序段 --- 天辺毬愛
コチ、コチ、と。
少女は耳元で鳴る安っぽい置時計の秒針の音を聞き、自分が目を覚ましたのだと気づいた。
重たいまぶたを押し上げる。少しだけ、周囲を探るように右手を伸ばした。
カシャ、と。
得体の知れない感触に、手を引く。眠気は一息に吹き飛んで、目を向けた先にあったのは、薄汚れた茶色い紙袋だった。
なんだ、紙が潰れた音か、と。
少女が息を吐いて胸を撫で下ろした――瞬間だった。
「おひょ、起きましたね! おはよーございまーす!!」
ぐるん! と振り返った紙袋が、溌剌とした声で朝の挨拶をした。
「あ、ぐ……あ……」
あまりに突然の出来事に、口をパクパクと開閉させることしか出来ない少女。
目出し帽の様に穴を空けた紙袋を被った何者かは、オーバーアクションで首をかしげる。
そして何を思ったのか、人差し指を少女の口に突っ込んだ。
「は、はぐぅっ!?」
紙袋からはもちろん表情なんてものは一切伺えない。何者かは楽しんでいるのかなんなのか、頭を左右に振ってメトロノームのようにリズムを刻んでいた。
パニック状態の少女は若干涙目になりながら必死に声を上げようとするが、もちろん正確な発音などできるはずもない。
「ふぁああんで、ゆひをひへふうんえ!?」
ここはどこで、どうして自分はここにいるのか。目の前の人物が何者で、なぜ紙袋なんかを被っているのか、さらになぜ今口に人差し指を突っ込まれているのか。わからないことばかりでどうにかなってしまう直前。
「うひょ、息苦しいですか? これは失敬! 隙だらけだったもんでつい!」
軽快な口調で紙袋は人差し指を引き抜いた。
少女は数度咳き込んで、怯えるように紙袋を見つめる。
「うひゃひゃひゃ、ごめんなさい! 悪気は無かったんですよホント」
両手を挙げて敵意のないことを示す。
それでも少女は警戒を解かず、身体を丸めるようにベッドの端へと後ずさりした。
「いやいや、わかってますって。お嬢さんの望みは手に取るようにわかります。むしろこの紳士にかかれば朝飯前ですタイミング的にもジャスト」
紙袋はうんうん、と頷いて、さながら主人をエスコートする執事のように半身で手を向けた。
「というわけで朝ごはんにご招待ですよ。お嬢さん」
少女の視線が追った先には、安っぽいちゃぶ台の上に、簡素な朝食が並んでいたのだった。
「あれでしょう。さっきの口パクパクはご飯食べたいという意志の表れというやつなんですね。わかりますわかります。これでも紳士ですし」
「いや、あの、あれはまさか手に当たった紙袋を人が被ってたなんて思わず、びっくりして……そ、それより、あの、なんでいきなり口に……」
「うひょ? だって隙だらけでしたし、『あ、これ今ならいける』って思いますよね? 紳士的に」
味噌汁を両手で持ってすすりながら少女は訝しげに紙袋を見つめた。
ここは六畳の狭い一室だった。
部屋にはこの一室と併設されたキッチンに風呂とトイレだけ。せまい六畳はベッドと小さなちゃぶ台だけで大半を占めていて余白はあまりない。小ざっぱりしているが、所々で生活の粗が見える、そんな男一人暮らしの格安アパートの一室だった。
少女は警戒しつつも、空腹には耐えられず朝食をつつく。
「あ、もしかして朝はパン派ですかお嬢さん? いやー、でもやっぱり紳士的にはお米外せないと思うんですよねやっぱり。パンじゃいまいち元気でないっていうかごにょごにょ……」
目の前の紙袋を被った人物は、どうやら男性らしい。声は高めでわかりにくいが、何より無骨で飾り気のない部屋を見れば女性ではないのは一目瞭然だった。
「おひょ? ちょっとボクの話聞いてますお嬢さん? え? もしかして麺派? リッチに朝からパスタとか茹でちゃうアルデンテですかお嬢さん!? 紳士的にはそれはちょっと紳士過ぎかと……」
「か、勝手に変なこと言わないでください! ……わ、わたしもご飯派です……味噌汁だけでも十分ですが、漬物とかあると尚良しだと思います……」
好みが合ってしまっているのがなんだか恥ずかしく、俯いてしまう少女。そんな彼女に、紙袋は握手を求めて手を差し出した。
「お嬢さん、やはり昨晩貴女と巡り合ったのは運命だったようだ……。ご飯派味噌汁部漬物課の設立確定です。二人で独立行政法人を目指しましょう……!」
