(二)

 当時、花岡は十歳で小学生らしく毎日を楽しく過ごしてはいたが、何か心の奥が満たされない日々を過ごしていた。友達と遊ぶのは楽しかった。シングルマザーの母親洋子も仕事と家事の疲労はありながらも花岡へは十分な愛情を注いでいた。

 欲求不満の理由は明確で、花岡は小学校の授業が全くつまらなかったのだった。それは授業に付いていけないためではなく、授業の内容が花岡にとって簡単過ぎることが原因であった。算数、理科、国語、英語、社会などの主要科目は常に満点で、家庭科や美術といった技能系の授業や体育の成績も常に上位に入っていた。一応、授業は真面目に受けていたものの、学習塾などにも通わず、放課後は図書館で借りた数学の専門書を読み漁る日々を過ごしていた。

 花岡は三歳で数字を覚えて以降、それらが織り成す無限の世界に異常な興味を覚えていた。数字の世界に没頭した花岡は四歳で四則演算を完全に理解し、五歳で小学校の算数は完全にマスターしていた。洋子もそのような花岡に対して、なけなしの生活費から算数の本を買い与え、九歳の誕生日に与えた数学Ⅲ・Cの参考書を最後とするまでそれは続けられた。以降、大学レベルの参考書は高価であるため、近くの大学図書館などで借りることとしていた。

 花岡は小学校の通学道中で通りすがる車のナンバーを眺め、その四桁の数字の中に数学的意味を見出すのが楽しみだった。小学校の六年間で一度だけ、四桁の完全数8128のナンバーを見つけた時には、初詣で大吉を引くよりも格段に崇高な幸運に出会った気分になった。

 その日は花岡が小学四年生にして算数オリンピックで優勝した翌々週のことで、小学校の帰り路に二十三台の車のナンバーを確認しながら帰宅をした日であった。

 家の扉の前に立って鍵を挿した瞬間、その違和感に気が付いた。鍵が開いていたのである。日中の洋子は介護の仕事に出ており、いつも帰宅は午後七時前となるため鍵が掛かっているはずであった。花岡が扉をそっと開けると、玄関のたたきに見たことが無い男性ものの黒革の靴が一足並べられていた。子供ながらに、艶やかで美しい靴だなと思った記憶が残っている。家の奥からは母と靴の持ち主であろう男性が談笑する声が聞こえた。声色から決して暗い雰囲気ではなかった。

 花岡が玄関からダイニングに続く引き戸を開けると、洋子と向かい合う形で座る男性と目が合った。

「お、祐介君だね。こんにちは」

 男性は低く落ち着いた声をしていた。靴と同様に艶やかな短い髪を綺麗な七三風に分けた髪型をしており、レンズの下半部にはフレームの無い眼鏡をかけ、こちらも光沢のあるグレーのスーツを着ていた。

 その男性は名前を上之園と名乗った。花岡は大人の男性の年齢というものに皆目見当がつかなかったが、おそらく三十代半ばではないかと感じた。

 花岡は洋子に手招かれ、上之園の斜め向かいに座る。

「実はお母さんから色々と祐介君のことを聞いていたよ。祐介君は勉強が好きだってね。特に数学が好きらしいね。算数オリンピックも小学四年生にして優勝したらしいじゃないか。祐介君は本当に非凡な能力を持っているね」

 洋子の隣に座った花岡に上之園が話しかけた。花岡はどうして良いか分からず母親の顔を見ると、洋子は優しく『答えなさい』とでもいうように頭をわずかに上下した。

「はい、勉強全般が好きですが、特に数学が好きです。唯一、美術が少し苦手です」

 上之園は柔和な笑みを浮かべながら聞いていた。上之園は洋子に目配せをすると、改めて花岡に向き直った。その時の一連の動作と雰囲気から大事な話がされることを直感的に悟った。

「実はおじさんの働く会社で今度新しく学校をつくることになってね。学校といっても、今行っている小学校の放課後や土日に来てもらう学校で、子供の学習速度に合わせて質の高い教育を常に提供することを目的としている学校だよ。全国から祐介君のような勉強の好きな子供たちを集める予定にしているのだけれども、良かったら祐介君もこの学校に来ないかな? 祐介君が望むのなら、その内に大学レベルの数学の授業も受けることができるようになる。今の学校には退屈していないかい? きっと、祐介君も満足できる勉強が出来るはずだよ」

 上之園が話をしている間、洋子は何も言わなかった。おそらく、事前に話を聞かされていたのだろうと花岡は考えた。母親が否定しないということは、判断を花岡の意思に委ねているということだった。

「どうかな? 興味があればぜひ来てみないかい?」

 上之園はそう言うと、ダイニングテーブルから身を乗り出すように尋ねた。上之園が前向きな答えを期待していることが伝わってくる。再度、花岡は確認するように母親の顔を見たが、先程と同様に頷くような仕草をするだけだった。

「もっと進んだ授業を受けられるのは嬉しいです。特に数学を教えてもらえるのであれば、とても興味があります」

 その言葉を聞いた上之園は母に目をやり、笑いながら満足そうに頷いた。

「そうか。そうなると話は早い。新しい学校は半年後に完成するから、基本的には次の新学年から皆には通ってもらおうと考えている。引越しを必要とする子もいるから、花岡君を含む一期生の皆が揃うのは来年の五月頃になると思う」

「何人ぐらいの友達が集まるのですか?」

「今のところ、新しい学校には十二名の子供が来る予定になっている。一期生の年齢は八歳から十一歳まで。皆、君と違わず頭のいい子たちだから、きっと話も合うよ。おじさんが全国を回って探してきた、凄いお友達ばかりだよ」

 母を見ると、微笑みながら『良かったね』と言った。

「はい、ありがとうございます。楽しみにしています」

 花岡は現実味がないような、少しふわふわとした感じでありつつも、これは本当の話なのだという期待もあり、不思議な気持ちになった。

 その後、上之園は花岡に学校生活や現在自学している数学の内容などを聞いてきた。具体に何かを聞きたかったわけではなく、花岡とのコミュニケーションとしてやっているようだった。

 そして三十分ほど雑談をした後、必要な書類を母に渡して帰っていった。これが李雲山育友財団に花岡が通うこととなった始まりであった。後から聞いた話では、自宅の最寄り駅から五駅離れた財団への交通費や母親のLUグループへの転職を含む経済的支援も育友財団は行ってくれていたらしい。


「先生、花岡先生」

 声がしたので瞼を開くと博士課程の男子学生が目の前にいた。大分から上京してきている学生で、花岡の研究室の中でも将来有望な学生の一人であった。

「花岡先生、一限目の授業が始まっていますよ」

 研究机の卓上時計を見ると、授業開始時刻である八時五十分を少し回っていた。

「いけない、起こしてくれてありがとう!」

 花岡は準備をしていた講義資料とパソコンを手に取り、講義室に小走りで向かった。

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