第二章 “不機嫌な訪問者”
日曜日の午前、
午後から催される、陽介の息子の誕生日パーティー。そのプレゼントを調達しよと近所のショッピングモールにきたところ、ふと展示されていたポスターに足を止め、「まあ、そのくらいの時間はあるか」と吸い込まれていった。
客層は学生カップルや家族連れが中心で、独りで来ている中年男は明らかに浮いてた。
上映されたのは、前作でグラミー賞を受賞したという新鋭監督の新作ヒューマンコメディ。
売れっ子スーパーモデルと、町の小さな床屋が織りなす奇妙な友情と、再生の物語。
タイトルは派手だったが、中身は意外と地味で、どこか気の抜けたような印象だった。
しかし物語の終盤、床屋の老人が言った台詞、
『人がなぜ死を恐れるのかって?…少し違うな…動物が死を恐れた結果が"人"なのだ』
その言葉だけが妙に胸に残っていた。
──悪くはなかった。
脚本の構成も、俳優の演技も水準以上。
けれど、前作にあった日常の何気ない会話に潜むブラックユーモアや、ラストの怒涛の展開に比べると、今回はどこか平坦で、良く言えば丁寧、悪く言えば「毒気が抜けた」印象。
館内を出て、吹き抜けのあるフロアを、ひとり頭の中で誰に聞かせるでもない批評会を繰り広げながら歩く。
エスカレーターを降り、そのまま一階の衣料量販店に足を運び、ワイシャツ売り場の前で足を止めた。
ラックには大きなポップが掲げられていた。
《2枚で2000円!まとめ買いがおトク!》
──一枚千円ってことだろ。
何がおトクなんだ。別に驚くような価格でもない。“お得感”を演出したいなら、一枚が千二百円が二枚で二千円ならまだわかる。
でも最初から千円なら、それを二枚したところで、別に安くはなってない。
隣の棚には《SALE》の文字が躍っていた。赤地に白抜きの太字。
(ほんとに安くなってんのか?)
(「SALE」って、本来「売っている」って意味だろ。服屋に服が“売っている”のは当たり前じゃねえか)
それでも、みんなその文字に吸い寄せられる。赤い文字を見た瞬間、どこか勝手に“得した気”になる。
──言葉は、麻酔だ。痛みをやわらげる代わりに判断力を鈍らせる。
頭の中で御託を並べつつも、結局Mサイズを3セット――6枚購入し、レジ袋を手にモール内のフードコートへ向かう。
ハンバーガー店でポテトのSサイズだけを注文すると、店員が笑顔で告げる。
「ポテト、揚げたてご用意しますので、お時間少々頂きます」
──揚げたてご用意、ね。
元児は黙って頷いたが、心の中ではやはり別の声が呟いていた。
(つまり、これから揚げるから時間かかるってことだろ。言い方ひとつで、なんで“サービス”っぽくなるんだ)
注文待ちのあいだ、前のテーブルにいた女子高生たちの声が耳に入ってくる。
「え、でもそれはマジむりじゃね?」
「それなー!」
「ガチ、それな!」
聞き流すつもりだったが、「それな」という一言に、ふと意識が向いた。この若者言葉には、元児なりに好感を抱いている。
──それな
つまり、
──「あなたの意見は的を射ている」
──「私も全くもって同感だ」
──「代弁してくれてありがとう」
そんな複雑な意味を、たった三文字で言い切る。
これはかなり高度な省略だと思う。
言語としての機能美がある。発明だとすら感じている。
ただし、これをいい歳の男が使っていたら地獄だ。
つまり言葉というものは、意味以上に「誰が使うか」に支配されている。
店員が呼びに来て、受け取ったポテト。揚げたてという言葉どおり、ポテトは熱く、油の匂いが立ち上る。
元児は黙々と、ただ口に放り込む。
──言葉って、すごいな。
ただの「今から揚げます」が、「揚げたてをご用意します」に変わるだけで、人は得した気になる。
そのために「お時間を頂く」と言われれば、「待たされる」ことに対する苛立ちが、少しだけ和らぐ。
