第2話 離婚と告白
家には帰れなかった。
あの寝室の光景が、頭の中で繰り返される。
瀬奈の白い肌、知らない男の背中、ベッドの軋む音。
吐き気を抑えながら、夜の街を彷徨った。
ふらりと見つけたネットカフェのネオン看板。古びたビルの二階、狭いブースに身を落ち着ける。
蛍光灯の冷たい光、隣のブースから漏れるキーボードの音、エアコンの低いうなり声。
個室のソファは固く、薄い毛布が肌に触れるたび、妙に現実感を突きつけてくる。
スマホを手に、録画した映像を消そうかと一瞬考えるが、やめた。
感情に流されるわけにはいかない。
瀬奈との7年間が、頭をよぎる。
それが、こんな形で終わるなんて。
愛は枯れ、残ったのは冷たい決意だけ。
それが、俺の選んだ道だ。
だが、どれだけ覚悟を決めても、胸の奥に重いものが沈む。
冷め切ったと思っていたのに、どこかで瀬奈を大切に思っていた自分に気づく。
マンネリ化した日々、すれ違う会話。
それでも、彼女が俺の妻だった時間は、確かにあった。
目を閉じても、眠りは訪れない。
朝が来るまで、ただ天井を見つめていた。
◇
翌朝、会社に向かう。
スーツの襟が妙に重い。
オフィスの蛍光灯は眩しく、モニターの光が目に刺さる。
書類を整理する手が止まり、頭は昨夜のことでいっぱいだ。
結局、そのせいでミスを連発し、同僚の視線を感じる。
昼過ぎ、上司の佐藤さんが肩を叩いてきた。
「おい、佐渡。お前、大丈夫か?」と、心配そうな目を向けながらそう聞かれた。
「…はい、大丈夫です」と、言葉が空虚に響く。
「いやいや、絶対大丈夫じゃないだろ」と、佐藤さんがため息をつき、席を立つ。
「ちょっと待ってろ」
数分後、佐藤さんは有給申請書を手に戻ってきた。
「今日は帰れ。仕事のことは俺がなんとかする。そんな状態じゃ、ミスが増えるだけだ。何があったかは知らんが…」
「…すみません。実は、妻と離婚する予定で…」と、言葉が口をついて出た。
佐藤さんが目を丸くする。
「お前…そういうのは先に言えよ。ったく…有給は消化しないとな。1週間、休め」
「でも…」
「いいから。行け」
その声を押し返す力はなかった。
頭を下げ、オフィスを出る。
覚悟していたはずなのに、離婚という言葉を口にすると、ずっしりと重いものが体にのしかかる。
それから市役所に立ち寄り、離婚届を受け取る。
家に向かう足取りは重い。
昼過ぎの住宅街、静かなアパートのドアを開ける。
瀬奈は今日、休みのはずだ。
玄関を開けると、瀬奈がリビングのソファに座っていた。
テレビの音が小さく流れ、彼女の手にはスマホが握られていた。
そして、俺の姿を見て、目を見開く。
「…早かったね」と、微かな動揺が感じられる。
【挿絵】
https://kakuyomu.jp/users/tanakamatao01/news/16818792437861156567
「うん。午後休をもらって」と、淡々と答える。
内心、彼女が何を考えているか、容易に想像できた。
危なかった。そう思っているのだろう。
徹夜の疲れと、過剰なストレスで意識が朦朧とする。
そのままカバンから離婚届を取り出し、テーブルに置く。
「…離婚してくれ」
小さな声で、だがはっきりと告げる。
瀬奈が凍りつく。
紙を見つめ、言葉を失っていた。
俺は無言で寝室に向かい、着替える。
スーツを脱ぎ、寝巻きに着替えてリビングに戻ると、瀬奈は離婚届を手に持っていた。
明らかに動揺している。
だが、その目は「離婚したくない」というものではない。
きっと、原因を暴かれる恐怖と、言い訳を必死に考えているのだろう。
「…なんで…?」と、小さな声で、彼女が呟く。
「なんで、か。自分が一番わかってるだろ」と、俺は冷たく返す。
「本当に心当たりがないなら、それこそ未練はなくなる」
「こ、心当たりなんて…」彼女の声が震える。
もう、どうでもよかった。
スマホを取り出し、昨夜の録音を大音量で再生する。
瀬奈の声、男の声、ベッドの軋む音。
彼女の顔が青ざめる。
「それ…!」
「これ以上、説明が必要か?悪いが、俺はもう疲れた。離婚届を提出したら、弁護士を雇って慰謝料を請求する。証拠はこれだけじゃない。LINEのやり取りも、全部撮ってある。相手にも、そう伝えとけ」
瀬奈の手が震えながら、膝をつく。
それでも、無理やり離婚届にペンを走らせるのを見届けた。
その姿を見ていると、僅かに胸が軽くなった。
彼女は、俺がこんな決断をするとは思っていなかったのだろう。
昔から、受け身だったから。
彼女はそれをわかっていたはずだ。
だが、もう違う。
描き終わった書類を手に、俺はソファに倒れ込む。
疲れが一気に押し寄せ、泥のように眠りに落ちた。
◇
目が覚めた時、部屋は真っ暗だった。時計は夜7時を指している。
瀬奈の姿はない。
彼女のスマホも、鞄もなくなっている。
どうせ浮気相手の家にでも逃げ込んだのだろう。LINEのやり取りから、相手の名前と住所はすでに把握済みだ。
逃げられると思うなよ。
「…はぁ、めんどくさい」
呟きながら、スマホを確認する。
通知が一通。
我妻からのLINEだ。
『離婚の話、どうなったー?』
軽い文面に、苦笑する。
『終わったよ。離婚届に書いてもらった。あとは提出するだけ』と返す。
すると、すぐに返信が来た。
『そかそか。なんなら私が慰めてやろうか?』
相変わらずの軽いノリをかましてくる。
『いいよ、そういうのは。そっちは離婚してないんだから、危ないだろ』
『いやいや、あんたみたいな地味顔で不倫とか、誰も思わないってw』と、失礼極まりない返信に、思わず笑ってしまう。
けど、『少し一人になりたい』と送り、スマホを放り投げる。
ベッドに倒れ込み、ぼんやり考える。
引っ越しもしなきゃな。
この家は広すぎる。
一人暮らしには金もかかる。
慰謝料で引っ越し代を賄いたいが、相手が逃げようとしているなら難しいか。
そんなことを考えながら、再び眠りに落ちてから、どれくらい経ったか…玄関を叩く音で目が覚めた。
バンバンと、乱暴な音。
心臓が跳ねる。
まさか、相手の男が乗り込んできた?
