第一章 “仕事だから”
JR市ヶ谷駅から徒歩十分──。
築四十年ほどの雑居ビルのワンフロアにあるオフィス。
外観は薄汚れたコンクリート打ちっぱなし。
看板には「株式会社P.D.S Design」と控えめにプリントされているが、お世辞にも“洒落た”会社には見えない。
このエレベーターは、どの階で呼んでも一度最上階まで行ってから戻ってくるという、どうにも頭の悪い造りをしている。
だから、自分の前に誰かが使ってくれていた“幸運な順路”に便乗できたことは、憂鬱な朝に訪れたちょっとした僥倖だった。
首からぶら下げたカードホルダーには、社員証のほか、ビルの入館証や交通系ICカードなど、いくつかのICタグが重なっている。
オフィスのドアにカードキーをかざすと、「ピー」と認証音が鳴る──が、すぐに重なった別のカードの磁気に反応して、「ピピッ」とエラー音に切り替わることがある。
この『OK……あ、ごめん、やっぱ無理!』みたいな反応が地味にイラッとする。
ドアを抜けると営業部のフロアに機械的な挨拶が飛び交っていた。
「おはようございます」
「お疲れさまでーす」
「来週アタマって入稿間に合いますかね〜」
そんな空気の中で、元児は一言も発さず自席に着く。
社内では「ちょっと変わった人」として若干の距離こそ置かれているが、極端に嫌われているわけでもない。
──触らぬ神に祟りなし。いや、触らぬ変人にトラブルなし。
無駄に話を振らなければ黙って仕事をしている分、かえって業務に支障がないというのが彼の評価だった。
モニター越しに資料を眺めていると、視界の端に見慣れたロングヘアの女性が入ってくる。
古い営業気質が残る男社会のなかで、中年社員たちの視線の的となる一方で、元児のようなタイプとはなぜかしばしばペアを組まされる。
「木場さん、これ今日先方に出す仮レイアウトです」
資料を机に置くと、目を合わせることもなく淡々と言った。
「十時半には出るので、それまでに目を通しておいてください。では、後ほど。」
それだけ告げると、美月は一切の間もなく踵を返した。 資料に指を差すでも、説明を補足するでもなく、まるで最初からコミュニケーションの立ち入る隙を与えないかのような動きだった。
元児は、自分に対して向けられた、その露骨なまでの嫌悪感の理由を知っていた。
──五年前の忘年会の夜のことだ。
まだ“若手”として扱われていた元児と、その後輩の女性社員という、どこか官能的な匂いのする構図を面白がった先輩社員が、「お前ら、脈あるんじゃないの?」などと下世話にからかってきた。
ぎこちなく笑ってやり過ごそうとする元児をフォローするように、美月は少し困ったような笑顔で言った。
「やめてくださいよ。木場さんにも失礼ですよ」
本人には悪気などなかったのだろう。だが、退屈な飲み会で酔いの回った元児には、その“にも”という言い回しが、どうにも引っかかった。
「……え? 今、“にも”って言った?──」
「え?」
「いや、おれ“にも”失礼ってことは、少なくとも西原さん“には”確実に失礼な話っていう前提なんだね」
一瞬、笑いが起きかけたが、すぐに止んだ。
“これはそっちのノリじゃない”と、周囲が察したからだ。
それから元児は、数十分おきに、ひとつの話題が終わるたび、美月の言葉じりを取り上げ、「……え?」から始まる屁理屈を繰り返した。まるで、その仕事に命でもかけているかのように。
いい歳をして、酒の席でうまく道化になれない元児は、その屈折した自尊心を、美月に対して静かにぶつけていた。
