第一部 蒼空の果て 第十一章

  1


 日が沈みきった頃。

 ベースでの打ち合わせを終えた瀬司は、マーケット崩壊の火の手をかろうじて免れた一角を訪れた。

 瓦礫と錆びた鉄骨の隙間を抜けると、かつての商業施設の回廊が顔を覗かせる。壁のひび割れを伝う水滴の音が一定の間隔で床を濡らす。夜風には鉄と油、それと焦げた木の匂いが混ざり、いつまでも爆撃の爪痕が空気に居座っていた。


 暗がりの奥、積み上げられたガラクタの間から、重厚なダークブラウンの木製扉が覗く。隙間からは、橙の光が細く漏れ、外の闇を密やかに照らしている。

 扉を押す。カラン、と小ぶりなベルが鳴り、夜気の冷たさがやわらいだ。「いらっしゃい」と穏やかな男性の声が響く。

 

 中は、古びたバーだ。

 長く使われて角の丸くなったカウンターには、無数に刻まれた傷とシミが年輪めいて重なる。棚には埃を纏った酒瓶がまばらに並ぶ。壁のランプが琥珀色の光を落とし、アルコールと古木の匂いが薄く漂う。客は奥の席に二人だけ。氷の触れ合う微かな音が、ときおり響いた。


 カウンターで食器を拭いていたジルは、やや遅れて顔を上げた。

「瀬司じゃん、珍しい」

「……龍道は?」

「さっきまでここで飯食ってたけど、カナタを送るってベースに向かったよ。呼び戻す?」

「いや、いい」


 瀬司は無言で、五つあるカウンター席の一番手前に腰をおろした。天板の木肌は見た目の荒々しさとは裏腹に滑らかで、ところどころにある節の隆起が掌に心地よく馴染んだ。

 

 ジルは棚をひと巡り見やって、栓の軽い音とともにボトルを傾けた。

「このワイン、割れずに残ったんだ。好みに合うと思うんだけど」

 赤い液体が曲面を滑り、光を散らして揺れる。瀬司は差し出されたグラスに手を伸ばす。華やかさの中に、どこか鋭さを感じる果実の香りが鼻をくすぐった。


「……何か情報が必要なら、俺のわかる範囲で良ければ答えるよ」

 ジルからの問い掛けに、瀬司は小さく頷く。

「最近、透流が……おそらく質の悪い大麻の類だが、依存が深い。入手経路を探している」

 ジルの指が止まった。拭きかけの皿を置き、短く息を吐く。少しの思案ののち、慎重に枕詞を選んで言った。

「そうだな……確実なことは言えないけれど。思い当たるのは二人」

「……聞こう」

 瀬司が何枚かコインをカウンターに差し出す。

 それを横目に彼は話を続けた。

左雨ささめとミナ。透流と同い年くらい。龍道がお前らに紹介したフリーの整備屋なんだけど」

 

「顔は覚えている」と返して、瀬司は長身の男性と小柄で明るい印象の女性を思い出す。

 

「二人とも直近まで、壊滅したコロニーに雇われてた。あの組織は麻薬やハーブ類も扱ってたから可能性は一番高いかな」

 ジルは食器の片付けを再開し、乾いた布で手際よく水気を拭っていく。そのまま話を続けた。

「それと、物流を仕切ってる安東。確証はないが、あいつは取引なら滅多に断らないから、ありえるかな。今、言えるのはこのくらいだ。安東とは付き合いが長くて、勝手に話すわけにもいかないんでね。悪いな」

 

 瀬司は「構わない」と短く返すと、ワインを口に運ぶ。華やかな香りが、やがて酸味に包まれて最後に渋みが残る。繊細な変化が壊れやすい青年の面影と重なった。唇に薄く残った暗紫の色素を素早く舌でなぞる。

 

「……透流って不安定な子だよね。あ……」

 拭き終わった食器を棚に並べる手が止まった。

「そう言えば常連のタガワと、よく話してたな」

「タガワ?」

「昔、プレトリアにいたメンテ兵のおっさん」

「ああ、さっきの二人と同じ日にベース来た」

「堅物で無口で、見た目は強面だけどさ。死んだ息子を重ねてるのか、透流とは長い時間喋ってることも多かったな」

 

 瀬司の眉が、ほんのわずか動く。

「それは知らなかった」

「大体いつも、あの奥の席」

 ジルは奥のテーブルへ視線を送る。二人組の客がいる席。瀬司も目だけで追い、訝しまれないうちにカウンターへ戻した。


「話を戻すね。左雨とミナは金で動くから、テロ組織でも治安の悪いエリアでも行く。トラブルを持ち帰ってきては、だいたい龍道が間に入って収めてた。マーケットの奴らに追い出されかけたこともあるくらいだよ」


「……なるほど」透流の素行からして濃厚そうなルートだと感じたが、口には出さなかった。


「でもさ、龍道が見捨てず世話焼くし、お前らが外から来て助けるのも見て、あのふたりも少しずつ変わってきたよ。ジェラードやルースが復興を上手く分担してくれて、他の住人とも打ち解け始めてる。感謝してるよ」


 瀬司の口元に、かすかな弧が生まれた。

「……それは、良かった」

 グラスの脚を親指で押し、ジルに下げるように促す。

 その時、ベルが再び音を鳴らす。


「ただいまー」

 暖色の灯りに華やかなブロンドが色づいた。

 ルースだ。ヒールの先とワンピースの裾には砂塵の白が薄く残り、急いで帰ってきたことを物語る。


「おかえり、ルース」ジルが笑顔を向ける。

「あなたの顔を見ると、ほっとするわ」

 彼女は柔らかく目尻を下げるが、声には翳りが混じっていた。ジルは真ん中の席に案内すると、視線を瀬司へ戻した。


「それで、必要な情報は――」

「いや、あとは自分で動く。複数可能性が分かれば充分だ。……礼を言う」


 瀬司はポケットから数枚の紙片を取り出し、音を立てずに置く。ジルが目を丸くした。

「これは貰いすぎじゃない?」

「いや、取っておいてくれ」

 そのやりとりを見たルースが、瀬司に言った。

「――透流の件?」

「ああ」

 ジルが肩を竦めた。

「雑談でこんな大金もらっちゃって、申し訳ないなって思ってたところ」

「じゃあ、ひとつ気になるデータがあるから、私から送っておくわ。蒼とプレトリア周辺の映像を解析してて見つけたの。まだ他のメンバーは知らない情報。瀬司には先に見ておいて欲しい」

 ふたりは「助かる」とほぼ同時に頷いた。

 

 瀬司は席を立ち、足早に出口へ向かう。その背中に向かって、ジルは「あんまり無茶な詰め方はしないでくれよ、根は悪い奴らじゃないんだ」と声を掛けた。彼は、それを振り返らずに受け止め、扉を押す。

 冷えた風が細く差し込み、瀬司の後ろ姿が階段の暗がりに溶け、閉まる扉とともに遮断された。


  2

 

 ジルは、ワインを注いだグラスをルースに差し出すと、慣れた手つきで鍋に火を入れ、シチューを温め直した。鉄鍋の底から立ち上る泡が、一定の間隔で弾ける。温かな香りが、古い木とアルコールの匂いにゆっくりと混ざり合っていく。

 奥のテーブルにいた二人組の客が会計を終え、ゆっくりと席を立った。木製の床板を踏む音がカウンター席の後ろを通る。ドアベルの響きと共に去る客に、ジルは軽く会釈して見送る。

 

 客の気配が消えると、店内にはランプの灯りとコトコトと煮える音だけが残った。


 外と隔てられた静けさも束の間、扉が開く。

 紗月だ。

 肩までかかる髪はわずかに乱れ、目の下には疲労の色が濃く出ていた。それでも背筋は伸び、白衣の端が淡く灯に照らされている。

 

「こんばんは。夕飯、いい?」

「もちろん」ジルが笑みを浮かべ、席を促す。

 紗月はルースの隣に腰を下ろした。木の椅子が小さく軋み、衣擦れの音が店内に溶ける。

 ルースが彼女を見上げ、労りを込めて問いかけた。

「診療所の方、まだ慌ただしいでしょう?」

「ええ……でも、もう少しで落ち着くと思う」

 声は穏やかだが、その裏に積み重なる疲れの層が感じ取れた。

 短い間を置き、紗月は視線を落としたまま呟いた。

「……瀬司くん、ここに来てた?」

「ええ。さっき出たところよ」

 返事を聞いた紗月の唇がわずかに震え、か細く言葉が続いた。

「透流くんのこと、私のせいかもしれないの」

 ジルは鍋の火を弱め、横目で彼女を見る。ルースはグラスをそっと置き、身を乗り出した。

 

「あの子が昔負った脚の怪我……神経損傷の後遺症が酷くてね。他に良い方法もなくて、治療用に置いていた大麻を、少しだけ処方したの。そもそものきっかけだと思うわ」紗月は肘をつき、両手で顔を覆った。隠しきれない悔しさが伝わってきた。

 ルースが紗月に気を遣いながら言う。

「この環境じゃできる治療にも限界がある。仕方ないとは言いたくないけどね。設備も人も足りないもの……」

 言葉が途切れると、ルースは眉間に皺を寄せたまま押し黙る。マーケットの爆撃以来、急激に依存を深める透流の姿に彼女も焦燥感を覚えていた。

 

 ジルは何も言わず、温めたシチューとパンを並べた。白い湯気がゆっくりと立ち上り、酒場の古木の香りにやわらかく重なる。

 紗月は深呼吸をひとつして、カウンターの明かりを見つめた。医師としての限界と一人の人間としての苦渋が、その瞳の奥で揺れていた。食事を始めた紗月の横で、ルースもシチューを口に運んだ。

