炎天下の化け物
亜咲加奈
第1話 炎天下の化け物【第二回さいかわ葉月賞参加作品】
真っ青な空と白熱する太陽、加えて東の空に存在を主張する入道雲。外回りを終えた沙羅がプルオーバーの半袖ブラウスの下に着たキャミソールは汗を吸ってすぐ乾くという触れ込みだからまとめ買いしたのに肌に汗でべっとりと貼りついている。タイトスカートの下に履いたストッキングは冷感と銘打っていたのにしっかり汗を吸って両脚を濡らしている。五センチヒールのパンプスが足を締めつける。
不快だ。夏なんて大嫌いだ。まして今日も最高気温が更新されてしまった。こんな炎天下で外回りなんてどうかしている。
ディスプレイに表示された車外の気温は四十度。カーエアコンの設定温度は二十四度。車内にいるぶんには快適だが、目的地で遂行しなければならない義母からの命令は炎天下での外回り以上に不快でしかない。
「芽衣と連絡が取れないの。沙羅さん、あなた、あの子と仲良いじゃない。ちょっと様子、見てきてくれない」
仲良いわけじゃない、と沙羅は心の中で言い返した。芽衣が勝手に接近してきただけだ。勝手に接近して勝手に好意をなすりつけたくせに、手のひらを返したように無関心になっただけだ。手のひらを返したと沙羅が芽衣になじっても、芽衣は平然とそんなことはないのにと否定し、またお話ししましょうねとしなだれかかってきただけだ。
義母とは不本意ながら無料通話アプリでつながっている。結納が済むや、いきなり沙羅の目の前にそのアプリの二次元コードを突き出したのである。
「今日から親子なんだから、連絡先、交換しましょ」
断ることができない雰囲気だったのを今でも覚えている。
外回り中、社用車のエンジンをかけようとしたとたんに鳴り響いた着信音になにごとかと画面を確認したのが運の尽きだった。義母からの通話要請だ。無視するわけにもいかない。いや、無視してもよかったのだが、義母はしつこい。沙羅が応答しなければ三分おきに着信を残すだろうことは、明彦と結婚して以来十二年の経験から予想できた。
「仕事中なので今すぐは無理です」
不機嫌が声に出ないように配慮したつもりだったが、義母はどう認識しただろうか。
「あなたが仕事中なのは重々承知しているわよ」
いつもどおりの、本人は自覚していないだろうが聞く人にははっきりとわかる、相手を見下しているとしか感じられない口調が返ってきた。
「お電話はなさいましたか」
「電話してあの子が出てたら、あなたに電話なんかしないわよ。明彦は出張中でしょ。圭吾や万里や奈津美もまだ小学生じゃない。あなたしかいないのよ」
いちいち癇に障る言い方しかできないのだろうか。沙羅はわざとスマホの近くで聞こえるように溜息をついた。
「とにかく行ってみて。そしたらまた電話して。あたしもお父さんを病院につれていかなくちゃなんで、出られるのは夕方以降になるけど」
義父は毎日の医療ケアを必要とする。義母は小学校教諭を定年退職したあと義父の介護を一人で続けてもう三年になる。技術者として大手メーカーに勤務し毎日の帰宅が午後九時十時が当たり前の明彦にも、さまざまに課題をかかえた芽衣にも頼れないからだ。
沙羅は無言で義母の「ちょっと、聞いてるの、沙羅さん」という声もろとも通話を切断した。
定時で社屋を出たあと、まず沙羅は学童保育所に急いだ。圭吾・万里・奈津美をピックアップし、自宅へ送り届ける。
「お母さん、芽衣おばさんの様子を見に行くようにおばあちゃんから頼まれたの。ちょっとお留守番していてくれない」
「また?」
長男の圭吾が顔をしかめる。
「おばさん、どうしちゃったの。このところずっとこんなじゃん」
「体調よくないみたいね」
「あの人、嫌い。いつも僕らをにらんでくる」
