第14話 楊楓禾
開け放した小さな円形の窓から初秋の夜風が忍び込み、茶碗から立ちのぼる馥郁とした茶の香りが揺れた。江馬と賢明と福如の手が同時に茶碗へと伸びる。
三人はそれぞれの違った理由で喉の渇きを覚えていた。
江馬はこれから知るであろう髪の白い少女の秘密に、賢明はただただ自分の考えも及ばぬ世界に足を踏み入れる焦りに、そして福如はこれから語る話の不思議に。
三人三様の思惑に、顔を見合わせて思わず頷き合う。
緊張がほぐれた。
ことりと音を立てて茶碗を卓上に戻した老女が語り始める。
「あたくしには娘が一人おります。ええ、親から引き継いだとはいえ、妓楼などというあこぎな商売をしてはおりますが、こんなあたくしにも夫がおりました。もう、とっくの昔に亡くなっておりますが。その夫とのあいだにできた一人娘でございます。名前は
娘は幼いころから物怖じしない子でした……と、福如の語りは続く。
……。
河南の市場の賑わう広場で、茶色の毛をした大きな生き物にそれぞれ跨った男たちが四、五人、話に興じていた。
茶色の毛をした大きな生き物にはすらりとした四本の長い足があり、その背中には瘤がある。それぞれの手に短い鞭を持った男たちは、その生き物の瘤のうえに華やかな模様のある敷物を広げ、器用な格好で横座りしていた。彼らは頭にターバンを巻き、その顔は赤黒く鼻は高く大きくて目の色は黒い。
子守りの手を振り払って、五歳の楊楓禾はその生き物に近づいた。それが馬でないことは、まだ年端もいかぬ幼女だった楓禾にもわかった。
「おじちゃん、この生き物、なんというの?」
その生き物を見上げるだけで首を反らさなければならなかったが、その生き物に乗っている男を見上げるためには、体もまた大きく反らさなければならなかった。突然、地の底から湧いた幼い声に男たちの一人が振り返り、そしてやっと見つけたというように楓禾を見下ろす。
いかにも異国風の顔立ちをした男に、楓禾は怖れを抱くことはなかった。生家の妓楼にはこのようないかつい顔だちの男も、まれに遊びに来る。
「お嬢ちゃん、そんなに近づいて、怖くないのか?」
男は幼い女の子の問いに答えるよりも先にそう訊いてきた。
「怖くないよ。だって、お目々が可愛いもの」
「そうか、目が可愛いのか。おまえの言葉が通じたら、これもさぞ喜ぶだろう。これはラクダだ」
「おじちゃん、ラクダに乗ってどこへ行くの?」
「南の砂漠だ」
「南の砂漠には、何があるの?」
「これはまあなんと。お嬢ちゃんには、知りたいことがいっぱいあるようだな」
声をあげて楽しそうにひとしきり笑った男は、やがて顔をあげると、南の方角を見つめた。
「砂漠には何もない。砂だけだ。だが、何もないが、心を惹きつけてやまない何かがある」
「心を惹きつけるものって?」
「それはな、知りたがり屋のお嬢ちゃん。自分の目でしか見つけられないものだ」
「あたしも砂漠に行って、それを見つけてみたい」
「そうか、見つけてみたいか。では、おれは、時々、河南に立ち寄る。また遇う時もあるだろう。時が来て神の計らいがあれば、いつか必ず、おれがおまえを砂漠に連れて行ってやろう」
そして十二年後、その男の妻となった楓禾は、隊商の仲間とともに砂漠へと旅立った。
……。
「その後、その男は老いて亡くなり、いまでは楓禾が、隊商を引き継いでおります。砂漠の珍しい品々を仕入れては、時おり河南の街に戻ってきて、それらを売る暮しです。
一人娘がそうなってしまって寂しいかと問われれば、寂しいですが。
しかし、この青蘭楼はあたくしの代で、いずれ店仕舞いするつもりです。華やかに見えて、やはり、この商売は貧しいがために売られた女の生き血を吸っております。継いでくれる者もいない以上、けじめをつけるのがあたしの役目でございましょう。
えっ、心を惹きつけられるものを、娘は砂漠で見つけたのかとお訪ねですか?
ええ、あたりを真っ赤に染めて砂の中から昇る朝陽、夜となれば降り注ぐ満天の星、オアシスに栄える色彩と情緒があふれる街を、幾度となく見たそうでございますよ。それから、珍しい食べ物に酒に織り物に宝玉。
そしてなんと前の旅で、娘は心を惹かれるお方に出逢いました。それが白麗さまです。娘が河南に戻ることを知った別の隊商からお預かりしたのだそうです。白麗さまは、河南の街に大切な用事があるのだとか。自分たちはまだ砂漠の旅を続けなければならないから、河南に家のあるおまえに託すと言われたそうです。白麗さまの大切な用事が片づく手助けをするのが、おまえの運命だとも。
それで、娘が砂漠に出かけているあいだ、あたくしがこの青蘭楼でお預かりすることになりました。ええ、半年ほど前のことでございます。
ああ、はい?
白麗さまの大切なご用事とは何かとお尋ねですね?
それは娘にもあたしにもわかりません。
白麗さまは言葉を話すことが出来ないのです。それから、記憶のほうも長くは保てません。しかし、その時が来れば必ずわかると、白麗さまを娘に託されたお人は言っていたそうにございます。その時がくるまで、あたしどもは待つしかありません……。」
青蘭楼の老女将はそこまで話すと、口を噤んだ。
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