第4話 ざわめき

 朝の光がカーテンの隙間から差し込む。

目を覚ますと、頭がずっしりと重い。


 昨夜の記憶が断片的だ。

瀬奈がインターホンを鳴らし、我妻が現れ、ビールを飲み…そして…。


 ふと横に目をやると、ベッドの上で気持ちよさそうに眠る我妻の姿があった。


 長い黒髪がシーツに広がり、口元のほくろが朝日で柔らかく浮かぶ。


「…え?」 


 顔が引き攣る。

視線を下げると、床に散らばる彼女の衣服。

黒のワンピース、華奢なネックレス、そして…下着。


 つまり…彼女は全裸だ。心臓が一瞬止まる。いや、待て。どういう状況だ?

昨夜のことを必死に思い出そうとするが、記憶は霧の彼方。


 確か、我妻が「飲んで飲んで!」と煽り、ビールを何本も開け、俺は酔いつぶれた。そこから…なぜ、こうなった?


 瀬奈にあれだけ冷たく突き放し、慰謝料を請求した俺が、我妻と…?


 頭を抱えていると、彼女がむくりと起き上がる。


 シーツが滑り、白い肩が露わになる。


「ちょ、ちょいちょい!」思わず叫び、ベッドから転げ落ち、リビングに逃げ込む。


 心臓がバクバクする。

冗談じゃない。

瀬奈に説教した手前、こんな状況はまずすぎる。


 ソファに座り、深呼吸していると、寝室から我妻が現れる。


 下着姿で、あくびをしながら。


「ふぁ…。裸くらいで動揺しすぎじゃない? 童貞じゃあるまいし」とか言ってくる。

「そういう問題じゃないだろ。我妻は結婚してるだろ」と、少し動揺しながらそんなことを言う。

「真面目かよ。安心して、別に何もないから。私、寝る時はいつも全裸なの。それと、お風呂借りていい?」と、彼女は平然と言う。


 昔から、こういう突拍子もない行動が彼女らしかった。


「…どうぞ」と、俺はため息をつき、ソファに沈む。


 気持ちを切り替え、今日の予定を考えようとするが、頭はまだ混乱の渦だ。


 シャワーの音がバスルームから響く。

しばらくして、我妻がリビングに戻ってきた。


 瀬奈の白いTシャツとジーンズを着ている。

体型が近いからか、違和感なく着こなしている。

【挿絵】

https://kakuyomu.jp/users/tanakamatao01/news/16818792437903720813


「どう? 元妻の服を纏う初恋のあの子」と、彼女がポーズを決め、ニヤリと笑う。

「…自分で言うか、それ」と、俺は呆れ顔で返す。

「だって事実じゃん。てか、似合うでしょ?」

「はいはい、最高ですね」


 ノリが悪いと自覚しつつ、軽く流す。


「うーわ、ノリ悪っ。そんなんだからハズレの女を掴むんだよ」と、我妻が強烈な一撃を放つ。


「…というか、それを言うなら『昔好きだった男の元妻の服を纏う私』だろ?」と、俺もカウンターを返す。


「ほー、いいね、佐渡。けど、昔好きだっただけだから。変な期待してないよね? 今はなんとも思ってないから。残念でしたーw」と、彼女が煽るように笑う。


 だが、昨夜の告白の真相や、こうして家に押しかけてくる行動を思うと、彼女の本心が読めない。


「…まあ、そういうことにしとくよ」と、俺は苦笑し、コーヒーを淹れる。


 彼女はソファに座り、コンビニのスナックをつまむ。


 まるで我が家のようにくつろぐ姿に、妙な懐かしさが胸をよぎる。


「てか、うち、オートロックなんだけど。どうやって玄関まで来たの?」と聞くと、「普通に他の住人が入っていくタイミングで合わせて入った」と、当たり前かのようにいう。


「だって、わざわざインターホン押すのだるいし、オートロックを掻い潜って入ってきたら驚くと思って」と、舌を出してそんなことを言ってくる。


 相変わらず、自由というかめちゃくちゃである。


 昼頃、我妻は何事もなかったように帰っていった。


「じゃ、またねー。死ぬなよ、佐渡!」と軽い言葉を残し、足取りも軽く去る。


 リビングに残る彼女の香水の匂い。


 一人になった家は、静かすぎる。

テレビをつけても、音が虚しく響く。

これが日常になるんだな。

ソファに沈み、ぼんやりしていると、インターホンが鳴った。


 心臓が跳ねる。


 また我妻か? いや、まさか瀬奈?

モニターを確認すると、知らない男が立っている。

金髪、派手なピアス、緩いシャツ。


 見るからに軽薄な雰囲気。

胸に嫌な予感が走る。


「…どちらさんですか?」と、インターホン越しに問う。

「よお、佐渡さん。俺は瀬奈の…まあ、元カレってとこかな」と、男がニヤニヤと笑う。


 こいつが浮気相手か。

血が逆流するような怒りがこみ上げる。

録画では確認できなかったが…こんな胡散臭い見た目してたのか。


「何しに来た?」と、声を低く抑える。

「いや、ちょっと話したいなって。5分でいいよ」と、男が気軽に言う。


 だが、目つきに胡散臭さが滲む。


「話すことも、話す気もない。帰れ」と、俺は冷たく突っぱねる。

「そっすか。まぁ…いっか」


 男は意外にあっさり踵を返す。

拍子抜けするが、胸の苛立ちは消えない。

あいつ、何のつもりだ?

モニター越しに見えた背中が、妙に頭に残る。


 午後、頼んでいた業者がやってきた。

瀬奈の荷物を運び出す。


 彼女の服、化粧品、本。

寝室に残っていた私物が、次々と段ボールに詰められる。


 共同の家具や家電は、申し訳ないが俺が使うことにした。


 この家は俺名義だし、彼女には実家がある。荷物はすべて、瀬奈の実家に送る手配を済ませた。


 業者を見送り、静かになった部屋で、親に電話をかける。

離婚の報告だ。


 母は驚いた声で「大輔、どうしたの?」と聞くが、「まぁ、色々あった」というと、根掘り葉掘りはしてこなかった。


「…そう。辛かったら、いつでも帰っておいで」とだけ言われ、胸が詰まる思いだった。


 続いて、瀬奈の両親にも連絡。

荷物を送ったことを伝えると、「何があったの? 瀬奈が…」と詰め寄られたが、「それは瀬奈に聞いてください」とだけ答えた。

嘘を並べられても面倒だったが、説明する気力もなかった。


 その後は通帳から50万円を引き出し、瀬奈の口座に送金する。


 慰謝料の話し合いは終わってなかったが、特に文句は言ってなかったし、これで一区切りだ。


 7年間の関係が、こんなにあっさり終わるなんて…と、虚無感が胸を覆う。

愛していたはずの時間、輝いていたはずの瞬間は確かにあった。

けど、すべてが、色褪せた記憶に変わる。


 夜、ソファに沈み、ビールを飲んでいると、またインターホンが鳴った。


 またあの金髪男か? 警戒しながらモニターを確認すると、そこに立っていたのは会社の後輩、三島ちゃんだった。


 小柄な体、ショートカットの髪、大きな目。いつもの明るい笑顔ではなく、どこか緊張した表情。


「…三島ちゃん?」と、インターホン越しに呟く。


 彼女がこんな時間に、なぜ?


「佐渡さん! あの、ちょっと…話があって!」


 彼女の声は少し震えている。

モニター越しに見える彼女の手には、小さな紙袋。


 何だ、これは?

胸に新たなざわめきが広がる。

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