第6章「貝殻の約束」
第1話「ウトちゃん失踪」
【前回までのあらすじ】
台風が島を襲う嵐の夜、桐人はスニク様に「万が一の時は殺してくれ」という重い約束を交わした。自らが背負う宿命の重さと向き合う中、容赦なく吹き荒れる風雨の音を聞きながら、彼はウトちゃんの身を案じていた。そして、嵐が最も激しくなる朝を迎える。
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屋敷全体が、まるで巨大な獣の咆哮に包まれているかのように、激しい雨風の音に揺れていた。
この轟音の中では、どうせ誰も朝寝などできはしない。
俺たちの朝稽古は、いつもより早い時間から始まった。
道場の雨戸は固く閉ざされ、蝋燭の光だけが頼りの薄暗い空間。
時折、風に煽られた何かが壁に叩きつけられる轟音が響き、建物全体が悲鳴のように軋む。
「桐人よ、動きが鈍いぞ」
闇の中から伸びてきたスニク様の木刀が、俺の脇腹を鋭くかすめる。
「くっ……!」
避けきれずに、また一本取られた。
台風がもたらす湿気で道着は肌に張り付き、思考も体も重く沈んでいる。
「其方は目が良いからと言って、目に頼りすぎておる。この薄暗さでは、いくら自慢の動体視力とて限界があろう」
スニク様が木刀を下ろし、呆れたように俺を見下ろす。
「じゃあ、どうすれば……」
肩で息をしながら尋ねると、スニク様は急にニヤリと得意げな顔になった。
「Don't think. Feel!」
(どこかで聞いたセリフだな……)
「考えるな、感じろ、ということじゃ」
スニク様はそう言うと、左手の手のひらを上に向けて、前に伸ばし、人差し指から小指までをそろえて、クイクイと曲げた。
(スニク様、あの映画まで観ていたのか……)
「目で見てから反応するのでは遅い」
スニク様はそう言うと、親指でくいと鼻をこする、あの独特の仕草をした。
「相手の気配、空気の流れ、殺気の揺らぎ、その全てを肌で感じ取るのじゃ。アチョー!」
最後に放った奇声は、正直あまり似ていなかった。
その時だった。
ドンドンドン!
嵐の轟音に混じって、激しく玄関の扉を叩く音が道場まで響いてきた。
この暴風雨の中、一体誰が。
「ごめんください! 突然の来訪、お許しください!」
女性の、叫び声に近い必死の声。明らかに尋常ではない。
「桐人、見てまいれ。よほどの緊急事態じゃろう」
スニク様に顎で促され、俺は道場の扉へ走る。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。
(まさか、ウトちゃんが……)
昨日の、嵐を怖がって泣きじゃくっていた顔が脳裏に浮かんだ。
玄関の扉を開けると、凄まじい風雨が容赦なく吹き込んできた。
一瞬で顔中が濡れる。
「ああ、桐人様!」
そこに立っていたのは、全身ずぶ濡れになったウトちゃんの母親だった。
顔は青ざめ、唇は紫色に震えている。
雨と涙でぐちゃぐちゃになった顔で、彼女はか細い声を絞り出した。
「うちのウト……ウトは、こちらにお邪魔していませんでしょうか」
その言葉に、俺の心臓が氷水に浸されたように冷たくなった。
「家にいないんですか?」
俺は努めて冷静に尋ねた。
「朝食は一緒に取ったのですが……私が少し目を離した隙に、いつの間にかいなくなっていて……」
「村中を探したのですが、どこにもいなくて。いつも桐人様のところへ遊びに行きたがっていたから、もしかしたらと……」
母親の声は、絶望に震えていた。
(まずい、これは本当にまずい)
この暴風雨の中、五歳の子供が一人で外にいる。考えただけで、血の気が引いていく。
「俺、探してきます」
俺の声を聞きつけ、爺さんとさくらも扉に集まってきた。
「事情は聞こえていた。わしも一緒に行くぞ」
爺さんが、すでに雨具を手にしている。
「私も行きます。こんな嵐の中、一人で外にいるなんて……」
さくらの表情も、恐怖と心配で青ざめていた。
「ありがとうございます……! ご迷惑をおかけして、本当にすみません……!」
母親は何度も頭を下げ、その場に泣き崩れた。
俺とさくらは雨具を身につけると、荒れ狂う嵐の中へと飛び出した。
「ウトちゃーん!」
「どこにいるのー!」
声を張り上げても、風雨の音にかき消されてしまう。
闇雲に探しても埒が明かない。一旦立ち止まり、俺たちが思考を巡らせたその時だった。
「……虎岩じゃないですか?」
さくらが、何かに気づいたように呟いた。
「どうしてそう思う?」
「わかりません。でも、なんとなく……あの子、あの場所が特別だと言っていましたから」
「それに、昨日の嵐を怖がる様子……もしかしたら、悪い子を食べるという虎さんに、何かお願いをしに行ったのかもしれません」
その言葉に、俺はハッとした。
そして、最悪の可能性が頭をよぎる。
「虎岩の近くには、ため池がある。この雨で増水していたら……」
俺の言葉に、さくらの顔が絶望に染まった。
「急ごう」
「はい! 時間との勝負になるかもしれません!」
俺たちは、互いの覚悟を確かめるように頷き合うと、再び暴風雨の中を駆け出した。
ウトちゃんの無事を祈りながら、ただひたすらに。
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