次男の万里が小さな、しかしはっきりと周囲に聞こえる声を発した。
「あたしも嫌い。だってずっとタブレット見てるじゃん。あたしがそばに行くとにらんで隠してさ。感じ悪い」
長女で末っ子の奈津美も口をとがらせる。
「俺もあの人嫌い。なんか、俺らのこと、バイキンみたいに見てくるから。お母さん、行かなくてよくね?」
確かに芽衣は子供が嫌いであるようだった。嫌いというよりは、自分の生存をおびやかす敵として認識しているようだった。
彼女は結婚しているが子供はいない。努力したのに授からなかったのか、もともと授かる気がなかったのか、それとも夫婦のどちらかに疾患があって授からないだけなのか、沙羅は直接確かめたことはない。
沙羅は小学生に戻ったみたいにプルオーバーの半袖ブラウスの裾を握りしめた。
「お母さんだって嫌だよ。行きたくなんかないよ。でもおばあちゃんに言われたんだもん。おばあちゃん、お母さんが言うとおりにしないと、あとですごい嫌味言ってくるもん。そんなのやだよ」
万里が沙羅に気づかわしげな視線を送った。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「いってきます」
奈津美が沙羅の腰に抱きついた。
「夕ごはんは?」
「遅くなるようなら電話してよ。冷凍食品かなんか食べとくから」
圭吾には彼の父親である明彦が以前使っていた自分のスマホを与えていた。電話番号登録が不要な無料通話アプリをインストールし、両親と通話やメッセージのやり取りをできるようにしてある。自宅には固定電話はない。
「ありがとう」
子供たちを自宅に残し、沙羅は芽衣の自宅をスマホの地図アプリで検索して表示させ、スマホと車をHDMIケーブルで接続した。中央の大きなディスプレイに地図が表示され、ナビゲーションが始まる。
案内されたのは、安普請の貸住宅が並ぶ一画だ。空いている砂利の上に車を停める。
ドアを開けたとたん、逃げ場のない熱気が襲いかかる。
来るんじゃなかった。いや、そもそも、義母の頼みなんか、聞くんじゃなかった。芽衣と仲が良いだって? 冗談じゃない。
引き戸を開けて顔を出した芽衣は目の下の隈が濃かった。
まず吹きつけてきたのは、きんきんに冷えた冷房の送風だった。
次に襲ってきた臭いに沙羅は嘔吐しそうになった。くさい。生ごみと体臭と汗の臭いと排泄物の臭いが充満している。窓を開けて空気の入れ替えをしようなんて概念は芽衣にはないに違いない。
玄関先には靴が散乱している。夫との二人暮らしであるはずだが、靴脱ぎ場を埋め尽くす靴の数は五人家族の沙羅の自宅よりも多い。
芽衣の背後の床には自治体指定のごみ袋のかたまりが並び、脱いだばかりなのか洗濯したのかしていないのか分からない衣類が死体のように伸びている。片づけることが苦手なのか、そもそも片づけるという概念がないのか、散らかっていても平気なのか、沙羅にはわからないし確かめる気もない。沙羅は散らかっている部屋が大嫌いだ。三人の子供たちのための子供部屋が一室設けてあるが、整理整頓されている状態とは十万光年以上ものへだたりがある。だから沙羅が子供たちのブーイングを浴びながら猛然と片づけている。居間もキッチンも洗面所もトイレも同様だ。
にゃあん、と猫が鳴きながら、とてとてと玄関先に歩いてきた。初めて見る。生後一年以上経過しているだろう。飼い始めたのだろうか。
「何ですか、お義姉さん」
寝起きのような顔と声だった。初対面であり実情さえ知らなければ、十人中十人が彼女をかわいらしいと素直に思うだろう。そこにははっきりと沙羅への甘えがコーティングされている。吐き気を覚えて沙羅は顔をゆがめた。芽衣の前だろうがかまうものか。こっちはあのいけ好かない義母の頼みを断り切れずにおまえなんかのこぎたない家に来てやってるんだから。
