第3話 交渉

 夜の静寂を切り裂くように、スマホの通知音が鳴った。


 ソファに沈み、ぼんやりと天井を見つめていた。

そして、意識が現実に引き戻される。

画面には、瀬奈からのLINE。


『ごめんなさい。もう2度とあんなことはしないので許してください』


 なんだこの文章…。


 どうせ浮気相手の男に、「離婚したら一緒になろう」と甘い言葉を囁かれていたのだろう。


 だが、不倫がバレ、慰謝料請求の現実を突きつけられた途端、男は瀬奈を捨てて逃げ出したに違いない。


 元々、隠れて不倫するような人間の言葉を信じた時点で、あいつの選択は終わっていたのだ。


 というか、謝るも何も離婚届はすでに提出済みだ。

あとは慰謝料の交渉か、必要なら裁判を起こすだけ。


 感情を抑え、事務的に返信する。


『すみませんが、すでに離婚届を提出済みです。あとは慰謝料の金額を相談するだけになります。不倫の回数や悪質性、相場を基に150万円程度で考えています。共同の通帳に400万円あり、通常なら250万円で折半ですが、50:350でここから支払っていただければ問題ありません。それでよろしいですか?』


 すぐに返信が来た。


『ごめんなさい。本当に許してください。お願いします』


 話にならない。共同の通帳は俺名義だし、まぁごねても無理やり通せばそれで済むだろう。

それで訴えられてその時のために証拠は取っておけばそれでいいか。


 てか、残した荷物をさっさと引き取り、消えてほしい。


 その後も、瀬奈からの通知が何度も届く。

すべて無視した。家に来られても面倒だな。

鍵を交換しようかと考えたが、ドアの上部ロックをかけておけば、俺がいる間は入ってこれない。

ひとまず、いいか。


 だが、浮気相手の男への苛立ちは収まらない。


 住所も名前も、瀬奈のLINEですでに把握済みだ。

脅しをかけてみるのも悪くないかもしれない。そんなことを考えながら、夜が更けていく。



 ◇


 夜9時過ぎ。

ベッドで寝ていると、インターホンがけたたましく鳴った。


 暗いリビングに、鋭い音が響く。

モニターを確認すると、瀬奈の姿。


 俯いた顔、乱れた髪、疲れた表情だが、どこか怯えたような目をしていた。


 その顔を見た瞬間、イライラが募った。

なんだそれ。被害者ぶってんじゃねーぞ。


 仕方なく、インターホン越しに答える。


「何だ?ここにある荷物ならお前の実家に送る予定だけど。別の送り先があるなら、住所だけ送ってくれ」と、冷たく、突き放すように言う。


「本当にごめんなさい…許してください」と、瀬奈の声が震える。


 呆れが言葉を奪う。


「…許すも何も…もう離婚届は書いたし、提出も済ませた。てか、お前もそれを承知で書いたんだろ。今更、浮気男に捨てられたから、ごめんなさいで済ませようと都合が良すぎるだろ。あと残ってるのは慰謝料の話だけ。それも送った通りだから」

「お願い…本当に、ごめんなさい…」


 彼女は繰り返す。

俺の心は動かない。

警察を呼ぼうかと一瞬考える。


 その時、モニターの端に別の影が映った。

聞き覚えのある声が、インターホン越しに割り込む。


「あれ? もしかして、あんたが奥さん?」


 我妻だ。

微かに映った長い黒髪、鋭い目元、口元のほくろ。


 黒のコートに身を包み、片手にコンビニの袋を提げている。

なぜ、ここに? 心臓が一瞬跳ねる。


「…我妻?」と、俺は思わず呟く。

「よっ、佐渡! また来ちゃった!」


 彼女がモニターに向かって手を振る。

瀬奈が困惑した顔で我妻を見上げる。


「え、誰…?」


 瀬奈の声が小さく震える。


「ん? 私? 佐渡の古い友達、我妻雪。よろしくねー」と、ニヤリと笑う。


 彼女の軽快な口調に、場が一瞬で変わる。


「で、佐渡の奥さん? なんか、揉めてんの?」

「…揉めてるわけじゃ…」と、瀬奈が言葉を詰まらせる。


「我妻、なんでここに?」と、俺はインターホン越しに問う。


「んー、なんかあんたがまた元気なさそうだし。ほら、ビールとつまみ持ってきたよ!」と、コンビニの袋を掲げる。


「で、この人、奥さん? なんか、泣きそうな顔してるけど」

「もう元妻だ」と、俺は冷たく答える。


「離婚届は提出済み。もう話すことはない」

「へー、マジで? そっかそっか。意外と動揺してないんだ」と、我妻が笑う。


 だが、彼女の目は瀬奈を鋭く見据えている。


「で、元奥さん、なんでここでインターホン連打してんの? ストーカー? 警察呼ぶ?」

「ち、違う…!」と、瀬奈が慌てて否定する。


「ただ…話したくて…」

「佐渡から話は聞いてるけど。話すって、謝罪? でもさ、佐渡が離婚届出したってことは、もう話してもどうなることでもないと思うけど? 慰謝料の方に関しては文句あるなら弁護士通してやれば?」と、我妻の声は軽いが、言葉は容赦ない。


