第1話:運命の始まり
エーテ村は静かだった。
村を囲む恵みの森は、昔からエーテ村の食や生活を支えてきた。
恵みの森の向こうには、雲に隠れるほど高いアズラス山がそびえ立つ。
村人たちにとってアズラス山は神聖にして侵すべからざる領域とされ、「かつてアズラス山の竜が大きな災厄をもたらした」という古い言い伝えから、絶対近づいてはいけない場所として恐れられていた。
エーテ村に住む14歳の少年リアンは、今日も1人で恵みの森に向かって歩いていた。
祖父トーマスの畑仕事を手伝った後、こうして森で過ごすのが日課だからだ。
リアンに両親はいない。
両親は幼い頃亡くなったと、トーマスから聞かされていた。
自分の父は、母は、どんな声で、どんな顔で自分を見つめてくれたのだろうか。
リアンは、そんなことをよく考えていた。
恵みの森の木々や動物たちは、そんなリアンにとって寂しさを埋めてくれる、かけがえのない癒やしだった。
「リアン、いいか?恵みの森の奥は危険だから絶対に入るなよ?」
トーマスの言葉が耳に残る。
その声には、ただの警告ではない、なにか恐ろしいものを思い出させるような、そして深い悲しみを押し殺したような響きがあった。
リアンは知らないが、トーマスはアズラス山で起きた悲劇を、そしてそれに関わった者たちの運命を間近で見てきた。
「どうして?森の奥に何かあるの?」
「あそこはお前が絶対に行ってはいけない場所なんだ。……今はそれだけわかってくれ」
その言葉の意味を理解するには、リアンはまだ幼すぎるとトーマスは考えているのだろう。
だが、皮肉なことにトーマスのその言葉が、そしてその声に込められた想いが、リアンの好奇心を一層かき立てていた。
森の奥には一体なにがあるのだろう……この目で見てみたいと。
木漏れ日が柔らかく差し込むなか、リアンは森の小道を進んでいた。
足元の乾いた落ち葉がさくさくと心地よい音を立て、遠くからは鳥たちのさえずりが聞こえ、緑の香りが風に乗って漂ってくる。
リアンは「立ち入り禁止」と書かれた古びた看板の前で立ち止まった。
そこから先は、トーマスが言っていた森の奥になる。
枝葉が複雑に絡み合って空を覆い、昼間にも関わらず薄暗い雰囲気を漂わせていた。
そのとき、森の奥から不思議な声が聞こえた気がした。
「誰かいるの!?」
しかし、リアンの問いに返事はない。
(この先に誰かいるのかな……)
リアンははやる気持ちを抑え、ごくりと唾を飲み込んでから、森の奥地へとゆっくり歩みを進める。
木々の幹はさらに太くなり、足元には深い苔が一面に広がり、湿った空気が肌にまとわりつく。
陽の光はほとんど届かず、周囲は昼間なのに夕暮れのように薄暗かった。
鳥のさえずりもいつの間にか聞こえなくなり、ただ自分の足音と、早鐘を打つ心臓の音だけが響く。
「……ここが森の奥……」
リアンは辺りを見回したが、とくに変わったものは見当たらない。
拍子抜けするほど静かだ。
「なんだ、なにもないじゃん」
しかし、リアンは森の中でも一際静かで、どこか神秘的なその場所に不思議な居心地の良さを覚えた。
それからというもの、リアンは定期的に森の奥に行っては、大きな木の根元に背を預け、寝転がってボーッと薄暗い空を見上げるようになった。
(こうして毎日が過ぎていって、俺もいつの間にかおじいちゃんになっていくのかな)
とくにやりたいことがないリアンにとって、それはある意味幸せなことなのかもしれない。
しかし同時に、胸の奥でくすぶるような、少しだけ物足りなさも感じていた。
思春期特有の「なにか特別なことをしたい」「今の自分ではないなにかになりたい」という漠然とした渇望が、リアンにも芽生え始めていたからだ。
起き上がって周りを見渡すと、以前よりもさらに奥の、まだ足を踏み入れたことのない場所が気になりはじめた。
(そういえば、こっちはまだ行ったことがないな……もう少しだけ行ってみようか)
リアンは抑えきれない好奇心に従って、さらに奥地に向かって歩き出す。
しばらく歩くと、森そのものが息を潜めてリアンを見つめているような、不思議な感覚に襲われた。
次の瞬間、リアンの体を風が吹き抜ける。
木々が一斉にざわめき、無数の葉が擦れ合う音がリアンを包み込んだ。
その風は生温く、まるで巨大な生き物の息遣いのようだった。
リアンは驚いて足を止め、辺りを見回す。
「なんだ……?なにが起こってるんだ!?」
そのとき、目の前の薄闇の中に、動くものを見つけた。
鱗は夜の闇をそのまま写し取ったように黒く、燃える石炭のような紅い瞳が、暗がりの中で爛々と輝いている。
その瞳がリアンをとらえた瞬間、リアンは思わず息を呑んだ。
(り、竜……!?)