手を差し出してもいないのにお箸ごと両手をさらわれる少女。ブンブンと両手が上下して、目の前の紙袋の周りにはよほど嬉しかったのかキラキラと飛ぶ星のエフェクトが浮かんで見えた気がした。
独特すぎるテンションに辟易しかけていたとき、少女ははっと気づいた。
「え……さっき、なんて言いました……?」
「独立行政法人です。あ、もしかして物足りない……!? まさかの立党ですか!? 行政に参入しちゃいますか!?」
「も、もっと前です! 昨晩……って、何があったんですか? わたし、逃げていた途中から、記憶が……」
不安そうに顔を俯かせる少女。
紙袋に開いた穴から、自称紳士は恐怖の色を感じとった。
ゆっくりと両手を離す。
「簡単な話ですよ。夜な夜なお散歩していたボクが道路に倒れている貴女を見つけた。神父っぽい人に追われているようでしたが、明らかにお嬢さんに危害を加えていたので逃げました。本来なら警察か病院なんでしょうけどねぇ、ほら、紳士とは思えないこんな見てくれですし? とりあえずうちで様子見しようかと思って抱えてきたという次第ですよ」
少女は納得したようで小さく頷いた。
「……助けていただいて、ありがとうございます」
深々と、頭を下げる。
「うひゃ? そんなかしこまらないでくださいお嬢さん。紳士として当然の振る舞いをしたまでです。ええ、紳士として当然、家に持ち帰ったわけです。やましい意味はありませんよ。紳士ですし」
「いや、あの……わたしも警察は都合が悪かったんです。だから、最良の選択でした。あ! そ、その上朝ごはんまで……え、ええと、ごちそうさまでした」
改まって再度頭を下げる少女。
「非紳士的だというツッコミが欲しいのですが、ちょっとレベルが高かったようですね。お嬢さんは見たところだいぶお嬢さんなようだ。ああ、片付けますよ。お粗末さまでした」
そう言って紙袋は食器を流し台へと運んだ。彼としては少女のことを幼いと言いたいつもりだったようだが、少女には伝わらなかったようで小さく首をかしげた。
紙袋がちゃぶ台へと戻ってくる。
「あ、あの……今更なんですが、お名前を聞いてもいいですか?」
「おひょ? ああ、名前ですね」
二人はちゃぶ台挟んで向かい合った
「ボクは
ほら、と思いっきり紙袋を頭から引き抜くと――その下には同じような紙袋が出てきた。表情は見えないのだが満足そうである。少女は「あ、はい」とだけ言って同じように自己紹介した。
「
そこで、毬愛は言葉に詰まった。
君ヶ袋には紙袋越しに、少女が両手を膝の上で握り締めるのが見えた。
そしてその両手が、かすかに震えていることも。
「……梅干!」
突然、彼は人差し指を立てて宣言した。
呆然とまばたきを繰り返す毬愛に、紙袋の奥から軽快な雑談が降りかかる。
「好きなおにぎりの具ですよ。紳士的には容赦なく酸っぱいのがベストです。お嬢さんは?」
少しの間があって、こらえ切れずに少女から笑みがこぼれた。。
「ふふっ……わたしも、梅干が一番好きです」
紙袋は満足げに腕を組んで頷く。やはり立党しかないのか、などと呟いている。
「さあてお次はお嬢さんの番です。なんでも質問をどうぞ。あ、ボクのスリーサイズですか? 上から」
「き、聞いてませんってば!」
ジリリリと目覚まし時計が鳴り、君ヶ袋は時計を叩いて止めた。
「おおおっとこんな時間ですか。バイトの支度をしなければ。シャワーを浴びてくるので、お嬢さんは自由にくつろいでてくださいね」
そうして素早く着替えを手にして、洗面所兼脱衣所へと消えた。
すぐにシャワーの流れる音が聞こえてくる。
あの風貌でどんなバイトをしているかとても気になると思いながら、少女は脱衣所の戸をしばらく見つめた。
彼女は手持無沙汰なことに耐えられず、流し台の皿を洗うことにした。
スポンジを動かしながら考える。
(わたしには殺される前にやらないといけないことがある。悠長にしていたら手遅れになるかもしれない)
皿を洗っていると、ふと背中の生地に違和感があった。
手を拭いて背中を触ってみると、服に穴が開いている。その奥には傷ひとつ無い少女の柔肌がのぞいていた。
「あっ、そうだ……昨晩背中を刺されて……」
毬愛は昨晩のことを一部思い出した。神父に追われている最中に背中を刺され、それがきっかけで気絶をしたことを。
(紳士さんは、わたしの背中の傷が治ったところを見たかもしれない。わたしが“癒しの聖女”であることは、口留めしないと!)
