第15話 白麗の笛の音
青蘭楼の女将・楊福如の話が終わった。
語る者と聞く者の三人の間にしばしの沈黙が訪れる。
語り終わった福如は、ラクダに跨り砂漠を旅しているであろう一人娘に思いを馳せ、無事の帰還を一人静かに願う。
淘江馬もまたたったいま聞かされた、まだ見たこともない砂漠を赤く染めて昇る朝陽、降って来そうな満天の星、オアシスに栄える異国の街に心を奪われていた。胸の奥がひりひりと痛いのは、五歳で自分のあこがれがなんであるかを知り、それを叶えた楊楓禾という女に対しての羨望だ。
劉賢明はさきほど見たばかりの髪が白く美しい少女を、瞼の裏に思い描く。あの不思議な雰囲気を持つ少女にそしてあの髪に似合う簪は、やはり銀狼石が一番ふさわしい……。汀大尽の注文を聞いて銀狼石を選び簪に誂えた者の、たぶん、その者は男だろう。その男の目の確かさに、彼もまた髪飾り扱うことを商売にしている者として畏敬の念すら覚えた。
知らず知らずのうちに賢明の手は懐へと伸びて、ビロードの布に包んだ簪を握りしめる。そして彼は青蘭楼に来た当初の目的を思い出した。
「江ちゃん、この銀狼石の簪、女将に返してもいいかい? 青蘭楼も開店の時刻だよ。女将も、そろそろ店に戻りたいと思っているんじゃないかなあ」
その声に我を取り戻した江馬も答えた。
「ああ、そうだったな。あまりにも奇異な話を聞かされたので、肝心の用事を忘れるところだった」
娘への想いを振り切った福如も立ち上がる。
壁面に据えられた飾り棚から白い髪の少女が持ち帰った華仙堂の髪飾りを手にして戻って来た彼女は、賢明が置いた銀狼石の簪の横にそれを並べた。
削り出されて磨かれて艶々とした黒檀の細い木の先にあしらわれた、赤と白のマーブル模様が妖しくも美しい銀狼石の簪。それに比べて宝玉とは言いがたい屑石を集めてむりやりに花の形に似せた、庶民の娘にもあがなえる華仙堂の簪。
女将と賢明の手が伸びて、返されたそれぞれの簪を手にしようとした……、そのときだ。どこからともなく、妙なる音色の笛の音が聴こえてきた。心に沁みる旋律だ。
伸ばした手をもとに戻して、感に耐えないというふうに楊福如が言う。
「まあ、お珍しい。白麗お嬢さまが笛を吹いていらっしゃいます。淘さま、劉さま、しばし、白麗お嬢さまの笛の音に耳を済まし身をゆだねましょう」
兄の蒼仁夫婦が住む屋敷のほうから、時に夜になると、琴の音色が流れて来ることがある。彼ら夫婦は風雅を解する。都暮しが長かった彼らが互いに演奏しあって昔を懐かしんでいるのだろう。
闇に紛れてかすかに聞こえてくる音色を美しいとは思うが、江馬は元来が楽曲などに関心のない無粋者だ。だからどうだというのだと、いつも聞き流していた。
しかし、髪の白い少女の吹く笛の音は美しいというものだけでは表現できない。
彼の武骨で頑な心の蓋を溶かすように、その旋律は沁み入ってきた。まるで、白く細い手を胸の中に突っ込まれ掻きまわされている感じがする。なにかが、自分でも気づいていないなにかが、その手につかまれて口から出てきそうだ。
経験したことのない心の動揺に驚き、そっと賢明の顔を盗み見ると、彼の頬は涙で濡れている。何を、女のようにめそめそとしてやがるんだ――、そう言おうとしたが、言葉は喉の奥に引っかかったまま出てこなかった。
――もしかすると、自分の頬も濡れているかもしれない――
少女に無体を働いてでも、笛の音を聴きたいと願った汀大尽の胸のうちが、江馬にも理解できた。聴けば、必ずや、寿命が延びたと思えるに違いない。だが、笛の音が途絶え静寂が戻ると、江馬の心のうちを読んだかのように福如は言った。
「いえ、お大尽さまの登楼の目的はこれからの五年や十年の長寿を得ることではありません。不老不死を求められております」
「不老不死!」
江馬と賢明が同時に叫ぶ。
「ええ、汀お大尽さまがそう申されたのをお聞きいたしました。老いをそのお体に感じられるようになったこの十年、銭に飽かせて、あちこちの妓楼で不老不死の秘薬を探しておられるそうにございます」
「秘薬? そんなものが本当にあるのか? それも妓楼に?」
江馬が叫ぶ。
「それが何であるかまでは、汀お大尽さまは申されませんでしたが。ただ、白麗さまを青蘭楼でお預かりするようになりましてから、この青蘭楼に、そして白麗さまにご執心されいることは事実……」
ここまで話して、彼女は青蘭楼をあずかる女将として喋り過ぎたと気づいた。
「汀お大尽さまは、青蘭楼にとっては大切なお客人にございます。これ以上のことをわたくしの口から申し上げることは出来ません。
しかしながら、簪を使ってあなたさま方お二人を青蘭楼にお呼びしたということは、白麗お嬢さまにはお考えあってのことと思われます。お話しされることも出来ず、記憶も長く保てない白麗お嬢さまではございますが、あのお方は人智を越えた不思議なお力をお持ちだと娘が言っておりました。それがどのようなお力なのかは、白麗さまを青蘭楼にあずけたあと慌ただしく旅立った娘から聞きそびれてしまいましたが……。
なにか大変なことが起きるような、いえ、すでにそれは起きているような気がします。ええ、わたくしもこのような商売を長年いたしてきましたから、こういうことに関しての勘は働くのですよ」
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