「おかあさんの電話にくらい出なさいよ」
芽衣はキャミソールワンピースを着ている。おそらくカップつきだろう。黒いワンピースは彼女の白い肌をよけい白くきわだたせている。
「もしかして、母から頼まれて、あたしの様子を見に来たんですか」
「そうじゃなきゃ来てないわよ」
「お母さん、またよけいなことして」
芽衣は横顔を沙羅に見せた。
「上がってって言いたいところだけれど、こう散らかっていては、ね」
「玄関先で結構よ」
「せっかくお義姉さんに来てもらったのに、申し訳ないわ」
芽衣は媚びを含んだ目を沙羅に流し、舌先で唇をぺろっと舐めた。胃の内容物が急速に沙羅の食道を上昇し、沙羅は口を手のひらで覆う。
「私は早く帰りたいのよ。あなたが無事であることを確認したら、お義母さんに電話する約束なの」
つっけんどんに言い、沙羅は腕時計を見た。午後六時三十分。義母が応答するかどうかはわからないが、芽衣の声を聞かせれば現状を把握できるはずだ。スマホで義母の連絡先を検出し、通話ボタンを押す。
「あら、沙羅さん。どうだったかしら」
また怒りがわいてくる。沙羅は無言で芽衣にスマホを突き出した。芽衣が渋々受け取り、耳に当てる。
「お母さん、芽衣だけど」
「やだ、いるんじゃない。なんで電話に出ないのよ。こっちは心配してかけてあげてるのに。どうなの、元気にしているの」
耳にするだに怒りしか呼び起こさない声が漏れ聞こえる。
「まあ、元気だけど」
何物にも興味を示さない中高生のような口ぶりで芽衣は母親に答える。
「裕樹さんはどうしているの。あの人も連絡よこさないわよね」
「知らない。女の所じゃない」
義母が息を呑む音が沙羅まで届いた。沙羅もひゅっと息を吸い込んでしまう。「女」って何なの。
めんどくさいな、もう話さなくていいじゃない、とでも言いたげに頭を左右に傾けて首の筋を伸ばしながら芽衣は続けた。
「知らなかった? あいつ、高校の同級生とやってるみたい。偶然SNSで見ちゃったんだよね」
「裏切りじゃない」
義母の声に明確な憎悪が浮いて出る。沙羅の背中にはむわあと蒸れた熱気がへばりつき、ブラウスの下に着たキャミソールに汗がにじんだ。
「だから言ったじゃない。あんな男やめとけって」
「でも、最終的にあたしたちの結婚を認めたのはお母さんでしょ。お父さんは最初から明彦兄さんにもあたしにも好きに生きろって言ってきたんだから」
「認めてなんかいないわよ。あなたが勝手にあたしの所に来て、もう籍入れたから、って言い放ったんでしょ」
「お母さん」
芽衣は沙羅が耳にしたことのない冷静な口調と表情に切り替えた。
「あたしに会いたいなら自分で来ればいいじゃない。わざわざ忙しいお義姉さんなんかに頼まないで。そういう所だよね、お母さんのダメな所」
珍しく義母が沈黙した。しかしその沈黙はたったの三秒で破られた。
「ふざけるんじゃないわよ。あんたはいつもそう。明彦はあんなに勉強もできて口答えなんか一切しなかったのに、あんたはろくに小学校にも中学校にも行かないで、高校だって一年生の夏休みで退学するなんて言って。あげくの果てにバイト先で知り合ったなんていう三流大学の学生と籍なんか勝手に入れて。あたしの言うとおりに生きてればこんなふうにならなかったのに」
芽衣はぶちりと通話を切断した。白く細い腕を伸ばし、肉づきの薄い手でスマホを沙羅に返す。
「今度から母にあたしの様子を見てくるように頼まれても、お義姉さん、断ってくださいね」
沙羅はおずおずとスマホを受け取り、ショルダーバッグにしまう。吐き気は治まっていた。