 

 店内に、ゆっくりとした時間が戻る。

 ジルは奥のテーブルを片付け、洗い場に立った。蛇口からこぼれる水が陶器を打ち、澄んだ音を立てる。その響きさえ、この街では贅沢だった。


  3

 

 夜も更け、まだ闇と静寂が支配する時間帯。

 ベースの屋上、その片隅に古い発電設備があるメンテナンスルーム。錆びた鉄板とコンクリートの壁に囲まれ、透流はひとり、灯りの中に沈んでいた。

 埃をかぶった工具棚と資材の影が沈黙を形にしていた。流れ込む外気に、ランタンの淡い光が壁を這い、人さながらに呼吸しては膨らんで消える。


 テーブル代わりの金属板の上には、蒸留酒のボトルと乾いた葉の束。透流はモスグリーンの古びたソファに身を沈め、指先で葉をもみ砕いた。

 粉塵が舞い、ほのかに甘い匂いが鼻を刺す。 指先で丸めた葉を酒に浸し、そのまま口へ運ぶ。舌の奥で苦味が弾け、喉を焼く熱が体の中を這い回る。同時に不快感を伴う渇きが湧き、唇を舌で深く湿らせた。

 

 ややもすると視界がゆっくりと滲み、世界が薄膜に包まれ遠のいた。

 

「あー……」

 天井を仰いで、息の抜けるような笑いを零す。淡い焔がまぶたの裏で波打ち、光と影が交互に脈を打つ。頬には紅が差し、瞳の奥で熱と空虚が同居していた。

 意識が沈み、胸郭がゆっくりと上下する。

 そのとき灯りが一瞬、影に遮られて揺れた。埃と砂を踏む音が僅かに聞こえる。

 

 人の気配。

 透流は目を開ける。ぼやけてピントの合わない視界の向こうに、金色の光が細く滲んでいる。

 

「……瀬司」


 幻か現かも曖昧なまま、どこか壊れたような笑みを浮かべた。

「俺は、ここを出る」

 呂律は乱れているが、言葉の芯には決意が垣間見られた。

 

 沈黙が落ちる。

 それは深く淀んだ間だった。周囲の音は遠く、二人の不規則な息遣いだけが、張りつめた空間を乱した。

 

「──この前、プレトリアに侵入したのはお前だな」

 

 不意に地を這うような低音が響く。

 その威圧感に透流はびくりと肩を揺らすが、声の方を見ようにも焦点が定まらない。深く息を吸い、手のひらにつかんだ葉の香りで胸を満たす。

 

 そして、耳元に触れた指先が力なく、二連の銀のピアスを弾いた。光が反射して、片方の石が青白く点滅する。透流の指先は、興奮か酩酊のためか微かに震えていた。

 

「これ、知ってるか」

 軽く乾いた声色。瀬司の金の瞳が僅かに動いた。

「それは……」

「ガキの頃、じいさんにもらった。人類最強の兵器を起動する鍵だってさ」挑発というよりも、自身に言い聞かせる含みを持っていた。

 

 場が凍てつく。

 

「起動できるのはプレトリアの装置だけだ。インペリウムもプレトリアも全部ぶっ壊すまで何度でもやってやる」

 

 瀬司の指先に力がこもり、彼の表情が消えた。

 

「……お前、止まる気はないんだな」


 冷たく発される声に透流は答えず、口元だけで笑った。そのまま彼は乱暴に立ち上がり、不安定な椅子の脚が床を引っかく。

 

「俺を殺すか? 政府の犬が」

 重心が定まらないまま瀬司の前に立つと、妙にギラつきつつも生気のない目で見た。


 瀬司は真っ直ぐに透流を見据え、押し殺しながらも珍しく悲痛の滲む声を絞り出した。 

「俺は、そんなことのために、お前に生きる術を教えたわけじゃない」

 それは、細い刃が肌を滑るような鋭い痛みを感じさせた。透流は何かを言い返そうとしたが、そのまま踵を翻した。

 酔いが回る足取り出口へ向かい、途中で止まる。ランタンの光が斑点状に背中を染める。

 

「……寝る」

 

 その一言を残し、暗がりへ消えていった。

 足音が不規則に響き、途中で何度かつまずく音がした。

 

 瀬司はその場から動かず、ひとつ長い息を吐く。

 テーブルの上に端末を置くと、眉間を押さえ、壊れかけたソファへ身を預けた。体は鉛の塊となって重く沈んでいく。

 

 置いた振動で端末のディスプレイが反応し、白く瞬く。そこに映し出されているのは、外壁を越える見慣れた背中。淡い金髪が跳ねる。

 ルースから受け取った解像度の荒い衛星データ。そのノイズの不安定さが、透流の先行きと重なる。

 

 瀬司の瞳が闇と同化する。仰ぎ見た先、ランタンの焔が天井に小さな円を描き、ゆらめき続けていた。

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