どいつもこいつも、言葉で「ごまかす」ことに慣れすぎているんだ。そして、自分もまた、そういう言葉にどっぷり馴染んでいる。
元児は時々、こんなことを考える。
──もし、言葉に「利用制限」みたいなものがあったら、人はもっと慎重に喋るのかもしれない。
たとえば携帯のプランみたいに、「月々1万文字まで」とか、「人生で累計1000万文字まで」とか。
そんな制限があったら、無駄に喚いたり、ネットで他人を攻撃するような罵詈雑言になんかに、一文字たりとも使わないはずだ。
怒りも、愚痴も、誰かを励ます優しい言葉も、全部ひと文字ひと文字、もっと噛みしめるようにして発するだろう。
──でも、本当は人生そのものが制限付きじゃないか。
時間は有限。ならば当然、言葉も有限。
生きているあいだに、口にできる言葉の量なんてたかが知れている。
なのに、多くの人はそこに気づかない。いや、気づかないふりをしてる。
元児はポテトの残りを口に放り込みながら思う。
──そして自分は、誰よりも言葉を雑に使ってきた。
誰よりも、怒りに任せて、傷つけてきた。
静かな罪悪感が、油の後味とともに胃に沈んだ。
ショッピングモールのガラスドアを抜けると、外の陽射しが眩しい。
子どもを連れた家族連れ、紙袋を抱えた若いカップル。休日の午後は平和な空気に満ち溢れていた。
そんな中、スマートフォンが一通の通知を告げる。陽介からだった。
〈元児、まだ着かない? たけしが寝ちゃう前には来いよー。気をつけて!〉
その、あくまで気遣いながらの催促に対して、元児はたった一言だけ返信した。
──〈それな〉
電車の座席に腰を下ろすと、隣では中年の男ふたりが、どこかの店について熱心に話していた。
ひとりが場所を説明するたびに、大げさな手振りを繰り返す、その手がいちいち元児の顔の前を横切って腹立たしい。
元児はそのたびにあからさまに顔を逸らす。もちろん当たる筈はないが、わずかでも不快感が伝わればと思いながら無言のアピールを続ける。
男は気づかない。こういうやつは、他人の空間に無頓着なまま年だけ食ってきたタイプだ。
元児の“三大嫌いな人間”のひとつに〈邪魔なやつ〉という項目があるが、その定義にぴったりだ。
そうこうしていると、目的の駅に着き、十分程歩き、陽介の家に向かう。時間は十五時半を過ぎていた。 閑静な住宅街にある一軒家。インターホンを押すと、陽介の妻・早苗が優しく出迎える。
「木場君、忙しいのにありがとうね。さ、中入って」
早苗は元児や陽介の高校の同級生だ。
結婚して坂本家に嫁いでからも、元児は変わらず旧姓の「高峯」で呼んでいる。
リビングの壁には、パーティー用の飾り付け。東急ハンズで売っていそうな、金や銀のアルファベット風船が並び、「HAPPY BIRTHDAY」の文字をつくっている。
テーブルには、手作りの料理やケーキの皿が並び、どれもすでに半分ほど手をつけられていた。
それらを見て遅刻してきた罪悪感が少しだけ胸をよぎる。
奥から飛び出してきたのは、誕生日の主役・たけしだった。両手を広げて勢いよく突進し、そのまま元児の腰にしがみついてくる。
会うのは一年半ぶりだろうか。少し背が伸びて、顔つきは陽介と早苗のちょうど中間のように仕上がってきている。その成長にノスタルジーを覚えながら、元児は「よっ。たけし、誕生日おめでとう」と言い、紙袋を手渡した。中にはミニカーが入っている。
たけしはすぐに袋を開け、飛び跳ねながら喜んだ。
「ちっさいくるま! やったー! ガンジーすごい!」
「こら、たけし。まずは元児のおっちゃんに“ありがとう”だろ」
トイレから出てきた陽介が、いつものように優しくたしなめる。たけしは小さくペコッとお辞儀すると、また元児めがけて勢いよく飛びついてきた。