人間関係が壊れる瞬間というのは、得てしてバカバカしいほど些細で、呆気ない。
翌週から彼女は一切、目を合わせなくなった。
そして、その関係は五年経った現在でも修復されていない。いや、むしろ毎秒悪化していってるようにすら感じる。
この日も元児と美月は、取引先の老舗カメラメーカーに向かっていた。
営業車の運転席に座るのは美月。元児は、いつも通り後部座席に腰を下ろした。
──嫌いな男に命を預けたくない。
ハンドルを握るという行為に込められた、明確な拒絶。
何も言わずとも、それは伝わる。
車内は静まり返り、この後の流れや確認事項など、必要最低限の会話だけが事務的に交わされる。
女性特有の、相手への根源的な嫌悪が生む、容赦のない冷たさ──。
それを失礼とも考えない、驕りきった性質。
──俺だって、お前と話したいわけじゃねぇよ。勘違いすんな。
無表情のまま窓の外を見つめる元児の胸の奥には、常に小さな苛立ちが燻っていた。
馬込駅から数分。都心の喧騒から少し外れた住宅街に、三嶋光学の本社ビルは静かに建っていた。
二人が通されたのは、冷房がやや効きすぎた会議室。
歴史ある老舗カメラメーカーという看板のわりに、応接室の内装はどこか簡素で、会議机とロールカーテンの色合いが薄ぼけている。
書類の準備を済ませたところで、ノックの音。
ドアが開き、営業担当の男がにこやかな笑みを浮かべながら入ってきた。
「お待たせしました〜。今日はいい天気ですね」
浅黒い肌にサイドを刈り上げた短髪。サーモントメガネにオープンカラーシャツ、細身のスラックス。
全体的にキレイめな装いだが、足元は白スニーカー。
本来ならちぐはぐになりそうなバランスを、違和感なくまとめ上げているあたり、そういう"見せ方"には自信があるのだろう。
「本日はお忙しいところありがとうございます」
高梨は三十代前半といったところだろうか。
元児には丁寧な口調で挨拶をしながらも、早々に視線を美月へ向ける。
「西原さん、なんか今日すごく雰囲気いいですね。髪型ですか?」
「え、わかります? 少しだけ整えたんです」
「やっぱり! ほんと似合ってます。センスいいですよね〜」
そんなやり取りのあと、ようやく着席。
販促プランとカタログの構成案について簡単に確認を取ったが、本題にかかったのはせいぜい十五分ほど。
その後は高梨がほぼ一方的に繰り広げる“プライベートトーク”が続いた。
「この前の土曜、久しぶりに葉山までドライブしたんですよ。やっぱあの辺は空気が違いますよね〜」
「葉山、いいですよね。私も行ってみたいです」
「ぜひぜひ! 海沿いのイタリアン、めちゃくちゃ良かったんで。今度お教えしますよ」
──うるせぇな。
元児の心中は、静かに、しかし確実に荒れていた。
高梨のような男は、週末にどこで食べた、何を買った、誰と会った――
そんな“自分語り”しか会話の引き出しを持ち合わせていない。
当人は無邪気に語っているつもりなのだろうが、とどのつまり自分より下の人間に「お前にはできないこと」を遠回しに見せつけているようにしか見えない。
(悲しい奴め。お前の名前は、“
心の中でそう命名する。
そもそも元児という人間は、生来が僻み根性でできていた。
他人の成功談には疑いの目を向け、プライドだけは高く、妙に卑屈。
その面倒な性分のせいで、幼少期から常に孤立しがちだったが、さすがに九年も社会に揉まれれば、人並みに社交のフリくらいはできるようになる。
「へえ〜」「そうなんですね」
当たり障りのない相槌で、穏やかな表情を崩さないあたり、最低限の処世術は身につけている。
一方の美月はというと、相槌の取り方が絶妙だった。
高梨の話に食いつきすぎるでもなく無関心でもない。
言葉のチョイスも、タイミングも、すべてがちょうど良い。
元児もかつて経験しているが、この美月の相槌はなぜか無性に心地良いのだ。
僅かに残る名古屋訛りのイントネーションと、三十そこらにしては妙に落ち着いた声のトーンが、聞き手に奇妙な安心感を与える。
案の定、気を良くした高梨は、あろう事か「今度、よかったらご飯でも行きませんか? もちろんお仕事が落ち着いてからで構いませんし」と言い出す始末。
(おいコラ、メシ太郎。セクハラで訴えられろ、この歩く男性器めが)
元児は内心でそう思いながら、美月の方へ目をやる。
だが彼女は、動じるでもなく、自然な笑みを浮かべて返す。
「いいんですか? じゃあ、お仕事が早く終わりそうな日にぜひ」
──まんざらでもない様子だった。
「約束ですよ! あ、もちろん木場さんも一緒に! ね!」と、思い出したように付け加えるが、完全に余計なお世話だ。
元児は愛想笑いを浮かべたまま、「あ、はい是非」とだけ答える。
──打ち合わせという名の無駄話は、こうして静かに幕を閉じた。
帰り道。車内には、最初の五分ほど沈黙が流れていた。
しかし、元児の中に燻るものがあった。ずっと何か考えるように天井を見上げていた。
「“仕事だから”って、便利な言葉だよな」
静かな声が、後部座席から投げかけられた。
元児の頭の中で繰り広げられていた一人討論会。その二、三手先が思わず口に出てしまっていた。
運転席の美月は、ルームミラー越しに元児をチラリと見て応える。
「……どういう意味ですか?」
「あ……いや……みんなよく使うじゃん。例えばさっきの高梨さんの誘い。行くとしたら理由は、“仕事だから”になるんでしょ?」
「ええ、まあ。仕事ですから」
「でも、それ理由になってるか? 楽しそうと思ってるなら、それでいいじゃん。なんで“仕事だから”って置き換えるの?」
美月の表情が、徐々に冷たくなっていく。
「何を考えててその話に行き着いたのか知りませんが、そうだったとして、木場さんに何か関係あります?」
「いや、ないけど。なんか、俺は好きな言葉じゃないっつーか、そんな万能な言葉じゃないと思う。俺は、本当の仕事にすら、“仕事だから”なんて言葉つかいたくないけどね。」
「木場さんの考え方……なにか根本的に違う気がします」
信号が赤になり、車が止まる。
「何が?だったら、あの忘年会のことも、仕事って割り切れなかったんですか?」
何故かそこだけ敬語の元児の言葉に、美月は一瞬息を呑んだ。
「私は、“仕事だから”って言葉を、都合よく使った事は一度もありません。でも……もし仕事じゃなかったら」
彼女は一拍、間を置いた。
「仕事じゃなかったら、木場さんみたいな人と話しませんよ!」
それは鋭くて、痛いほどの言葉だった。行きの車内で、自分が思った事を、そのまま突き返されたような。
相手が女じゃなかったら、髪の毛を掴んでひっぱり回してやりたいところだ──
けれど元児は、怒るどころか、むしろ口元が緩んだ。
久しぶりに自分に向けられた、その“人間らしさ”が、なぜか少しだけ嬉しかった。
「……そっか。まあ、正しいよ、それは」
信号が青に変わり、車は静かに走り出した。
車内にまた、沈黙が戻る。
でもその空気は、さっきより少しだけ、柔らかくなっていた。
その日、元児が仕事を終えたのは二十二時を回った頃だった。
カタカタとまばらにキーボードを叩く音と、サーキュレーターが首を折り返す『カッ』という短い音だけが、オフィスに響いていた。
