第一部 蒼空の果て 第十章
1
研究特区からの帰還後、透流は自室に閉じこもったままだった。
夜が明け、昼になっても室内の灯りはつかず、配膳されたままの食事は冷え切っていた。ドアの隙間から葉が焼け焦げたような香りだけが漂っている。
至はドアの前で少しの間佇んでいたが、結局何も言えずに、その場を離れた。あの部屋の向こうにいる青年に、果たして自分は何ができるのか、いくら思考を巡らせても答えは出なかった。
リビングに戻ると、瀬司が窓辺に腰をかけ、端末を操作していた。いつもより更に鋭い視線。
その張り詰めた空気を感じとってはいるものの、至は通りがかりに「地下へ」と声をかけた。そして、ミーティングルームに続く階段へと向かう。背後で瀬司が動く気配を感じた。
2
《CASE ID: D13-0098 / IMM-VAR-F》
《Gene Set: β2834 / Receptor: Δ13》
《Generation: G11》
《Condition: Autoimmune Collapse - CONFIRMED》
《N=19 / Failure=17 (89.5%) / Under Obs=2》
《Median Survival (Post-Onset): 72h》
《Notes: Immune overdrive triggers systemic tissue degradation; suspected correlation with Augmentation Protocol ver.4.1》
地下、厚い隔壁に囲まれた室内では、解析装置が断続的に唸りを上げていた。白と青が基調のスライドが、複数のスクリーンに浮かび上がる。
ジェラードとルースは、研究施設から回収した記録を並べ、解読を進めていた。蒼はその後ろで椅子を回し、退屈そうにしている。至と、やや遅れてきた瀬司は、彼らの会話を黙って耳に入れつつ、資料の確認を始めた。
「この《CASE ID: D13-0098》は管理番号として、この《IMM-VAR-F》ってなんだ?」
丸眼鏡を押し上げ、ジェラードがぼやく。
「詳細の経過資料を見る限り、目的分類じゃないかしら。免疫可変因子の実験を指す略称」
ルースは複数の解析用モニターを見比べ、補足する。
「なるほど。概要は……予めデルタ13を投与した体内に、ベータ2834なる混合遺伝子を投入。すると、レセプターとしてデルタ13が機能を始めるってわけだな。その結果が……」
読み上げるジェラードのトーンは次第に濁った。
「《Autoimmune Collapse - CONFIRMED》。自己免疫崩壊が確認された、という意味ね。失敗率89.5%。しかも発症後の生存も、中央値で72時間しか持たない……」
ルースが唇に手を当て、険しい表情を浮かべて続ける。
「参考データからは、彼らは免疫崩壊そのものを引き起こすためのプロセスを求めていた……と感じるけど、どうかしら」
黙って資料を読み込んでいた瀬司が、細胞の変化をなぞって発言した。
「……だろうな。人体を崩壊させる手法として、人が元々持つ免疫システムそのものを遺伝子レベルから再設計しようとする試みと考えられる」
「わざと人を壊すための兵器ってわけか。とんでもねえもん造りやがる」
ジェラードの表情に苛立ちが滲む。
蒼が椅子でくるくると回りながら、能天気な調子で口を挟んだ。
「まあ、《Failure》は失敗というか、単に『死んじゃった』って意味だと思うよ。ラボの研究者たちは直接的に書かないだけ」
ルースは彼の遊び半分な様子に、呆れの混じった目を向けて、ひとつ息を吐く。
「……嫌な話だけど、きっとそれが正解ね。人体の強化じゃなく、兵器の強化。内側から破壊する時限式の生体兵器よ」
空気が淀むような感覚が室内を覆う。
それまで椅子で回っていた蒼は、ぴたりと動きを止め、参考フォルダから投与のフローを再生した。それをシアンの瞳が見る。
「でも、俺はこの兵器を支給されたことないよ。2種類も投与したり、72時間も生きられたり、実戦では効率悪すぎる。多分、完成前にラグナロクで強制終了だね」
彼は何でもない顔で淡々と付け加えた。