毬愛は焦ってキッチンを離れ、脱衣所の戸に手をかけた。
シャワーの音はずいぶん前に止まっている。しかし念のため一声かけた。
「あの、紳士さん! 昨晩のことで聞きたいことがあって……開けてもいいですか?」
「おひょ? はいどーぞ」
「わたしの背中の服が破れているところって見ま」
脱衣所では、全裸の成人男性が歯磨きをしていた。
毬愛は唖然として、君ヶ袋の顔と股間を交互に見ることしかできなかった。
あまりに突然の出来事に、口をパクパクと開閉させていると、君ヶ袋はその口を目がけてそっと指を近づけてくる。
ハッと気づいた毬愛は、戸を思いっきり閉めてその場に座り込んだ。
「な、ななな、なんで服を着てないんですかぁ!!? それと……どうしたんですか、その、
「うひゃひゃひゃ、すみませんお見苦しいものを。もう着ましたから開けていいですよ」
「わざわざ確認したのに……」
恐る恐る戸を開けると、そこには顔面にパンツをかぶり、股間に紙袋を履いた男がいた。
「あの、逆です」
「お嬢さんのその、許容量を超えたときの逆に冷静なツッコミ、とても好きです」
「いいから、次はちゃんと着てください」
少しずつ順応してきた毬愛は冷たく言い放ち、戸を閉めた。
◇◆◇◆◇
しばらくした後、服を着て脱衣所から出た君ヶ袋はちゃぶ台の前に正座していた。
「さっきのは流石に紳士らしくないのでは?」
「先にフラグを立ててお色気シーンに突入したのはお嬢さんの方です! ボクのは礼儀に乗っ取ったお約束のカウンターです!!」
「そ、それは失礼しました……?」
謎の気迫に丸め込まれてしまった毬愛は、この議論を諦めた。
君ヶ袋は話を戻すため助け舟を出す。
「それで、何の御用でしたかお嬢さん」
「は、はい。わたしの背中の服が破れていることですが……」
少女は警戒していた。自分の素性が外に漏れればまた追手が来る。そのときは君ヶ袋にも危害が及ぶかもしれない。それだけは阻止しなければいけないと考えていた。
「ああ、傷が治っていたところですね。驚きましたが、良かったですね跡にならなくて」
「えっ、ああ……はい」
あまりにも拍子抜けで勢いを失ってしまった。
「大丈夫ですよ。夜中に追われているお嬢さんを拾ったということはワケ有りに決まってます。それを聞き出さないのが紳士ですし、言いたいなら黙って聞くのも紳士。口外するなんて以ての外です」
この男は、異常な見た目と狂った言動の割には、存外本当に紳士的な部分もあるのだと少女は納得した。
その親切に報いるためか、毬愛は先ほど脱衣所で見た光景を思い出して、紙袋へと手を伸ばす。
「傷を癒す力は、自分だけではなく他人にも使えます。傷跡は難しいかもですが……紳士さんの顔、診せてくれますか?」
「見てもいいですけど、治すのはお断りします」
毬愛の手が止まった。
「気持ちは嬉しいですよお嬢さん。でもね、これは自分でつけた傷ですから。治さなくていいんです」
「……では、確かめるだけ」
紙袋が取り外される。
長く乱雑に伸びた髪は目や顔の輪郭を覆い隠している。その奥に切り傷が治った跡があった。
顔全体に。
縦横無尽に。
数えきれないほどに。
毬愛はじっくりと傷跡を診た。
「……痛みはありますか?」
「随分と前の傷ですから、時々痒いだけです。マスクだと蒸れるので、紙袋なんですよね」
君ヶ袋は、照れくさそうに笑った。それは毬愛が見た彼の初めての
「そうですか……見せてもらったのにごめんなさい。そもそもこの傷跡は戻せません。痛みの伴うものだけしか、わたしには癒せないのです」
紙袋を手渡すと、彼はすぐに頭へと被った。
「大丈夫です! 次に怪我したらすぐにお嬢さんに泣きつきますからね」
「怪我をしないことが大切です。それに、わたしはもう出ていきますから」
「え!?」
毬愛は立ち上がり、狭い六畳一間から出ようと玄関に向かう。
それを阻むように、君ヶ袋が立ち上がろうとするが、正座で痺れた足のせいで情けなく畳に倒れこんだ。
「危険ですよ! お嬢さんを追っていた神父には、仲間がいると言っていました!」
少女の足元で紙袋が喚く。
「……わかっています。わたしは遅かれ早かれ、彼らに捕まり、殺されるでしょう」
「殺されるとわかっているなら、外に出るべきではありません!」
「何となくわかっていたんです……この治癒の
死の運命を受け入れている少女に、君ヶ袋は押し黙った。
「でも、そんな異常者なわたしにも、残された約束がひとつあります。それだけは成し遂げたいんです」
さっきまでか弱かった少女の瞳に、強い意志が見えた。
「……ではお供しますよお嬢さん」
君ヶ袋は痺れる足でなんとか立ち上がる。
「お嬢さんが死を受け入れてるのは尊重しましょう。しかし昨晩出会ったのも何かの縁。せめてその心残りを、取り除く手伝いをさせてください。それが、お嬢さんと出会ってしまった紳士の務めです」
予想外の申し出に毬愛は驚いた。
だが、少女は犠牲が出ることを嫌がる。
「あなたみたいないい人を巻き込めません。わたしと出会ったことは忘れて、今まで通りの人生を歩んでください」
「いい人ですか……やっぱり、お嬢さんと言えば箱入り娘。箱入り娘と言えば世間知らず。人を見る目がありませんね」
紙袋の奥からため息が聞こえた。
「実はボクは自分のことを紳士と思い込んでいる悪者なんです。でもこんな危なっかしいお嬢さんを目の前にしてしまっては、いったん悪者をお休みして紳士に専念しようと思います」
「わたしだって悪者です! 急ごしらえの嘘で、仲間意識を持たせようなんて……」
毬愛が話し終わらないうちに、君ヶ袋は膝を折って少女を見上げた。
「――信じられないというなら、ボクの悪事を懺悔しましょう。ボクはうぐぉ」
突如、紙袋が潰れる音がした。
毬愛が君ヶ袋の口辺りを両手で押さえて、言葉を遮る。
「懺悔は、やめてください」
少女は悲痛な声を上げた。
「わたしは偽物の聖女です。告解を神へと届けて、あなたに許しを施すことはできません。でも紳士さんの気持ちはわかりました。そこまでしてくれるなら、わたしは個人としてあなたの言葉を信じます」
しわが寄った紙袋をピンと伸ばしながら、君ヶ袋は嬉しそうに立ち上がった。
「あなたの手伝いを受け入れます。でもその代わり、危なくなったら逃げると誓ってください。わたしのせいで紳士さんが傷ついたら、それが新しい心残りになりますから」
「誓いましょう。紳士は絶対に誓いを守ります」
君ヶ袋は右手を差し出して、毬愛は握手を受け入れた。
ブンブンと大きく二人の握手が上下する。
「ところで、お嬢さんの行く先はどちらに?」
「
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