いや、落ち着け…。
鍵はまだ持っているはずだ。
わざわざドアを叩く必要はない。
謝罪に来たのか?
モニターを確認すると、そこに映っていたのは我妻だった。
「…え?」
仕方なく玄関を開けると、「おっそい! 何してんだよ!」と怒鳴られる。
「いや…なんで俺の家を…」
「中学の時の友達から聞き出したよ。そんくらい分かるでしょ。てか、なに? 一人で変なことしてた? 全然出てこなかったじゃん」
「…寝てただけだ」と、安堵から俺はため息をつく。
バーで再会した時より更に昔の戻ったようなその感じがなぜか、胸が少し温かくした。
「何、ニヤニヤしてんの?マジで変なこと考えてんの? 通報するよ?」
「考えてない。で、なんで家に来たんだ?」
「いきなり連絡途絶えたから、自殺でもしたんじゃないかって。私とのやり取りが最後で死なれたら気分悪いし。てか、本当に出てこないから、警察呼ぶとこだったわ」
こういう突っ走る性格も、昔のままだ。
昔はもっと清楚な見た目をしており、それとは対照的に裏腹な口の悪さ。
10年前、俺が惹かれたのはきっとそのギャップにだった。
「いい家じゃん。結構いい会社に勤めてる?」
勝手に電気をつけ、リビングを見回す。
「普通だよ。営業職で、去年は600万くらい」
「600!? その歳で!? …でも、残念。私の旦那は1200万だからね」と、他人の褌でマウントを取ってくる。
「離婚する旦那でマウント取るなよ」
「確かに。あと少しでこのマウントも終わりか」
「てか、本当に家に来て大丈夫だったのか?」
「別に? まだここは夫婦の家だし、やましいことしてないから、証拠にもなんないでしょ」と、淡々と答え、冷蔵庫を開ける。
「もし、俺の妻が出てきたらどうするつもりだったんだ?」
「追い出すつもりだった」と、真顔で即答。
この性格…相変わらずだ。
「…それやられると、俺が裁判で不利になるからやめてくれ」
「ふーん、裁判まで行く? 示談で済ませたいなら、早めに動いた方がいいよ」
キッチンに立ち、勝手に料理を始める。
「料理、できるんだ」
「舐めんな。人妻だぞ? 料理くらいできなきゃ。てか、人妻って、エロい響きだよね。人夫って全然エロくねーけど」
「…よくわかんないこと言うな」
「ほら、ソファで待ってな。ジロジロ見られたらやりづらい」と、追い出され、俺はソファに座る。
そこで昨日から何も食べてなかったことを思い出す。
出来上がったのは、トマトソースのパスタ。
香りが食欲を刺激する。
「…うまそう」
「当たり前。料理は私の108の特技の一つだから」
「108個は煩悩の数では?」
「煩悩を特技で相殺するのが私だから」と、軽快に笑う。
そして、一口食べると、驚くほど美味い。
「…マジでうまい」
「でしょ? パスタは自信あるから」
それから彼女も食べ始める。
こうして、よくわからない状況で、二人で晩飯を食べた。
テレビの音が流れ、気まずい沈黙が続く。
ふと、我妻が呟く。
「あの時、ごめん」
「…あの時?」
「告白の時。本当は…OKするつもりだった」
彼女が目を逸らし、続ける。
「私から告白しようと思ってたのに、先に言われて。恥ずかしくて、パニックになって、友達も近くにいたから、キツいこと言っちゃった。人生で一番、後悔してる」
「…そう、だったのか」
予想外の言葉に、胸がざわつく。
「バーの時、あんたが現れて、ビビったよ。運命かと思った。ちょっと、ちびったくらい。…あっ、今変な想像したでしょ」
「…してないから」
「うそ。絶対してた。キモ。まぁ、所詮は昔の話だから。今は何とも思ってないけど」
またしても気まずい空気が流れる。
まるで、10年遅れの告白のようだ。
「じゃ、帰るわ」
すると、突然立ち上がり、玄関に向かう。
相変わらず嵐のような人だ。
だが、彼女の後ろ姿を見送りながら、胸に微かな火種が灯るのを感じた。
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