全身が恐怖で石のように凍りつき、心臓が肋骨を突き破らんばかりに激しく鼓動している。
村の伝説やおとぎ話のなかでしか聞いたことのなかった竜が、本当に存在していた。
その現実を目の当たりにし、リアンの胸は恐怖と、それとは別の説明できない激しい感情で締め付けられる。
息が詰まり、声も出ない。
目の前にいるのは、もしかしたらまだ若い竜なのかもしれない。
しかし、その体はリアンよりも大きく、全身から放たれる威圧感だけで押し潰されそうだった。
(殺される……!)
とっさにリアンはそう思ったが、竜は一向に襲ってくる気配を見せない。
竜は翼を静かにたたみ、低く唸り声を上げる。
その瞬間、リアンの頭の中に、直接響いてくるような声が流れ込んできた。
(お前は何者だ?)
声は低く、独特の響きを持っている。
目の前の竜が、リアンに直接話しかけているのだ。
「お、俺はリアン……恵みの森の外にあるエーテ村の……住人だ……」
リアンはかろうじて、震える声で答えた。
竜はその言葉を聞くと、少しだけ目を細め、なにかを吟味するようにリアンを見つめている。
やがて、その射抜くような視線がわずかに和らぎ、竜は再び低くつぶやく。
(お前の目には「虚無」が入り混じっているな……)
「虚無......?な、なんのこと……?」
リアンは言葉の意味を理解できなかったが、その響きはまるで自分自身の心の奥底、普段は目を背けている空っぽのなにかを正確に言い当てられたようで、背筋がぞくりとした。
言いようのない不安と、ほんの少しの既視感が胸をよぎる。
竜からの返事はない……。
その後も、竜は静かにリアンを観察するように見つめる。
その瞳の奥には、怒りも敵意も見えない。
ただ、深い知性と、なにかを探るような探究心だけが感じられた。
「君は……アズラス山に棲んでいる竜なんだろう? どうしてこんなところに? 俺を……殺しに来たの?」
(私は人間を殺める趣味は持ち合わせていない)
エーテ村では竜は危険で邪悪な存在だと伝えられていたが、目の前の竜から感じるのは、むしろ威厳と、どこか寂しさのようなものだった。
その言葉にわずかな安堵を覚えると同時に、竜という存在が村で語られるような一面的なものではないのかもしれない、という思いがリアンの頭をかすめた。
「竜はアズラス山に棲んでいると聞いているけど、なぜ恵みの森へ?」
リアンは再び尋ねるが、竜からの返事はない。
そのとき、森の少し離れた場所から、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「おーい、リアン! どこにいるんだー?」
それはエーテ村の友人、カイの声だ。
竜はリアンをじっと見つめたあと翼を広げ、一瞬のうちに空高く舞い上がり、木々の向こうへと飛んでいった。
リアンは緊張の糸が切れたように、その場にへなへなと座り込む。
「夢……じゃない、よな……」
カイがようやく現れ、リアンの無事を確認して安堵の表情を浮かべた。
「リアン、こんなところでなにしてるんだ!?お前、顔色が土みたいだぞ。まさか……亡霊でも見たのか!?」
カイの切羽詰まった声に、リアンははっとして立ち上がり、今しがた竜がいた森の奥を、夢ではなかったことを確かめるように見つめる。
もうそこには、あの竜の姿はないのに……。
「ごめん、カイ。でも、ちょっと……」
「ちょっとじゃないだろう!ここに来たのがバレたら、長老にこっぴどく怒られるぞ?」
カイは険しい顔を見せたが、リアンのただならぬ様子に気づいたのか、すぐにいつものように笑ってリアンの肩に手を置いた。
「まあ、なにがあったか知らないけど、もう帰ろう。暗くなると本当に危ないから」
リアンはこくりと頷きながら、心の奥底で、なにかが大きく動き始めているのを感じていた。
それは、これから始まる長く、悲しい運命の、ほんの序章に過ぎなかった。
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