第6話 李下学堂
翌日、江馬は今まで着たこともないこざっぱりとした着物を着せられて、髪も甘い匂いのする香料を艶々と塗られて後れ毛の一本もなく結ってもらった。姿見に映る自分の姿を見れば恥ずかしさしかない。
――しまった、なにが勉学だ、なにが私塾だ。おれとしたことが口の巧い男に乗せられただけではないか。いまからでも逃げてやる――
そう思った。
しかし、母のうれし涙をこぼして泣きに泣き続ける姿を見て、かろうじて思いとどまった。
「初日だからな、わたしも出向いて、尊師に挨拶をせねばなるまい」
そう言う蒼仁とともに、これもまた生まれて初めて、御者が馬を操る屋根のある馬車に乗り込んだ。
弟が緊張していると思ったのだろう、馬車に揺られている間、兄はずっと都・新邑の話を面白おかしく話してくれた。夕陽色の瓦を葺いた壮大な宮殿の建物とか、聞いただけでは想像できない味の食べ物とか……。
しかし、兄の話は江馬の耳にはほとんど入らなかった。
彼は
見慣れた街の景色であるのに、初めて見る景色のように思える。
幼いながら、立つ場所が違うとおのずと見える景色まで違うのだと知った。玉座に座っている皇帝であれば、誰も見たことのない景色まで見ることが出来るのだろうか。そこまで彼の想像は膨らんだ。
いまになればあの時、兄の話をもっとまじめに聞いておけばよかったと悔やむ。
兄には面倒をみなければならない弟や妹が、江馬のほかにも多くいた。そして河南の治安を守る都尉という仕事は激務でもあったのだ。同じ馬車で揺れながら兄弟として親しく話すということはその後の十年で一度もない。
あのとき兄は一生をかけて歩く江馬の道を見つけるきっかけを与えてくれたのだと思う。しかし、与えてくれたのはきっかけだけだ。
兄は名門淘家の嫡男として生まれ、難しい科挙の試験にも成績優秀で合格し、朝廷ではその才を皇帝に愛でられた。道を見つけるよりも先に悠々かつまっすぐなそれは目の前に広がり、彼はただ歩くだけでよかったに違いない。
そんな兄と違って、江馬は見渡すかぎりの荒地に立ち、自ら道を見つけなければならない。心の中に虚無を抱え込んでいるのは、きっとそのせいだ。
※ ※ ※
私塾は李下学堂と言った。
そう書いた扁額が門に掲げられていた。
李下とは『瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず』という故事を由来としている。瓜畑で靴を履き直したり、スモモの木の下で冠を直したりすると、盗んでいると誤解される。そのためにもそのような行為は慎むべきだという訓戒だ。
だが、江馬が扁額の李下学堂の字が読めてすらすらと書けるようになったのは、一年後のこと。ましてやその深い意味は、十八歳となったいまでも本当に理解しているとは言い難い。
二人はすぐに尊師の部屋に通された。
尊師は顎の下に白い立派な髭を蓄えた老人だった。
兄と並んだ江馬は、教えられた通りに、床に三度伏しての子弟の礼をとる。恭しい礼が終わったあとは、立ったまま兄と老人の会話を聞くしかなかった。
「亡くなられた先代の当主には申し訳ないが、そのために淘さんが河南の街に戻って来てくれたことを、嬉しく思うぞ。これからの河南の治安は安泰であろう」
そう言う老人を、蒼仁は慌てて止めた。
「わたくしごときが、尊師からそのようなお褒めの言葉をいただくとは……」
「いやいや、これはわし一人の言葉ではない。河南の民の言葉だ」
「改めて、身が引き締まる思いです」
どうやら二人は師と子弟の関係であったらしい。昔の思い出話から共通の知人の噂話へとあちこちに飛んで、二人の話には終りがあるのだろうかと思われたほどに続いた。
「先生と兄上は楽しいのだろうが、おれは退屈でしかたがない」
ついに耐えられなくなった江馬が兄との約束を破って口を挟んだ。入門したばかりなのに尊師に破門を言い渡されるか、それとも温厚な兄が怒りだすだろうと思ったが、二人は顔を見合わせて笑った。
尊師が面白いことに気づいたというふうに言う。
「淘さん、おまえさんの律儀な性格は、ここで学んでいたときそのままだな」
「と、おっしゃられますと?」
「都の噂は、わしまで届いておる。別れの際におまえの才を惜しんだ皇帝陛下が、『淘家で優秀だと思われる子なり弟なり甥なりを、いずれ朕に替わって皇帝となる皇太子の補佐役として登朝させよ。その日を、気長に待っている』と言われたとか。そのために淘家に連なる若者たちは、いま、目の色を変えて学んでいる」
「ほう、そのようなことが……。初耳にございます」
「まあ、なんとでも言えばよい。それでお前は、このような日の当たらぬ子にまでその機会を与えようとしているのだな」
「それは大師、深読みというものでございましょう。しかしながら、この江馬、腹違いの弟ではありますが、なかなかによい目つきをしております」
「確かにな。しかし、人は目つきがよいだけではどうにもならぬ。八歳でまだ字が読めず書けないとなれば、自分よりも幼い者たちに交じって学ぶことになるが、果たしてこの子は、その屈辱に耐えられるかな?」
「そのことは、天界に住まわれる神のみぞが知っておられましょう」
そしてまた二人は顔を見合わせて笑った。
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