藤原家の雇い妻、ところにより狐の嫁入り

51-koi-

壱ノ章

ざぶり




 ――……落ちていく。



 吸い込まれるように。

 縋られているかのように。


 暗く、深い、水の底へ。

 ゆっくりと。ゆっくりと。


 まるで、時など止まっているかのように。

 限りない、永遠の時間を。

 ゆっくり、ゆっくりと落ちていく。




 降り注ぐ光は、遠く微か――。



 ……もう一度だけ、足掻いてみようか。

 また水草が絡まり、今度こそ体の自由を失うだろうか。




 ゴポッ――……




 体の内側から、最後の空気が出ていく。


 少しずつ。ゆっくりと離れていくそれが少しだけ。

 ほんの少しだけ、綺麗だなと思った。






『はあ。……まだ捜すの? タチバナさん』



 遠ざかる意識の中、ふと思い出す。

 こういう時は、今まで生きてきた数々の素敵な思い出が、走馬灯のように蘇るのではなかったかと。



『でも悪い気はしないだろ。顔が似てる子宛がえて』

『それは……』

『……どういう、ことですか』



 思わず苦笑がもれた。

 最後の最後で思い出すものが、これでいいのかと。


 素敵な思い出か。

 一体誰なのだろうな。そんなことを初めに言い出したのは。




 思い出は蘇らなかった。

 でも、その代わりに溢れたものがある。



 自己実現。承認欲求。そして――愛。



 けれどその中に、今この瞬間に欲するべきものがなく、少しばかり残念に思う。


 まさか、こんなわけのわからないところで尽きようとは。



“――いいか。裏山には決して近付くな”



 これはきっと、約束を破った罰なのだ。




 そんな、ちっぽけな運命に自嘲しながら。

 遠くの方で聞こえた、微かなざぶりという音を最後に。


 体の力。感覚。意識。

 最後に言えなかった、感謝と謝罪以外。何もかもを全て、放り出そうとした。




「――うっ、かはっ……!」



 内側からせり上がってくる感覚には、覚えがある。

 喉の奥が焼けるように熱くないということは、どうやら直前まで飲んでいた焼酎ではないらしい。



「ごほっごほっ。はあっはあっ」



 喉の近くに閊えていたものが全て吐き出されると、酸素が肺を満たしていく。


 ということは、助かったのだろうか。




 ……ぽつり。頬に水滴が落ちてくる。

 けれど、太陽の眩しさに上手く瞼が上がらない。


 薄く、本当に薄く目を開けて。

 そうしてようやく見えたのは、逆光に照らされた一つの影。


 心配そうにこちらを覗き込むそれが、きっと助けてくれたのだろう。



「……か、……で……」



 ――泣かないで。



 落ちてきた雫は、この人の涙だと。

 何故そう思ったのかはわからない。


 もしかしたら、数少ない思い出にいるその人と少し重なって見えたからかもしれない。



 ……どうして、このタイミングで。



 小さく笑いながら、遠退く意識の中そっとその記憶へ手を伸ばす。




 それに触れた瞬間。

 何もかもが、泡のように弾けて消えた。





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