普段の元児は、美月と帰り道が一緒になることを極力避けるために、彼女が会社を出てしばらく経ってから自分も席を立つようにしていた。
だがその夜に限っては、いくら待っても美月がPCの前から動く気配はなかった。
資料をまとめるでもなく、ただ何かを考え込んでいるような、そんな様子だった。
元児は、無意味にエクセルを開いたり閉じたりしているだけの時間に限界を感じ、珍しく先に会社を後にした。
いつもよりわずかに早い初夏の夜風が、ビルの谷間をすり抜けていた。
市ヶ谷見附の交差点を渡り、橋へと差しかかろうとしたその時。後ろからカツンカツンとヒールの音が小走りで近づいてきた。
「木場さん」
呼び止められ、振り返ると、美月が立っていた。
「先ほどは、つい興奮してしまい……失礼な言い方をして、申し訳ありませんでした」
無愛想な表情はいつも通りだったが、その声色には明らかな緊張と誠意が混じっていた。
そして、深々と頭を下げる。
謹直な性格の彼女は、たとえ相手がどれほど虫唾が走るほどの男であっても、仮にも先輩に暴言を吐いたまま平然としていることを、どうにも許せなかったのだろう。
思いがけない謝罪に、元児は目を丸くした。
「いや……そんな、ほんとに大丈夫。気にしてないよ、別に……」
それは紛れもない本音だった。
そう、気にしていないのだ。
元児のような性分の人間は、「口論の場では何を言ってもいい」というルールの上で生きている。
“目には目を”という免罪符を振りかざし、相手が殴ってくるならこちらも殴る、暴言を吐くならそれを上回る罵詈雑言を浴びせる。ただそれだけのこと。
そこに謝罪も、許しも、必要としない。もちろん、自分自身も例外ではなかった。
だから彼女の謝罪が、意外だった。そして少し、胸を打たれた。
だが美月の方は、そんな元児の心理などお構いなしに、律儀に一礼を加える。
「ありがとうございます。今後気をつけます。それでは、また」
まるで業務メールの末尾のような定型句を残し、踵を返しかけたその時。
「あ、ちょっと待って」
今度は元児が彼女を呼び止めた。
「その……さ、せっかくだし。久しぶりにちゃんと喋ったし、一杯だけ、どう?」
言ってから、どこか照れたように視線を泳がせる。
「ほら、さっきの”仕事だから”ってやつでさ」
卑怯な理由だと自分でも思った。だが、美月は一瞬の沈黙のあと、小さくため息をついて言った。
「……少しだけなら」
週末の繁華街は、仕事帰りのビジネスマンやOLたちで賑わっていた。
平日の疲れを置き去りに、明日が休みという事実だけを胸に嬉々として歩く人波のなかを、元児と美月は間に大人一名分ほどの距離を保ったまま歩いていた。
二人が辿り着いたのは、少し坂を登ったところにあるごく普通の大衆居酒屋だった。焼き鳥の煙とタレの香りが店の外まで漂ってくる。
古びた木製の扉をくぐり抜けると、客でほどよく賑わっている店内に、空席がわずかに残っていた。
「個室とカウンター、どちらにしますか?」と若い女性の店員に問われ、美月は一瞬だけ元児の顔を見たが、すぐに「カウンターでお願いします」と返した
元児は、美月が自らカウンター席を選んだことに、妙な引っ掛かりを覚えた。
(正面のテーブルじゃなくて、横並びのカウンターか……)
ふと、昔どこかで読んだ心理テストを思い出した。「人がどの席に座るかで、その相手との心理的距離が分かる」というものだった。
たしか、正面に座るのは真剣に向き合いたい相手、斜め前はビジネスライクな関係、そして横並びは、心を許した相手――だったか……?逆か?
