第7話 出会い



「江馬、わたしがおまえにできることはここまでだ。尊師の教えを素直に聞き守るれ。帰りは、馬車を迎えに寄こすから心配するな」

 そう言い残して、蒼仁は帰っていった。


 入れ替わりにやってきた若い男によって、江馬は別室へと連れて行かれた。


 狭い部屋には長机がずらっと並んでいる。足を一歩踏み入れた途端に、床に正座した小さな目が二十ほど、好奇の色を浮かべて彼を見上げた。そこで彼は初めて尊師の言っていたことを理解した。


 この部屋にいるものは皆、三、四歳くらいの子どもばかりだ。皆、絹の着物を着て、団子にまとめた髪にはいっちょ前に冠をつけているものまでいる。一人執拗にこちらを見続けてる小さな目に向かって、彼は口パクで思いを伝えた。


「クソガキ、じろじろ見るんじゃない。捻りつぶされたいか?」


 恐怖の色を浮かべて小さな目が逸れる。

 屈辱と自分の身に起きている現実とは思えぬ馬鹿らしさにため息が出た。拳を握りしめる。


――おれの目標は、一日でもはやくこの部屋を出ることだ。そのためなら、字でもなんでも覚えてやる――


 目標があれば頑張れるというものだ。そして目標は単純であればあるほどよい。そのうえにふつふつと湧き上がる怒りがあれば言うことなしだ。




※ ※ ※


 たった半日ほど長机に向かって座っていて、足は痺れ背中は棒を飲み込んだかと思われるほどに痛む。狭い部屋から解放されても墨の匂いが鼻の奥まで染みつき、それは頭痛まで引き起こしていた。そして迎えに来るといっていた馬車はなかなか来ない。


 李下学堂の門に身を持たせかけて立っていた江馬のイライラは頂点に達しようとしていた。こうなれば、なんでもよいから八つ当たりするしかない。


 そう思ってあたりを見回した時、もう誰もいないと思っていた学舎の裏側から人の声が聞こえてきた。数人がまくし立てている。何を言っているかはわからないが、その声の調子に不穏な雰囲気はぷんぷん臭ってくる。 

 

 聞こえてくる声は甲高いが、かといってさきほどまで一緒に並んで座っていたガキどもほどには幼くもない。江馬の足がふらふらと声のするほうに向いて動いたのは、イライラを解消するものがそこにあると、痛む頭の奥で本能が囁いたからだ。


 枯れ葉の一枚も落ちていない掃き清められた建物と建物の間の細い通路を進むと開けた場所に出た。粗末な造りのいくつかの物置小屋に囲まれて、真ん中に屋根から釣瓶つるべを垂らした井戸がある。


 その井戸を囲んで五、六人の背中が見えた。

 想像した通り、その背格好からして江馬より五歳くらいは年かさだ。そして彼らの背中越しに、井戸を背にし、こちらに顔を向けているこれも十二、三歳くらいの少年がいる。


 少年の怯えた目の色を見た時、江馬は何がおきているか知った。こんな光景は、淘家の屋敷でもしょっちゅう見てきた。

 考えるよりさきに体が動いた。足が地を蹴る。


「おまえらぁ、よってたかって、弱いものいじめしやがって!」


 叫んだ言葉が終わる前に、江馬の右足の踵が真ん中に立っていた男の背中にめり込む。蹴られた少年は二、三歩たたらを踏んでぶざまに倒れ込んだ。


 しかし江馬の勢いがよかったのはそこまでだ。

 驚いて振り返った仲間たちは、突然の乱入者の背丈が自分たちの胸ほどしかないことを知る。


「チビ、見たことのない顔だな。大した度胸じゃないか」

「やっちまえ!」


 数人の男に飛びつかれて地面に引き倒され、その後は雨あられとなって拳と足が降って来た。


 地面を転がりつつ避ける。

 彼らの拳も足蹴りも喧嘩慣れはしているが、淘家の大人の男たちのそれと比べたらちょろいものだ。ただ自分だけが逃れても、脅されている少年はどうなる。自分がこの場を引っ掻きまわしたことで、ますます苛められることになりはしないか……。


 そのとき、大人の男の声が飛んできた。


「おまえたち、何をしているんだ! その子を淘家のお坊ちゃんだと知っての乱暴か!」


 顔を守っていた手の指の間からその声の主を見る。

 淘家の顔見知りの御者だ。

 しかし、悪ガキの中にも機転が利く者がいた。


「この子が倒れていたからさ、助け起こしていたんだ。下男ふぜいが偉そうに言うな」

「そう言うのなら、尊師さまをお呼びしてもいいんだぞ。尊師さまに同じことを言えるか?」


「ふん、やれるならやってみろ」

 顔を見合わせた少年たちは威勢のいい言葉を残して、脱兎のごとく逃げて行った。


「おまえが遅いから、おれはこんな目にあってしまったじゃないか」


 男が差し出してきた手を振り払って立ち上がると、井戸のそばに立っている少年に近づき、涙の跡のある顔をまじまじと見る。ぷくぷくと丸い女みたいな顔が、いかにも気弱なお金持ちのお坊ちゃんだ。


――いい着物を着て、毎日、いいものを喰っているな。あいつらの目的は、こいつから銭を巻き上げるつもりだったか。いや、今までも、かなり巻き上げられているな。そうだ、閃いた……――


 切れた唇の端から流れる血をぬぐいながら、江馬はとびきりの笑顔を見せた。


「おれの名は、淘江馬。今日からこの李下学堂に通うことになった。おれの兄上は河南の都尉だ。知っているかもしれんが、ものすごく偉いんだぞ。どうだ、明日から、このおれさまがおまえの用心棒になってもいいぞ。あいつらのいじめはしつこく続きそうだからな。都尉さまの弟なんて、これほどいい用心棒はいないと思うぞ。いいと思うのなら、おまえの名前を教えろ」


 少年もまた女のような色つやのよい手で涙の跡を拭いながら言った。


「劉賢明……」

「おまえな、それ、完全に名前負けしている」


 その翌日から、江馬は劉賢明を賢明と呼び捨てにし、この時にはまだ頭ひとつ背が高かった賢明は江馬を江ちゃんと呼ぶようになった。



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