その後しばらく、元児はたけしと一緒にミニカーを走らせたり、DVDの映像を眺めたりして過ごした。
意外なことに、自然と相手をしてしまっている。むしろ、大人と話しているときより、ずっと気楽だと思う瞬間すらあった。
「お前、意外と子煩悩だよな」
陽介が、元児の耳元でそっと囁く。
「ちげぇよ。たけしが賢いだけ。相手するのが苦じゃないだけ」
ぶっきらぼうに返した元児の横で、陽介は幸せそうに、本当に幸せそうな笑顔で、その光景を見守っていた。
二十一時、たけしが遊び疲れて眠ってから一時間ほど経った頃、インターホンが鳴った。
現れたのは、元児や陽介と同じ高校に通っていた
「和巳君、今日仕事入ってたんじゃないの?」
驚きながらもどこか嬉しそうに声をかける早苗に、立川は手にした紙袋を差し出す。
「早く上がれたから、やっぱ来ちゃった。たけし、もう寝ちゃってるよね? これ、起きたら渡しといて」
その場に居合わせた元児は、すぐに状況を飲み込んだ。
自分が急に誘われたのは、立川が来られなくなったからだろう。
今思えば、二日前の夜に誘われたこと自体、不自然だった。
元児のそんな胸の内を察したのか、陽介はどこかバツの悪そうな表情で、「みんなで集まれて嬉しいよな」「人数多い方が賑やかでさ」などと、見え透いた言葉を並べていた。
立川は、その場にいる元児を不思議そうに一瞥し、すぐに作り笑いを浮かべて言った。
「木場も来てたんだ。久しぶりだな」
その後は、四人で酒を飲みながら、高校時代の思い出話で盛り上がった。
だが、それはあくまで陽介や立川が中心で、所謂“学校の人気者”たちの記憶に彩られた会話だった。
元児にとって、それらはどれも自分に関係のない過去であり退屈な時間でしかなかった。
唯一の思い出のモヒカンのエピソードも、立川はもちろん忘れているだろう。
そんな空気の中で、立川がバンド時代の話を持ち出す。
「そういえばさ、あの頃よくライブ撮ってたじゃん、俺。今思えば、マジで金なかったよなあ、みんな」
立川は、元児たちがバンドをやっていた当時、ライブカメラマンとしてライブハウスに出入りしていた。
もっとも、“ライブカメラマン”といってもピンキリだ。
本気で写真や音楽が好きで、技術を磨きながら食っていく覚悟を持ってやっている者もいれば、ただ"夢を追っている側"でいたいだけの者もいる。
立川は、明らかに後者だった。
彼に限った話ではない。音楽の才能も情熱もなく、それでも仲間がバンドをやっている姿に感化されて「自分もそっち側になりたい」と思い立ち、とりあえずカメラマンを名乗る。
エントリークラスのデジタル一眼レフが比較的安価で手に入るようになった2000年代以降のライブシーンでは、そんな人間はごまんといた。
元児からすれば、立川の撮る写真は“いいカメラを使えば最低限これくらいは撮れる”程度のものでしかなかったし、毎回スタッフ面して無料でライブに入り込んでくることも、内心では鬱陶しく思っていた。
そんな立川が、「あの頃ってさ、夢あったよな」と、まるで青春映画のセリフのようなことを口にするから、よっぽど鼻先に一発入れて黙らせようかと思ったが、それもぐっと堪えた。
代わりに「今でもカメラ続けてるのか?」と訊いてみた。
「最近は忙しくてね。全然撮れてないよ」
予想通り過ぎて、予想外。逆に笑いそうになったが、それもまた我慢し、鼻をすするフリで誤魔化した。
酒も回ってきたころ、立川が急に映画の話を持ち出してきた。
「こないださ、Netflixで『ダークナイト』観たんだけど——」
ジョーカーという悪役を題材に、「あいつは純粋悪なのか?」「それとも社会の歪みが生んだ存在なのか?」などと、十年以上前に散々議論され尽くしたテーマを今さら嬉々として語り始める。
元児は、心の中で思った。
——文化レベル、低っ。