肝心なところを思い出せず、自嘲気味に苦笑しつつ、カウンター席の端に腰掛ける。
「生でいい?」
元児がメニューを開きながら聞く。
「あ、私はブラッディメアリーで」
「……OK、適当につまみ頼むけど、食べれないものある?」
「いえ、大丈夫です。お気遣いなく」
「普段、お酒飲むの?」
「えーと……週末だけ、少し飲むくらいですね。はい」
末梢的で生産性のない会話が、ひとしきり続いた。
基本的に、女性というのは、興味のない男の質問に対していちいち考えて答えたりしない。
当然、答えた後に「そちらはどうですか?」と問い返してくるような気の利いたこともしない。
男女の酒の席で度々見られる、取り調べ室の質疑応答のような構図は、こうして生まれるのだ。
話を広げようにも、共通の話題が仕事以外にはない。
かといって、こんな店でプレゼン資料の話やクライアントの愚痴をぶつけるのも、間違いなく興が削がれる。
結局、ビールを流し込むことだけが救いだった。
横を見ると、美月は黙ってメニューの文字を追っていた。まるで「この沈黙を破るつもりは一切ない」と決意でもしたかのように。
(OKしておいて、黙るんじゃねぇよ。てか、一杯目から何飲んでんだよ、気持ち悪りぃな……)
元児の苛立ちが、少しずつ押し寄せてきたところで、枝豆と出汁巻き卵、焼き鳥の盛り合わせが運ばれてきた。
「お飲み物、何か追加しますか?」
店員にそう聞かれ、元児はジョッキを置いたまま言った。
「あ、じゃあ、生もう一杯」
美月は、まだ半分ほど残ったグラスの口にそっと手を添えて、「あ、私はまだ大丈夫です」と笑顔で店員に答えた。
そしてまた沈黙が流れる。
箸をつけたタイミングで、意外にも美月のほうから口を開いた。
「木場さんって……音楽やってたんですよね?」
美月の問いに、元児は箸を持つ手を止めた。一瞬、目線を泳がせ、それから静かに美月を見る。
「……え、何で知ってんの…?」
「人事の大田さんが言ってました。木場くんギター弾くんだよーって」
そこに新しい生ビールがやってきた。元児はそれを流し込み、何かを答えるでもなく、ただ首を縦に二回、小さく振った。
「……ボーカルもやってたんですよね?」
今度は答えるまでに、数秒の間が空いた。美月が手に持ったグラスの氷がカランと揺れる音が、その沈黙を埋める。
「……まあ。うん。ギターと歌だね」
「本気でやってたんですか?」
その言葉に、元児の視線が止まる。美月の顔を見るでもなく、何かを押し込めるように、まぶたの裏を見ているような目つき。
「……どうだろうね。今となっちゃ、何が“本気”だったのか……」
それは肯定でも否定でもない、ただ過去を遠ざけるような言い方だった。
美月は少し口をすぼめた。
「でも……音楽って、すごく熱量が要るじゃないですか。情熱とか、覚悟とか」
「……だったのかもね。昔は」
元児はようやく笑った。が、それは皮肉にも似た笑みだった。自分でも処理しきれない何かを、無理やり外に押し出すような。
その時、通りかかった店員を呼び止めた元児は、空になったジョッキを手渡して言う。「あ、ハイボールいいですか?」
「かしこまりました。お連れ様は?」美月は少し考えてから、「あ、じゃあ……ステアウェイ・トゥ・ヘブンを」
──だから、なんだよそれ。ねぇよ、そんな酒。
と思いながらも、店員は厨房に大きな声で注文を通した。
「ハイボールイチー! ステアウェイ・トゥ・ヘブンイチー!」
元児が思わず二度見している中、美月がぽつりと口を開く。
「なんか、聞いちゃいけないことだったらごめんなさい」
「あ……バンド?別に……そんな重い話じゃないよ」
ただ、言葉が続かない。
沈黙が少しだけ重くなって、またグラスの氷が音を立てる。その音だけが、二人の間で過去を語る代わりになっていた。
「……今は?目標にしてるものとかあるんですか?」
元児は一瞬、曖昧な笑みを浮かべてハイボールをあおると、頭の中の言葉を少し整理してから、「いや、別に……なんも。特にないよ」と答えた。
「虚しくないですか?」
美月の声音が、すこし硬くなる。目はグラスの氷を見つめたままだ。
「私は……どんなに難しくても、目指したいものがないと、つらいです。仕事でも趣味でも……別に誰かに認められなくてもいい。ちゃんと、自分がやりたいことをやってるっていう実感がないと、耐えられない」
元児は言葉を挟まず、黙って聞いていた。
「なんか……木場さんって、全部に冷めてるじゃないですか。どうせダメだって思ってる。そういう人って、一緒にいても、どんどん気力を吸われる感じがするんです」
そう言って、美月は少しだけ口元を歪めた。
「木場さんにとっての社会とか仕事って一体何なんですか?」
元児は、指先でグラスの縁をなぞりながら唐突に口を開いた
「……モヒカンってわかる?」
「モヒカン? えっ、あの、てっぺんだけ残す髪型の?」
「そう。高校のときね、一回停学食らった事があってね、俺の通ってた高校さ、停学明けは坊主強制っていう校則だったんだよ」
「え、それって罰則ですか?」
「うん。で、どうせ坊主にされるなら、やってやろうと思って。前日の夜、風呂場で鏡見ながら、自分でハサミで切ってさ。側頭部を全部刈り落として、真ん中だけ残してモヒカンにしてみたんだけど、もうめちゃくちゃで、前から見たらただの雑草だったけど」
美月は目を丸くして笑った。
「で、その頭で学校行ったんですか?」
「もちろん。朝、クラス入ったらザワついてたよ。担任が何も言わずに呆れてた。でも結局、生活指導の教師に呼び出されてさ。顔真っ赤にしてバリカン持ってきて、校庭で、無言で五厘刈りにされたよ」
「漫画みたいですね、それ」
元児はうっすら笑って首をすくめた。
「でさ……今の自分は、あの時のモヒカンなんだと思ってる」
「どういうことですか?」
「坊主になるのが決まってるから、最後に変な抵抗してみただけ。結果が変わるわけでもないのに、なにか“自分で選んだ感”だけ残したかった。……いまの会社での毎日も、それとあんまり変わらない気がするんだよね。本当は全部なにもかも諦めてて、後はもう死ぬだけだからなんでもいいや〜って、やってるフリしてるだけなのかもしれない」
その言葉に、美月の表情がすっと冷えた。
「……そういうところが、嫌です」
「え?」
「そういう、全部を達観したふうに話すところ。自分を見限った風にして、まるでそれが正しいみたいに。ほんと、そういうの……嫌なんです」
元児は、思わず言葉を失った。何も言い返せなかった。けれど、自分の薄汚れた皮膚の奥に、誰かのまっすぐな怒りが突き刺さってくるのを感じた。
美月は静かに箸を置くと、ふいに何かに気がついたように言った。
「……え?ていうか……なんですか? モヒカンと、今の人生って。──全然違うじゃないですか」
「え……」
「いや、モヒカンは木場さんの“衝動”の話でしょ? 今の人生はただの“怠惰”の話で、全く関係ないじゃないですか。モヒカンの話したかっただけじゃないですか」
「いや、まって、この話の大事なところは──」
「──そもそも! 私の質問はどこにいったんですか? 答えになってないじゃないですか」
「いや、だから言ったじゃん、それは──」
「──言ってないです。なんか遠い目して語り始めて、気が付いたらモヒカンになってました」
少し間をおいて、美月は上目遣いで睨むように言った。
「木場さん、私は質問したんです。人のQには、ちゃんとAで返しましょう。そういうところですよ」
美月は、再び目を逸らし、静かにグラスを手に取る。
元児は眉間に皺を寄せ、グラスの底に残った氷を揺らしながらつぶやいた。
「……ていうか、なんだよ突然。やけにペラペラ喋って……」
美月は無言でひと息ついたあと、グラスをテーブルに置き、ちらりと視線を向ける。
「“仕事だから”です。──じゃなかったら木場さんみたいな人と話しませんよ」
一拍の沈黙のあと、元児も静かにグラスを持ち上げた。
「まあ……それが、正しいか……」
カラン、と氷が当たる音がして、2人は最後の一口を飲み干した。
あの日以来、誰ともぶつからないように生きてきたはずの男が、久しぶりに真正面からぶん殴られたような夜だった。
第一章 “仕事だから” 完
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