキじゃないか!」
あははっ、とヒナは笑って白い鴉を見上げた。
「そうね。確かに那々彦さまは何もしないわね。ただ岩の里にいるだけで、里の仕事をしたことはないもの。まぁ、彼は王子様だから仕方ないけど……」
『王子様だろうが関係ないね。岩の里で暮らすなら、里の者どもと同じように仕事をするべきだろう? オレは最初からあの小僧が気に食わなかったんだ!』
白いくちばしをクワッと開けて、鴉の王は那々彦の悪口を言い始める。ピーチクパーチクと淀みなく喋る様は、残念ながら小鳥のように愛らしくはないが面白くて、いつのまにかヒナの心は和んでいた。
(
ヒナの母はいつも「鴉の王には感謝しかない」と言っているけれど、彼にまとわりつかれる度に邪険にしている。どうも、彼のおしゃべりが鬱陶しいらしい。
「鴉の王は……優しいよね」
『まぁな。オレは懐の深い神だ。一度守ると決めた者はずっと見守り続ける。少なくとも、オレはアカルの命を三度は助けているんだぞ! ヒナはそのアカルの子だ。アカルの子はオレの子みたいなもんだ。生半可な気持ちで近づく奴はオレが許さない!』
一言彼に声をかけようものなら、十倍になって返ってくる。
母がうんざりする気持ちもわからなくはないが、今のヒナには鴉の王のおしゃべりが心地よかった。
『アイツを国へ帰すように、オレがアカルに言ってやろうか?』
「ううん。ちゃんと自分で言う。でも、追い返すのは難しいかも。前に母さまが言ってたの。
『ケッ……ミオヒコの考えそうなことだな』
鴉の王が忌々しげに吐き捨てるのを見て、ヒナはくすくすと笑った。
その時、森の奥でガサガサッと葉を揺らす音がした。
ヒナは獣を警戒して立ち上がり、帯に差しておいた短刀を抜こうとしたけれど、そこにあるはずの愛用の短刀はなかった。
(しまった……山菜と一緒に籠に入れたままだった)
サッと血の気が引いた。森の奥まで来すぎてしまった。山に続くこの森には獣が多い。もしも相手が大型の獣なら、今更走って逃げたところで追いつかれてしまうだろう。
ヒナは覚悟を決めた。すぐ傍に落ちていた木の枝を拾って身構えた途端、正面の茂みが大きく揺れた。
(来る!)
ヒナは目をそらさずに木の枝を構えた――が、新緑の枝葉を掻き分けて姿を現したのは、ヒナと同じくらいの年頃の少年だった。
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