重い沈黙が落ちる。
「でも、こっちを見て」
次の瞬間、ルースが別の資料をスクリーンに映す。
「《CASE ID: aΔ13-0098 / R-PROT-F》……さっきと違う記録か?」
至が興味深そうに画面を覗き込む。
「ええ。こっちは『免疫制御回復処置』の実験みたい。
「完全ではなくても……免疫機構の暴走を抑止できた、唯一の例ってことか」至が唸る。
「両面で研究していたんだな。壊す兵器と、それを抑える技術……」
ジェラードは最後まで言い切らずに、資料をデジタルシート上で整理しはじめた。
瀬司は、室内の隅で黙って資料を見返していた。
――〈免疫異常が発生しない蒼〉を新たに造ろうとした側面もあるのではないか。
心に過ぎったが、口には出さなかった。
3
受信通知が鳴り響いた。
ルースがアクセス許可を出すと、スクリーンに彗の名前とともに白いシルエットのアバターが現れる。背景は何も映らないグレーの仮想空間。
『ご連絡ありがとうございます。お待たせしました。ご用件は?』
「例の施設でデータを入手できた。免疫システムの兵器化実験と免疫機構の修復実験、両方の記録だ」
至の報告に、アバターは何回か瞬きをした。表情に起伏はないが、情報を即座に精査している気配がある。
『詳細は?』
「いま修復側の資料を読み取り専用で送る。兵器に関するデータはこちらで保管させてもらう」
至が言うと同時にジェラードが端末を操作し、データ転送を始める。
『賢明な判断です。まだ私は味方と証明されたわけではない』
嫌味ではなく、共感を示している様子で、アバターの口元が緩やかに弧を描いた。
送信完了の通知音が鳴る。
アバターが瞼を閉じ、一時スリープ状態になった。
数分の間を置いてから、再び目が開いた。彗の声が響く。
『驚きました。免疫異常やアレルギーに対応しきれていない此方としては、これだけでも貴重な資料です。今後の施策にも応用できるかもしれない。実に有益です』
事務的ではあるが、関心が高いことが伺える。
至は短く息を整え、淡々と応じた。
「であれば、よかった。調査した甲斐があった」
「それから……既に送ったとおりだが、途中で戦闘になった。その兼ね合いで、設備の再稼働の可能性までは調査しきれていない。申し訳ない」
至の謝罪に、アバターの目が細まる。責める色はなく、状況を冷静に受け止める仕草だった。
『突発的な事故であれば仕方ありません。軍の動きについては関係者を通じて確認させていますが、現在のところ貴方がたに不利益となる報告は上がっていません』
「そうか。確認が早くて助かる」
至が短く返すと、アバターは小さく頷く。
『ところで、至さん。近くインペリウムの大ホールで文化振興のイベントが開催されます。その場を利用すれば、民間枠に紛れて比較的安全に招待できます。いかがですか?』
「直接会いたい、ということか」
『ええ。先日の子供たちの件について続報をお伝えしたい。そして今回の記録についても、互いに直接話す方が円滑でしょう』
至は少し考えたのち、口を開いた。
「わかった。俺とルースの二名で参加する」
『ありがとうございます。招待状と潜入経路については追ってご案内します。それでは、また』
形式的な一礼とともにアバターは回線を切断した。
残されたスクリーンは無音のまま暗転し、室内には再び装置の低い駆動音だけが残った。
「何だ? 仮装パーティーでもあるのか?」
ジェラードが首を傾げる。
黙って聞いていた瀬司がため息混じりに、解説した。
「四年に一度開催されるシンポジウムだ。インペリウムにおける歴史分析や古代技術応用した研究成果を発信・発表する場。それらと連動して企業新製品の展示や実食、ビジネスプレゼンテーション、商談などを行う」
「おお。さっすが! 俺はそういうの興味ねえからな。知りもしなかったぜ」
ジェラードが得意げに胸を張る。瀬司は見ないふりをした。
その空気を裂くように──。
背後の階段から不規則に床を打つ音が聞こえた。
全員の視線が一斉にそちらへ向かう。
透流がいた。
「瀬司、お前、随分詳しいな」
酩酊しているのか、泥に溶けたような瞳が瀬司を見据える。壁に寄りかかる体が気怠げに揺れる。
