4話「優しい秋」
この川岸にも秋がやってきた。赤トンボが飛び、鈴虫が鳴く。カルガモは大規模な群れを作り、向こう岸に集まっている。可奈は河川敷の階段に腰かけ、『人間失格』を読んでいた。
「あのさ、スカートに気をつけた方がいいよ」と僕は言った。
「えっち」
可奈はスカートを両手で抑えた。
「見たんだ」
「見てないよ。見えそうだから言ったんだ」
善意のつもりで言ったのだが。やはり人間関係は難しい。可奈は僕が拾ったゴミの量を確認し、となりを歩き始めた。
「人間失格を読んでると、辛くならない?」と僕は聞いてみた。
「うーん。辛いけど、嬉しくもあるわ」
「どういうこと?」
「私には理解者がいる、と思えるから」
それが文学の持つ重要な役割の一つなのだろう。はたして、僕は『人間失格』を最後まで読んだのだろうか?
ゆっくりと歩き、いつもの休憩スポットに着いた。倒れた冷蔵庫や小型バイクは不法投棄されたままだ。この光景にも慣れてきた。僕は辺りを見渡して、冷蔵庫に腰かけた。相変わらずひんやりしている。可奈は地面の花を見ていた。
「カルガモにエサをやるのはやめたんだ」と僕は言った。
「どうして?」
「野生に干渉するのは僕のエゴだと思ったから」
「そうなんだ」
可奈は泳いでいるカルガモに手を振ったが、無視されていた。
「ただ、あのカラスは違う気がする」
可奈は僕の方を向いた。
「人が釣り糸を捨てたせいで、足を失ったから?」
「そう。直接的な人間の被害者なんだ。そして、それを助けるのは人間の責任だと思う」
「本当は捨てた人の責任なんだけどね」と可奈は静かに言った。
話を聞いていたかのように、いつものカラスが舞い降りた。ゆっくりとこちらに跳ねてきて、ついに僕の右腕に飛び乗ったのだ。
「わっ!」と可奈は驚き、目を見開いた。
僕が左手にエサを乗せると、カラスは器用に食べ始めた。手をつつかないように気を使っているようだ。指でカラスの頭を撫でると、猫のように
しばらくすると、カラスは僕の腕から飛び降りた。今度は地面を
日陰でじっとしていると、少し肌寒くなってきた。僕はストレッチをして、辺りのゴミを拾う。タバコの吸い殻が二つ。
「ねえ、あなたがゴミ拾いをするのも、自然への
「そこまで立派なものじゃないよ。僕はただ、誰かと比較しないと安心できないんだと思う」
「比較? お兄さんはむしろ、他人と比較しない人に見えるけど」
「確かに、いい車に乗って、ブランド物を身に着けて――とか、そういう表面的なものには興味がないね」と僕は言った。
「気になるのは、物ではなく心の比較だよ」
「心の比較」と可奈は繰り返した。
「この川には、ゴミを捨てる人間と、そのゴミを拾う人間がいる。明らかに後者の僕の方が人のためになっている。自然保護の観点から見れば、僕の方が上だし、尊敬されるべき人間なんだ。いや、わかってる。そんな考え方が不健全だってことくらい。でも僕は、その他に自分の抱きしめ方を知らないんだ」
可奈は嬉しそうに笑っていた。
「そんな考え方だから友達ができないのよ」
不思議と嫌な気はしなかった。可奈の言葉に悪意はなく、むしろ愛がある。
「そういえば、元カレもよくポイ捨てをしたわ」と可奈は懐かしむように言った。
「私を捨てたのと同じようにね」
僕は何も言わなかった。何も言えなかったのだ。
「ねえ、寒くなってきたからさ。お兄さんの家で
「それは……ダメだよ」
「え~」と可奈は駄々をこねるように言った。
「お礼に私のこと好きにしていいからさ」
耳が熱くなった。そんな挑発に反応してしまう自分が情けない。
「結構いい体してるのよ、私」と可奈は言った。
「それに、童貞でも気にしないから」
「勝手に決めつけないでよ」
実際、僕は童貞じゃない。本当だ。
「ねえ、想像してみてよ。鍋を囲んで、テレビでも見ながら笑い合うの。二人の距離は少しずつ縮まるでしょう? お酒なんかも飲んだりしてさ。そうすると、頭がふわふわしてきてね。『もういいや。一度きりの人生なんだから、やりたいようにやろう』って。あとは男と女になるだけよ。時間も立場も忘れて、好きなだけ楽しんで、疲れたら抱き合って眠るの」と可奈は言った。「こんな土曜日って素敵じゃない?」
危うく
僕は考えてみた。仮に彼女を家に上げたとする。そこで万が一、むこうから体を求めてきたとしたら、僕は拒めるだろうか? そんな想像をしてしまう自分が嫌になり、僕は首を振った。
「とにかく、家には上げられないから。寒いなら歩いて温まろう」
僕は立ち上がった。
「つまんないの」
おそらく可奈は、本当に僕と寝たがっているわけではない。彼女はわがままを言いたいのだ。親に甘えられなかった分まで。そんな彼女のために、僕には何ができるだろう?
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