「お義姉さんに会えるのは嬉しいんですけど、母の頼みでって断りを入れられるの、迷惑でしかないんで、あたしにとっては」
媚びも甘えもない冷徹な芽衣に、沙羅は心が揺らぎかけた。揺らぎかけ、我に返って揺らぎかけたことに気づき、あわてて頭を横に振る。
「何か飲んでいきますか」
「いらない」
「そうだ。あたし、また描いたんです。お見せしますね」
芽衣は床に散乱した衣類やら中身のないペットボトルやらポストに突っ込まれていたであろうチラシやらを器用によけながら部屋へ入り、タブレットを持ってきた。沙羅がふと芽衣の足もとに視線を落とすと、紫が強い赤紫色のペディキュアが両足の爪を彩っている。
芽衣がタブレットに描いた絵を偶然沙羅が目にしたことから二人は接点を持った。親戚同士の集まりで一人、部屋の片隅に座り込んでタブレットにタッチペンを無心に走らせる芽衣に、沙羅が近づいたことが始まりだった。
見せられたのは沙羅が初めて見たのと同じ、得体の知れない化け物が老婆を食い殺す絵だった。
背景は真っ青な空と白熱する太陽、加えて東の空に存在を主張する入道雲。化け物は目も鼻もなく巨大な頭部だけで、鋭く太い牙を生やした口を開いている。その牙に体を貫かれた老婆の両目は恐怖に見開かれ、彼女の体の下からどす黒い血液が地面に流れて広がっている。
よく見ると、老婆には見覚えがあった。彼女の口から出ているであろう悲鳴の声にも、聞き覚えがあるような気がする。
芽衣が意味ありげにほほえむ。
「今度、ホラー小説の挿絵、頼まれたんです。表紙も描くんですよ。プロの作家が書いた小説です」
描いた絵を芽衣は、絵や漫画を投稿できるSNSで公開している。そのSNSを介して出版社などから仕事の依頼を受けていると沙羅に打ち明けたことがあった。芽衣の描く絵のほとんどはこうした、真夏の明るい空の下で化け物が人間を食らう構図である。彼女が公開した絵は閲覧数も「いいね」マークを押された数も六桁を達成している。
「前から聞いてみたかったんだけど」
背中に熱気、正面から冷え切った冷房の送風を受けながら沙羅は口を開いた。
「どうしていつも炎天下なの」
「背景がってことですか」
「そう。こういう絵だと、普通、夜なんじゃない」
タブレットを胸に抱き、芽衣は沙羅に優しくほほえんだ。
「嬉しいな。お義姉さんがあたしの絵に初めて興味を持ってくれた」
初めてではないと沙羅は声に出さずに答えた。それを口にしたが最後、今まで見ないように蓋をしてきた自分の感情に直面せざるを得ないからだ。直面することが怖いと同時に、直面したいという気持ちも同じ強さで沙羅の内にある。
「お答えしますね」
沙羅の表情を芽衣は微笑したまま見守り、口を開いた。
「すごく暑い日だったんですよ。高校一年生の三者面談の日。太陽がぎらぎらしてて。あたし、面談で、欠席が多いとか、成績に一がついたとか、クラスの子となじんでないとかいろいろ言われて。それで駐車場で母親から言われたんです」
芽衣が明るく口にしたその言葉を耳にして、沙羅は目を閉じた。
そんなことを言われれば、私ならとても耐えられなかっただろう。
芽衣が天井を見た。
「空が青かった。気持ち悪いくらい青かった。入道雲ももっさり伸びてて。だからあたしはこういう絵を描くようになったんです。背景はこれじゃないとダメなんです」
やはり芽衣の絵に描かれた老婆はあの人だったと沙羅は納得する。あの化け物が誰であるかもはっきりわかった。
「今度から何かあったらあたしに連絡ちょうだい」
目を開いて沙羅は芽衣に告げた。
芽衣は茶目っ気のある顔で「はい」とかわいらしく答えた。
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