もちろん、元児自身も今日映画館に行ったのは数年ぶり。新作はおろか映画自体もうしばらく観ていなかった。だが、自分の事を棚に上げてでも、立川のその“いかにもそれっぽい話”にはイラついた。
「俺思うんだけどさ、ジョーカーを“カッコいい”って言う人、多分本質見えてないと思うんだよね。あいつはさ、社会の不条理のメタファーなわけ。だから、善とか悪とかじゃないんだよ」
語尾に“〜なわけ”が付いた時点で、元児の中の何かが切れかけていた。
陽介も早苗も苦笑いを浮かべながら、黙って話が終わるのを待っている。だが元児はもう我慢しなかった。
「そういう話、堂々と語るのやめたほうがいいよ。君だけが持ってる価値観でもないし、正直聞き飽きてるよ」
立川は一瞬言葉を失ったが、すぐに顔を引きつらせて言い返す。
「俺の感想を率直に言っただけだから、聞き飽きてるとか、他の人がどうとかは関係ないだろ」
冷静を装ってはいたが、声が微かに震えていた。
陽介が「まあまあ」と止めに入ったが、それが逆効果だった。元児はさらに語気を強め、相手を小馬鹿にした態度で思いつく限りの皮肉を言ってみせた。
しばらくすると和巳がふと冷静を装いながら言った。「陽介、ごめん。俺やっぱこいつ無理だわ。考え方が子供過ぎるよ」
この言葉を引き金に、元児は何かのスイッチが入ったように、不敵に笑いながらさらに続けた。
「何が子供だよ、お前の言う大人の対応は、そうやって呆れたポーズでもして勝ち誇った気になる事か?
大人なら大人の意見で俺を納得させてみろよ」
無言で缶ビールをすする立川の右手が僅かに震えているのを見逃さなかった。
「あれ? 図星突かれてムカついた? なんだけっけ? ジョーカーは“不条理のメタファー”だっけ?
君にそんな感性があったとは驚いたよ。流石ライブカメラマンさんは着眼点が違うねぇ」
そう小馬鹿にしてやると、立川は無言で席を立つ「ごめん陽介、今日帰るよ。また連絡する」と言って早歩きで陽介の家を後にした。
陽介は、元児の方をチラチラと気に掛けながらも立川が置き忘れたライダースジャケットを持って追いかけて行った。
静まり返った室内。早苗がテーブルの上の食器を片付けながら、ぽつりとつぶやく。
「木場君、気持ちはわかるけどさ……もう少し大人になりなよ」
居心地の悪さを感じながら、元児は何も言えず、胸ポケットから煙草を取り出した。
「禁煙だよ」
早苗がさらに一言付け加えたところで、部屋に重苦しい沈黙が流れた。
数分後、帰ってきた陽介は、気まずそうに笑いながら言った。
「今日はもう解散にしようか。またたけしと遊んでやってくれよ。来てくれて本当にありがとうな」
陽介は、どこまでも優しかった。責める言葉は一つもなかった。
これにはさすがの元児も少し良心が痛み、蚊の鳴くような声で「……悪かったな」とだけ呟き、目を合わせずに席を立った。
玄関で薄汚れたコンバースをつっかけ、靴紐も結ばぬままドアに手をかけたところで、陽介に呼び止められる。
「元児。今日、和巳が来れなくなった代わりに声かけられたって思ってるだろ? 違うからな」
どうやらこの誕生日会そのものが立川の発案で、毎年立川の家族と一緒だったらしい。だから今までは、元児を誘いたくても誘えなかったと。
しかし元児には最早そんな事はどうでもよかった。
楽しいはずの集まりも、自分がいると結局台無しにしてしまう。その現実に珍しく落ち込んでいた。
「……わかってるよ。今日は、ありがとな」
背を向けたまま一言だけ残して、玄関を出た。
五月とはいえ夜風はまだ冷たく、薄手のジャケットにTシャツ一枚の元児の惨めさをより一層引き立てた。
第二章 “不機嫌な訪問者” 完
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