幕間「虎岩の記憶と月下の省察」(スニク様視点)

————スニク様視点


明後日、妾たちはこの島を発つ。


月光が島を青白く照らす夜、人型の姿となった妾は、一人で虎岩への道を歩いていた。



休眠から目覚めて以来、鈍っていた感覚は日々研ぎ澄まされ、力もかなり取り戻せてきた。


じゃが、それと同時に、この島に満ちる異質な気配もまた、より鮮明に感じられるようになっていた。



月光を浴びて浮かび上がる虎岩は、昼間とは比べ物にならぬほど不気味な存在感を放っている。


岩のくぼみが作る二つの穴が、まるで闇に沈んだ巨大な髑髏の眼窩のように、妾をじっと見つめている。



「変わらぬな、お主も」



妾は岩に向かって独りごちた。



この岩を初めて見たのは、もう何百年前のことか。


人の世はうつろい、島の形さえ少しずつ変わっていくというのに、この岩だけは悠久の時の中、ただ同じ姿でここにあり続ける。



妾は岩肌にそっと手を触れた。氷のように冷たいはずの岩が、なぜか微かな温もりを帯びているように感じる。


まるで、その分厚い石の奥で、何かが脈打っているかのような……


裂け目に近づき、中を覗き込む。


小さな子供がかろうじて身を滑り込ませられるほどの、狭い闇。



記憶が、満ち潮のように寄せては返す。



八十年ほど前、人の世が戦の炎に焼かれていた頃。


忠清は島民を守るため、島の各所に防空壕を掘っていた。


この虎岩にも掘られたが、結局は狭すぎて使われなんだ。



じゃが、空襲の恐怖に怯えた一人の童が、母親の制止を振り切り、あの狭い隙間へと逃げ込んだ。


名前も、顔も、もう思い出せぬ。


じゃが、小さな手が岩の闇に消えていく光景だけは、今も瞼の裏に焼き付いておる。


妾は、あの子を守れなんだ。



「朔夜よ、お主は知っていたのじゃな。この島の、この岩の真実を」



月影院朔夜(げつえいいんさくや)。かつての盟友にして、妾がその手で討たねばならなかった者。



彼と最後にこの島を訪れたのは、百年以上も前のこと。


彼はこの虎岩を前に、静かに、しかし確かな恐れをその瞳に宿して言った。



『この島には、呪いがある。いや、呪いではない。もっと古い、根源的な何かだ』



『いずれ分かる。歴史は繰り返される。いつか必ず、純真な魂がこの岩に導かれ、そして扉が……』



『だからこそ、約束してくれ。もし、その時が来たら——止めてくれ。何としても』



妾は頷いた。その約束の本当の重さも知らぬまま。



その時だった。


虎岩が、ぶるりと微かに震えた。否、震えたように見えただけか。



じゃが、それと同時に、妾は感じた。


遠く、沖縄の方角から放たれる、微弱ながらも禍々しい波動。


それが、この虎岩と共鳴しているのを。


妾は踵を返し、屋敷への道を歩き始めた。



*  *  *



屋敷に戻ると、妾は縁側に座り、月を見上げた。


あれほど荒れ狂った嵐が嘘であったかのように、夜空には洗い清められた月が皓々と輝いておる。


この数日間の出来事を、静かに反芻する。



桐人は命を奪うことの重さを知り、さくらは守られるだけではない強さの萌芽を見せた。彼らはこの島で、確かに成長した。



じゃが、それと同時に、彼らが生まれながらにして背負う宿命の輪郭も、また、よりはっきりと浮かび上がってきたように思える。



桐人が持つ、異常なまでの色欲の煩悩。


それは、ただの呪いというにはあまりに根深く、彼の魂そのものに絡みついておる。



そして、さくらの内に秘められた、復讐心と自己否定という深く暗い煩悩。


両親を奪われた怒りと、何もできなかった自分を責める心。


その二つの焔は、彼女の中で静かに燃え盛り、いつかその身さえも焼き尽くしかねん危うさを秘めておる。



これほどの業を背負う若者が、二人同時にこのオコゼ島に集うたのは、果たして単なる偶然の一致なのじゃろうか。



それとも、この島が……


いや、この島に眠る何かが、彼らを引き寄せたとでも言うのか。


まるで、これから始まる儀式のために、必要な役者を盤上に揃えるかのように。



「朔夜よ、お主が恐れていたのは、このことなのか?」



煩悩とは、実に厄介なものじゃ。それは諸刃の剣。


常人には過ぎた代物であり、心を蝕む毒にもなる。



じゃが、それを己の一部として認め、御し、力へと昇華させることができた者だけが、真の強者となりうる。



桐人もさくらも、その素質は十分に持っておる。


じゃが、若さゆえの純粋さが、危うい均衡の上で綱渡りをさせているようにも見える。



これから先、彼らを待ち受けるであろう過酷な運命の中で、その心を強く保ち続けられるか。


力に飲み込まれることなく、己であり続けられるか。


それが、彼らにとって最大の試練となるじゃろうな。



短毛丸の内に宿る、あの異質で制御されぬ力。


忠清の、あまりに不自然なまでの沈黙。



そして、あの虎岩が妾にだけ見せた、微かな震え……


全てが、一つの線で繋がっておるような気がしてならん。




この島は、ただの隠れ家ではない。


何かの蓋の役割を果たしておるのかもしれぬ。


そして、その蓋が今、開かれようとしておる。



月が急速に流れる雲に隠れ、庭が深い闇に包まれた。


嵐は去ったのではない。


本当の嵐は、まだ始まったばかりじゃ。



桐人たちがこの島を発った後、この地に、そして彼らの行く末に、一体何が待ち受けているのか。


妾にできることは、ただ彼らの成長を信じ、来るべき時に備えることだけじゃ。


そう呟いて、妾は静かに屋敷の中へと姿を消した。

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