「我妻、ちょっと待ってくれ」と、俺はインターホンを切り、玄関を開ける。


 冷たい夜風が吹き込む。

我妻さんがニヤニヤしながら立つ。


 瀬奈は一歩下がり、怯えた目で俺と我妻を見比べる。


「佐渡、開けてくれてありがとー。ほら、ビール! 飲むでしょ?」


 一旦、二人とも家に入れる。


「で、この人、どうする? 追い出す?」

「追い出すって…」と、俺はため息をつく。


「大輔…本当に、ごめん。やり直したい…」

「やり直すも何も、離婚は成立した。もう関係ない。これ何度目だよ」


 彼女の涙に、かつてなら心が揺れたかもしれない。

だが、今はただ苛立ちだけだ。


「ふーん、なかなかに泥沼な展開だねー」と、つまみを食べながら我妻が口を挟む。


「…でも…150万は…」


 瀬奈が震える声で言う。


「え、払えない? じゃあ、浮気相手に払ってもらえば? あ、でも、そいつ逃げたんでしょ? やー、男選びミスったね」と、煽る。


 すると、瀬奈の顔がさらに青ざめる。


「我妻、ちょっと…」


 俺は彼女を制する。

確かに瀬奈の動揺を見ていると、溜飲が下がる思いだ。

けど、下手に煽って何かしようと考えてるなら…。


「なに? 佐渡、優しいね。元奥さんに未練でもあんの?」と、俺をチラリと見る。


「未練はない。ただ、こんな夜中に騒がれたくないだけだ」

「ふーん。じゃ、元奥さん、悪いけど帰ってもらえる? 私と佐渡二人で飲みたい気分なんで」

「そんなの知らない!私は…!」

「てかさ、まず何で不倫なんてしたの?何が不満だったわけ?その不満は解消されたわけ?その場しのぎで復縁したいとか、言ってることがめちゃくちゃなことくらい自分でも分かるでしょ。その男に逃げられたわけじゃないなら、慰謝料持ってきて、二人で土下座でもするところからスタートでしょ。それをお金は払えません?男はどこいったか分かりません?何したかも言わなければ謝罪すらまともにせずに私を許して仲良くしましょう?ばっかじゃないの?そんなめちゃくちゃをたった150万円で終わりにしてくれるんだから、あんたはむしろ感謝するべきでしょ」


 その正論に言葉を失う。

まさにその通りだ。

結局、復縁したところでこいつの根本は何も変わらない。

冷め切った夫婦関係を今更やり直したいとか…。

その機会を断ち切ったのはお前自身だろうが。


「…ごめん…」と、小さな呟きを残して、立ち上がって帰っていくのだった。


 すると、何事もなかったかのようにコンビニの袋からビールとスナックを取り出し、テーブルの上に広げる。


「ああいう被害者ぶった女、昔から大嫌いなんだよね。…ほら、飲むよ! こんな夜は、酒しかないでしょ」

「なんか…相変わらずめちゃくちゃだな」と、俺は苦笑しながらビールを手に取る。


「メチャクチャじゃないでしょー。友達のピンチを助けに来た救世主って感じ。感謝してよ、佐渡」


 我妻が缶を開け、一気に飲む。


「てか、元奥さん、めっちゃ弱ってたね。ありゃ、やっぱあっちにも捨てられた感じだろうねー」

「自業自得だけどな」


 俺はグラスにビールを注ぎ、一口飲む。

冷たい苦味が喉を滑る。


「そうだね。その通り。私もさっさと離婚するかな。証拠はある程度集まったし。でもさ、浮気相手の男、住所わかってるなら、ちょっと脅してみたら?」

「…考えてたところだ」と、俺は答える。


 きっちり落とし前はつけたいところではあるが…もう関わりたくないというのも本音だ。


「いいね、佐渡、意外とダークなとこあるじゃん」

「むかつくからな。そりゃ」

「そっか。んで、どうすんの? このあとは…引っ越し?」

「そうだな。まずは引っ越しかな」

「そっか。でも、ここなかなかいい家よねー。あっ、名案思いついた。私とここで同棲しない?」


 ビールの泡が弾ける音が、リビングに小さく響く。


「…は?」

「いや、引越しとかまたお金かかるし、あんたの場合いろんなものの住所変えたりめんどいっしょ。私も家を探すのだるいし、ここからなら職場も近いしいいかなーって。ルームシェアってやつ?折半したら安いしー、家具家電を買い直すのもめんどいしねー」

「いや…それはちょっと」

「何?嫌なの?人肌恋しい時は添い寝くらいはしてあげるけど?料理も作ってあげるし?文句なくない?」

「いや…しばらくは一人になりたいから」

「ふーん。そっ。まぁ、じゃあいいや」


 相変わらず本気なのか冗談なのかよく分からない人だ。

けど、ようやく…前に進めそうだ。


 こうして、俺の新しい人生が始まろうとしていた。

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