「何が言いたい」
瀬司の声が一段低く、冷える。
「昨日もだったよな。殺すなって。判断が早すぎる。まだ政府と繋がってんじゃねえのか?」
「全て常識レベルの話だ。無駄な殺しと、わざわざ危険を侵す行為は避けるべきだ」
「無駄じゃねえ。俺はあっちの奴ら全員ぶっ殺してえんだよ」
「なら、殺してみろよ」
鋭い声音とともに、瀬司からわずかに怒気が滲む。指先に力が込められ、軋む音がした。
透流が壁から身を起こす。階段を踏み下ろす音が鈍く響いた。空気が揺れ、瀬司に向かって踏み出した。
「透流!」
蒼がすかさず間に入り、勢いのついた透流の体を正面から右腕で受け止めると、そのまま肩を強く押さえた。
「落ち着いて。それと、ごめん!」
蒼は左手の親指を透流の首筋に当て、軽く三度、的確に叩いた。
「痛っ、お前、何──っ」
次の瞬間、透流の意識がすっと抜け落ちた。倒れる体を、蒼が右腕で支える。
「えっ!? 大丈夫なの?」ルースが目を見開く。
「寝てるだけ。即効性の睡眠針、親指に仕込んでおいたの。万が一、また暴走したら役立つかと思って。昔の漫画で読んだんだ、面白かったから」
「相変わらず無邪気に怖いな」
ジェラードは蒼と透流を交互に見て、苦笑いした。
「透流は俺が見てるね」
至は短く頷いた。
「……頼む」
4
透流がゆっくりと瞼を開ける。
硬質な天井に、室内のライトが淡く揺らめいていた。
まだ意識の奥に霞がかかっているようで、思考がはっきりしない。だが、すぐ傍らから聞こえた声だけは、妙に鮮明だった。
「さっきは、ごめんね」
どこか機械的な響き。すぐにその主が分かり、透流の身体が跳ねた。
「蒼! てめぇ!」
身を起こそうとしたが、思ったより体が重い。節々が鈍く痺れ、頭がくらりと傾ぐ。
「しばらく無理に動かない方がいいよ。怠さが残るタイプの薬を使ったから」
ベッドの脇に座っている蒼は、いつもの軽さを削ぎ落とした顔で、まっすぐに透流を見ていた。
「ふざけんな………お前」
起き上がろうとするが、節々が痺れ、重力が全身を引きずり下ろす。その様子を見ても、蒼は眉一つ動かさない。
「こうでもしないと、今の君とは、まともに話せないでしょ」
蒼の声に、熱はなかった。
透流は顔をしかめ、片腕を目元にかざす。ライトの白さが、やけに眩しかった。
透流は吐き捨てるように言った。
「てめえに俺の何が分かるってんだよ」
「分からないよ」即答だった。同情も憐れみもなく、ただ事実だけを紡ぐ。
蒼はゆっくりと唇を動かす。
「分かる必要もない。俺には君の痛みも過去も、理解できない。してあげることもできない」
無機質なシアンの目だけが透流を見ている。
氷のごとく冷たく透明な空気。
「ここにはもう、俺が生まれた時代なんて存在してない。行き場のない感情をぶつける相手すら、どこにも、ない」
透流はふと気づく。
その奥に垣間見える、灰のような虚無。
いつか自分の中にある怒りが燃え尽きた時に残るものを見せつけられているようだった。
自身の中に渦巻く混沌すらも、彼の前では無でしかない。
その底知れなさに、一瞬全て飲み込まれてしまう感覚を覚えた。音が遠ざかり、呼吸すらも薄れていく。言い様のない空虚さが、胸の奥に広がる。
透流は、肩の力が抜けるのを感じた。
「話すって何をだよ」かすれ気味に呟いた。
蒼の視線がわずかに揺れ、いつもの温度が戻る。
「冷静になってほしいなって」
かすかに柔らかさを纏い、透流に向かって微笑む。
「それでも、まだ俺、生きてるからさ。だから、ここにいる皆を守りたいだけ。君も含めてね」
透流は、それには答えなかった。
柔らかさの中にある有無を言わせぬ威圧感。
腫れ物として扱う至たちよりも、それを心地良く感じた。
空白が漂う。
「俺、インペリウムで生まれた」
ぽつりと、唐突に落ちた言葉。
「……そうなんだ。知らなかった」蒼の返事には、驚きも詮索もなかった。
透流は天井の光を拒み、顔を腕で覆ったまま。
「俺にも、帰る場所なんてねえよ」
蒼は何も返さなかった。
独白は、音もなく沈んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます